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2008年09月29日

アメリカの金融制度はどこから来てどこへ行くのか その2

前回の続きの記事です。まだ前回の記事をお読みでない方は、そちらをお読み頂いてから、この記事を読んで頂けると助かります。


アメリカの金融制度はどこから来てどこへ行くのか


相変わらず、ゲームばっかしてました。すいません。自分でも狂ってると思います。廃人です。PCとゲームとネットが無いと生きていけません。

ゲームしている間にも世界の金融はなんだか今にもぶっ壊れそうな勢いで、しかも世界経済にデフレ圧力としかいいようがないものが働いている上に、こないだの記事書いてから、他の方が、色々書いてて、

小泉純一郎氏の遺産

ウォールストリートの歴史的1ヶ月

上記の記事は、いくつか僕が書こうと思ってたことが書かれてあって、僕が書くことどんどん減ってくなーと思いつつ書いております。興味のある方は、上記の記事を是非。


それはともかく、続きです。


第四章 なぜ銀行は規制されねばならなかったか


 ・1 銀行は何故必要とされたのか


この話は、第一章で話した「銀行のはじまり」と強く関連しています。なので、この先は、第一章を読んでからお読み頂けると助かります。


僕は、第一章で、銀行を、「貨幣的機能(預け入れと支払い)と貸し付け機能の二つをもった存在。金融仲介者。」と定義しました。


しかし、これだけだと、何故、銀行が必要とされたのかについてよくわからないと思います。ここで、何故、銀行が必要だったかをまずお話します。


銀行とは、他の全ての仲介を生業とする産業と同じく、システム内に非効率が存在するが故に生み出された存在です。いわば、システム内の非効率に寄生して生きているんです。銀行が登場する前には、経済というシステムの内部においては、ある重大な非効率が存在していました。


銀行業が登場し、財産権が確立する以前においては、ある個人に貸し付けを行ってくれる人は、その人の親族や親しい友人にほぼ限定されていました。現在でも、貸した金は踏み倒すのが当たり前とかいう国では、それしか金を借りる手段がなかったりもするわけです。


しかし、この状態では、借り入れるお金の大きさが必然的に制限されます


親族や友人からしかお金を借りられないのでは、大規模な資本を使って工場を建てるなんてことはできませんし、大勢の人を雇って新しい事業を始めることは出来ません。


そのため、価値のある様々な技術があっても、又、革新的なアイデアがあったとしても、借り入れるお金の大きさに制限が存在するために、画期的な要素を土台とした経済発展は当然の如く制限されるんです。


しかし、銀行、ここでは、「貨幣的機能(預け入れと支払い)と貸し付け機能の二つをもった存在。金融仲介者。」が出現し、この二つの機能を結びつけたとき、巨額の富をより生産的なシステムを生み出すために使用することが可能になったんです。


金融システム、特に銀行の登場と発展は、それ以前の世界において、経済発展を抑制してきた非効率を改善したんです。


つまり、貸し手と借り手を効率よく結びつけることによって、画期的な技術やアイデアに対して大規模な資本を提供し、経済の生産性を劇的に上げるという形で。


銀行、つまりは大規模な金融仲介者が存在しない世界では、この機能が存在しないが故に、経済発展が制限されてきました。その非効率を改善することで、銀行は飯の種にありついたんです。そして、資本主義を支える一つの土台となったわけです。自ら、それを望んでそうなったかどうかはともかくとして、結果的にそうなったんです。


ここは非常に重要な点なので、繰り返しますが、技術のみで世界を変えることは出来ません。何故なら、技術を使って世界を変えるためには、そのために大量の人材や資本が必要とするからです。


しかし、借り入れるお金の大きさに制限のある世界では、そういった発展は当然の如く制限され、淘汰されざるを得ません。しかし、銀行は、この非効率を改善したんです。借り入れの大きさや機会を劇的に大きくしたことよって。


あくまで改善した、にすぎませんが、この進歩は劇的であり、銀行は、まさにこの仲介機能の重要性から資本主義の要石の一つとなったんです。技術と金融は、言ってみれば、資本主義の両輪なんです。



 
   ・2 銀行のもつ問題点
 
しかし、また、資本主義を支える要石の一つとなったが故に、銀行は問題も抱え込みました。技術の発展が人類の歴史に正と負の両面の影響をもたらしたように、金融の発達も又、正と負の両方の影響をもたしたんです。


銀行がもたらした金融仲介という機能は、そのあまりの利便性故に、貸し手と借り手の双方に多大な便益をもたらしました。上述した通りです。


しかし、それがあまりに利便性に富んでいたが故に、貸し手と借り手はそれに依存していきました。


そして「第一章 銀行のはじまり」で述べたことですが、貨幣的機能と貸し付け機能が結びつけたことによって、銀行はリスクを背負い込みました。


そのリスクの中でも、もっとも大きなリスクが、「銀行取り付け」であり、いったん、銀行取り付けが起こった場合には、個人のみならず、産業、最終的には政府ですら破滅に至らせることができる性質をもっていたんです。


第三章で、銀行取り付けに始まった金融危機が最終的に世界大不況に至った経緯を紹介しましたが、銀行という金融仲介者は、世界に繁栄を作り出せる機能をもつと同時に世界を破滅にいたせる機能も持ち合わせていたわけです。このあたりは技術も同じなんですが。


そして、このような銀行が始めから背負っていたリスクや不安定性を取り除くために、ニューディール期のアメリカでは、金融システムの中心である銀行業と金融制度に改革が行われるに至ったんです。特に、銀行取り付けを予防し、金融システムのメルトダウンを防止することが望まれました。


そして、その改革は、銀行にある種のセイフティネットを設け、金融システムが破綻しないようにすると共に、セイフティネットがもたらすモラルハザードを防ぐために、幾つかの規制を銀行にもたらしました。(火災保険に入ると火元のチェックを怠る人が増えるので火事が増える的な事を防ぐためです)


これが銀行が規制されねばならなかった理由です。


結論を述べておきますが、この改革は、その後30年にわたって上手く機能し、世界に繁栄をもたらしました。しかし、後の章で紹介していきますが、それは永遠というわけではありませんでした。



  ・3 銀行業に対するセイフティネットと規制


ここでは、ニューディール時代のアメリカで作られ、その後30年にわたって(今でも存続している制度もありますが)金融の基礎となったセイフティネットと規制を紹介します。大きなものだけですが、これらのセイフティネットと規制は、銀行にほとんどの金融システムを独占させるものとなりました。



 預金保険制度

預金保険制度が作られた理由は単純かつ明快です。銀行取り付けを防ぐためです。

そのために連邦預金保険公社、FDICが作られました。預金保険がつくられたことにより、預金者は、自分の預金勘定が、政府によって保証されたわけであり、預金取り付けという行動をする必要はなくなったわけです。政府が保証してくれる限り、自分の預金は安全ですからね。


設立に関しては、一悶着あったんですが、ここでは割愛します。最終的に、議会は、小口預金者は完全な保護を、大口預金者には部分的保護をすることで決着しました。ここで、小口預金者と大口預金者で扱いが違うのは、モラルハザードを防ぐためです。


預金保険は、銀行取り付けの発生確率を著しく下げました。これは預金保険が作られてからの銀行取り付けの頻度の減少からもわかります。ガルブレイズは、預金保険制度を指して、これほど成功した規制は他にないと言いました。それほど劇的に、かつてもっていたリスクを軽減したからです。しかし、当初から、これはある種の問題ももっていました。


ここで重要なのは、預金保険によって銀行取り付けのリスクは減少しても、銀行の詐欺や投資などからのリスクからは減少しないどころか逆に増えるという点です。


保険に守られている預金者にとっては、どの銀行も安全です。それ故、良い銀行も悪い銀行も全てが守られてしまいます。


そもそも、銀行の経営者は、預金保険があるなら、無限のリスクを取ってもおかしくありません。何の規制もない預金保険つきの銀行というのは、「勝ったら利益は総取り、負けた金は全部政府が保証してくれるカジノ」に他なりません。


賭けに勝ったら利益は自分のもの。負けたら政府が払い戻しをしてくれる。こんなゲームのルールが敷かれたら、銀行経営者のやることは無限のリスクをとって勝つまでやり続けるだけです。


これは預金保険がもたらしたリスクです。規制ですらリスクをもたらす、ってのの典型例なんですがね、これは。(不幸にもこの通りのことが後に起こるわけですが、それは後の章で)


そのため、小口預金者は預金保険によって預金勘定を保証されているため、銀行監視の役割は、大口預金者と政府がになうことになりました。前者には、その役割があまり期待できないが故に(情報の非対称性)、より多くの責任が政府に降りかかりました。


銀行がリスクを取りすぎないように、監視する誰かが必要でした。そして、その役目は、最終的に、FDIC、FRB、通貨監督官に課されることになったわけです。


預金保険制度は、まず第一に銀行が規制されねばならなかった理由です。これは、銀行取り付けを防いではくれますが、銀行の不味い貸し付け、詐欺、経営の失敗のリスクを逆に増やす性質をもっていたからです。


もう一つ。預金保険は他の金融サービスの提供者にとっては普通に脅威です。これがあるが故に、銀行は通常より安くお金を集めることが可能であり、資金調達コストを引き下げる効果があるからです。これは預金保険をもつ銀行が金融を長い間独占することを可能にしました。しかし、それも永遠ではありませんでしたが。




  ・連邦準備制度(FRB)の強化

連邦準備制度、FRB(アメリカの中央銀行)の設立の話から始めると長くなりすぎるので、かいつまんで話しますが、FRBは1913年に設立されました。当初の目的としては、マネーサプライに柔軟性をもたせるためです。


それ以前の時代であれば、銀行は資金が必要な時には短期資金を借りたり、商業手形を売ったりするしかありませんでした。が、それは当時の銀行制度ではリスクのある行為でした。


例えば、1907年、ロンドンの米銀の手形割引拒否がきっかけで恐慌がおきたりしてました。資金調達ができなくなった米銀は大混乱に陥り、不安は伝播し、銀行取り付けが起こったんですね。


この際に英雄的な行動を起こしたのが、ジョン・P・モルガンであり、NY中の銀行から準備金を拠出させて資金プールを作り、財務省とかけあって国庫金を放出させ、取り付け騒ぎにあった銀行を救済したんです。


アメリカは、その銀行制度上、1923年まで中央銀行にあたる銀行が存在しておらず、通貨の発行業務は商業銀行に任されていました。当然といえば当然なのですが、通貨を創り出す能力を与えられているが故に、商業銀行は規制を受けており、信用の供与はかなり制限されたものでした(不動産を担保にすることがみとめられていなかったりした)。


そのため企業金融などに関しては、投資銀行のほうが主役だったんです。アメリカで投資銀行の地位が高いのは、そういう歴史的経緯があって、間接金融より直接金融のほうが発達を遂げた理由もこういう歴史的な経緯があるわけですが。


モルガンは、この一件の後、中央銀行の設立のプランに積極的になり、また議会も、次に金融危機が起こったときに、又、モルガンのような人物がいるとは限らないという理由で中央銀行の設立に向かって進み始めます。紆余曲折はあったにせよ、そういった経緯で最終的にFRBは設立されました。


ただ、設立初期のFRBの機能は、「最後の貸し手」としては非常に弱いものでした。特に不味かったのは、加盟銀行が適当な担保をもっていない場合には、FRBから借り入れることが出来ないと言う点で、これは後の悲惨な結果、つまりは世界恐慌の原因の一つともなりました。


1914年、大戦勃発時に最初の危機がFRBを襲ったんですが、時のニューヨーク連銀の総裁の英雄的な活動によって切り抜けることができました。しかし、1929年、FRBには、適当な人物がおらず、混乱の最中、金が海外に流出するのを恐れて金利を引き上げたわけです。その後のことは、第二章で紹介した通りです。人って大切ですね。


明白な中央銀行の機能の失敗を目にしたアメリカは、FRBを本当の意味で中央銀行に変えるための改革を行いました。


重要な変更点としては、担保や金準備の制限の緩和です。担保がないと中央銀行から金を借りれないってのは明らかに問題でした。特に、大恐慌時には、多くの銀行が危険に瀕していたので、FRBは加盟銀行に対する貸し付けの担保として貸し付け債権を認めなくなかったんです。そうせざるを得なかったんです。当時の状況では。


それ故に取り付け騒ぎにあった銀行は、中央銀行から十分な信用を入手できない為、貸し付けを減らして、資産の投げ売りを開始したので、経済全体にデフレ圧力が降りかかりました。また、FRBが資金を得られないので、当然の如く、加盟銀行は非加盟銀行に貸し付けることもできません。結果として、銀行間の短期融資も滞り、金融システム全体が麻痺する事態に発展したんです。結果は、完全な金融システムの崩壊でした。


ようするに、大恐慌時のFRBは最後の貸し手としての役割を放棄した上に、取り付け騒ぎにあった銀行から急速に金がなくなったので金本位制を守るため金利を引き上げるという最悪の手段にでるしかなかったわけです。それはデフレを加速させ、銀行倒産と企業倒産、失業者の増加の連鎖を引き起こしました。


FRBが考え得る限り最悪の手段を使ってアメリカ経済を1929〜1933年にわたって崩壊させた後、ようやく、FRBを本当の意味での中央銀行に生まれ変わらせる改革が行われました。


担保や準備金の制限の緩和と廃止、公開市場操作のための制度の整備が行われ、究極の流動性の供給者、最後の貸し手としての中央銀行がアメリカに誕生したわけです。


それから、これは重要なことなんですが、預金保険制度と、FRBはそれぞれ役割が違います。いずれも金融システムの崩壊から経済を守るためのものですけれども。


預金保険と銀行規制は、銀行取り付けに起因する金融危機を予防する役割を担っています。


一方で、FRBは、起こってしまった金融危機の影響を最小限に食い止めるためのものだということです。


いってしまえば、預金保険は風邪の予防薬であり、FRBは実際に風邪を引いてから飲む薬という所です。また、守る範囲も違います。預金保険は預金者を守りますが、FRB(中央銀行)は金融システムを守るために存在しています。



 ・証券業務規制、参入規制、金利規制

ひとつずつ話すと長くなるので、ここは全部一緒にして紹介します。どれも重要な規制なんですが、このどれも、現在では崩壊した規制だからです。まぁ、他の預金保険にしろ、FRBにしろ、ある程度崩壊しつつあるんですが。


証券業務規制は、証券法によるものです。1933年、議会はグラス・スティーガル法によって、商業銀行から証券業務を取り上げました。これは、当時のアメリカ議会が、1929年の株式市場のクラッシュを、銀行が株式や債権を保有しつつ、一般投資家に販売する前にその価格をつり上げようとしたり、インサイダー情報を使って売り抜けを図ったりする慣行に求めたからです。


ただ、こういった不道徳な行為が違法とされたのは、証券法によってであり、それだけでも十分だったのですが、ここでは二重のセーフティーネットを使ったわけです。


とはいえ、実質的には、この規制は、その後、意味のないものとなりました。この話は、1980〜90年代におきた「正直な会計」の崩壊の話を後の章で扱いますので、そこで詳しく話したいと思います。この悲しい物語も、テクノロジーの発展、とくにコンピューターの発展が背景にあるのですが。


参入規制と金利規制は、どちらも銀行を過当競争から守るために作られました。当時のアメリカ議会は、過当競争が1930年の金融崩壊を招いたと考えていたからです。まぁ、その後の研究でそんなもんはなかったとされてはいますが、当時はそう考えられていたんです。


まぁ、1929年のバブルの原因だって、銀行の不道徳な相場操縦だけで起こせるもんじゃなかったんですけどね。


最終的に、参入規制は大銀行による中小銀行の駆逐を防ぐ手段として機能しました。これは預金保険制度と同じです。小口預金者にとってはどの銀行に預金を預けても、原本は保証されますから。


一方で金利規制は、30日以内しか銀行に止まらない資金への利息の禁止、上限金利の設定によって銀行の利益を増やす事になりました。それも極めて安定的に。


こうして、参入規制と金利規制を得たアメリカの銀行は、まぎれもない独占体となりました。銀行間の競争からも他の金融仲介者との競争からも保護され、その上、馬鹿げたほど簡単に利益がでるような免許をもらったようなものだからです。


ただ、次の章でみるように、そのような銀行の繁栄は、思いもよらぬ所から現れた蛮族の勃興により、永遠に破壊されることになります。


  ・まとめ

現実の経済システム内には、多くの非効率が存在し、その非効率が存在する故に必要とされる仲介企業が存在する。


銀行とは、金融仲介システム内に非効率が存在するが故に生み出された存在。


銀行のような金融仲介システムの存在しない世界では、借り入れるお金の大きさに制限が存在するために、画期的な要素を土台とした経済発展は当然の如く制限される。銀行は、貸し手と借り手を効率よく結びつけて、その非効率を是正することによって、富を生み出している。


しかし、貨幣的機能と貸し付け機能が結びつけたことによって、銀行は、その生誕の時点から、大きなリスク、ここでは銀行取り付けに弱い、を抱え込んでいる。


銀行は、その利便性、効率性から社会に大きな富をもたらすと同時に、崩壊した場合には、個人、企業、国家そのものを破滅に追いやりかねない力を持つにいたってしまった。その力の大きさは世界恐慌という形で示された。


ニューディール期のアメリカでは、そういった不安定性を取り除くために、銀行が破綻しにくく、取り付け騒ぎが起こりくいセーフティネットを導入した。その上で、セーフティネットがもたらすモラルハザードを抑制するために銀行に数々の規制を行い、金融システムを守る最後の砦としてFRBを設立した。


ニューディール銀行体制は、その後、30年間ほど上手く機能した。



「第五章 コンピューターがやってきた」に続く。次からがやっと本論です。今回はあんまり面白くない話だったかもしれませんが、次の話をするのに、どうしてもしとく必要がある話だったんで。

2008年09月24日

アメリカの金融制度はどこから来てどこへ行くのか

えー、実は、書かなきゃいけないエントリがあるわけですが、ちょっと最近、他のこと(ゲーム、甥と遊ぶ、etc)があったせいで、サボってました。すいません。


と、そんなことをしている間にも世界はどんどん動いてまして、とうとう先日、


【ワシントン=大隅隆】米政府は19日、金融危機の拡大を防ぐための総合金融安定化対策の大枠を固めた。(1)公的資金を使った不良資産の買い取り機関を創設する(2)貯蓄性の高い投資信託MMF(マネー・マーケット・ファンド)の保護に政府基金最大500億ドル(約5兆4000億円)を使う(3)金融機関株式の空売りを全面禁止する――などが柱。投入する公的資金の規模は数千億ドル(数十兆円)にのぼる見込み。焦点の金融機関の不良資産買い取り策は来週中の決定に向け議会と最終調整を急ぐ。


米、金融安定へ総合対策 公的資金「数十兆円」、貯蓄型投信を保護



ってニュースが出て、衝撃的な展開と至ったわけです。



一方これまで投資銀行はFRBから独立し、その分より効率的な業務を行い、多少のリスクを物ともせず、資本市場を有効に機能させ、当然配当や、彼らの給料は商業銀行のそれをはるかに凌いできたのだ。

しかし棄損した資本の修復はもはや不可能で商業銀行としてFRBの足かせを受けることと引き換えにその資本とブランドの保護を優先した結果がこれだ、と言える。

100年に一度・・・・まさにこれも100年に一度の歴史的ムーヴメントと言っていいだろう。 日本の新聞ももう少しこのあたりをきちんと伝えてもらいたい。

いずれにせよ、純粋な投資銀行という業態は本日をもって消滅したことになる。


アメリカ金融帝国の終焉



で、まぁ、ぐっちーさんとこで、こんな記事も出てるわけですけど。


で、なんですけどね、今、苦境にあえいでいて、死にかけのアメリカの金融界なわけですけど、アメリカの金融において、本気で死にかけているのって、金融というより、むしろ銀行だと思っているんですよ、僕。


というか、銀行ってシステムが死にかけ始めたのは、今に始まったことじゃなく、大体、1970年代から始まった動きであり、それは、今回の金融危機のせいじゃないんです。今回の危機の直接の原因は、サブプライムに端を発した問題でしたが、それは直接の危機の原因であって、アメリカの銀行の苦境の背景ってわけじゃないんです。アメリカの銀行は、もうずーっと前から苦境に立たされており、その原因の背景は、サブプライム問題とは、全く別の場所にあるんです。


だから、今日は、そのあたりの問題について、話そうかな、と。本当は、もっと早めに書きたかったんですけど、結婚した妹が甥をつれて遊びにきてて、甥があんまりに可愛いので、そっちにかまけてて、何もできず、今日になってようやく書き始めたんですけどね。

序章 銀行を殺した蛮族


銀行はかつて、紛れもない独占体でした。独占企業という定義を探したければ、かつての銀行こそ、それを体現した存在だったんです。銀行は、政府からの手厚い保護をもらっており、新規参入は規制されており、それゆえ確実に利益をあげることができる存在でした。大恐慌から1960年代あたりまで、銀行の倒産は、主に詐欺などによる経営者側の怠慢によるものでした。


銀行とは、言ってみれば、高い城壁によって囲まれた白銀の塔だったわけです。しかし、銀行の繁栄は、永遠ではありませんでした。彼らは、独占企業が常にそうであるように傲慢になり、企業努力でなく、独占によって利益を引き出す存在になっていました。そして、彼らは、知ってから知らずか城塞のうちに蛮族を引き入れてしまったんです。


かつて、ゲルマン人を傭兵としてつかったローマが、その後ゲルマン人によって滅ぼされたように。


この物語は、ある意味で、現在進行中のメディアとインターネットの関係においても当てはまります。メディアは、かつては独占企業でした。


マスコミって一昔前の銀行業界みたいだよね

以前、R30さんがこんなエントリ書いていましたが、メディアは、初期において、インターネットを無邪気に礼賛していた時期もあります。それが、現在の苦況をもたらすとも知らず。ヤフーに格安でニュースを提供した新聞社のように。


しかし、ネットは、紛れもなく、メディアに対する蛮族でした。かつて、メディアは、その資本や政府からの規制によって市場を独占していました。日本では間違い無く、今でもそうです。しかし、ネットは、メディアを守っていた城壁を破壊してしまった。ネットとは、メディアの独占を守ってきた門に打ち込まれたくさびでした。


それは時来たらば、門を割って城壁の中に蛮族を招きいれ、略奪への道を拓くもの。


揶揄的な表現を使いましたが、アメリカのメディア、特に新聞の苦況が明らかになるにつれて、メディアはようやく自分たちを守っていた城壁がもはや存在しないことに気づいた節があります。彼らを守っていた城壁はもはやなく、蛮族が自分たちの塔の下に迫ってきたことをようやく知った、というのが今の状況でしょう。


銀行が知らず知らずに、自分の城壁の中に招き入れてしまった蛮族。


それは、コンピューターと言いました。眼鏡をかけた小太りのギーク達----コーラを飲んでハンバーガーを食べる文化の体現者−−−−のおもちゃだったコンピューターは、ムーアの法則の下、指数関数的な成長を遂げ、銀行の独占という門にくさびを打ち込んだのです。スーツを着てワイングラスを傾けるバンカーの文化とは相容れなかった二つの文化の衝突は、銀行という産業の変化の始まりでもありました。そして、銀行の凋落の。


銀行にとってのコンピューターとは、メディアにおけるインターネットに相当するものでした。諸刃の剣だったんです。自ら利用することができるが、自らを殺しもする便利な道具。


第一章 銀行のはじまり

現状の銀行の苦況を説明するために、そして、何故、コンピューターが銀行にとっての蛮族となったのかを理解するには、ニューディール時代のアメリカまでさかのぼる必要があります。


マーチン・メイヤーは、その著書「バンカーズ」でこんなエピソードを紹介しています。ある長年銀行につとめた職員が「貴方が銀行に勤めてから何が変わりましたか?」と問われた際に「クーラーがつきました」と答えた話です。銀行は、ある時期までは、ほとんど業務内容が変わりませんでした。


かつて、銀行は、9時から3時くらいまでしか営業していませんでした。これは彼らが怠慢であったからでなく、様々な引き出しや貸し付けなどの計算をしたり、数字の帳尻をあわせるためには、それなりの時間がかかったからです。そのためには人の手による強力な会計システムが必要であり、それを提供できる人員をもてたのは銀行くらいのものだったわけです。


これは、銀行を独占企業たらしめた原因の一つでした。彼らは、ある意味では、銀行を守る衛兵だったんです。他の企業がもってない強力な。銀行を守っていたのは、政府による規制、そして、こういった人々でした。


この二つの障壁こそが、銀行を守っていたものの正体であり、彼らのビジネスモデルが優れていたからではありません。銀行のビジネスモデルは単純なものでしたから。


これは、今のメディアとインターネットの関係にも当てはまります。メディア、特に新聞の独占は、政府からの規制と日本の優れた宅配制度によるものだからです。しかしネットは後者を破壊してしまった。誰でも世界にむけて発信できる力を与えてしまった。インターネットに接続できさえすれば。これは、誰にでも新聞がもてるということを意味します。門は開かれてしまったんです。


この話は後にまわすとして、銀行は、そのビジネスモデルの性質上、「短く借りて長く貸す」が宿命となります。


どういう事かというと、ちょっとした例え話をしますが、とある所に頑丈な金庫をもった金庫番がいたとします。その金庫番は、とても強くて、泥棒なんか簡単に撃退することができたとします。


ある時、金をもっていた人達は、自分達で金を保管しておくより、その金庫番に金を預けた方が安心だという事を発見しました。そして、金を金庫番に保管してもらう見返りに手数料を払うようになりました。


金庫番は、最初手数料をとるだけで満足でした。十分儲かったからです。しかし、そのうち、金庫番の真似をする人達が現れて、だんだん、もらえる手数料を下げないと、お客は金は預けてくれないようになりました。


困った金庫番ですが、金庫番は、ある顧客の金の引き出しは、他の顧客の金の預け入れによって相殺され、金庫の中の金の量は、ほとんど一定だということに気づきました。


そこで、金庫番は、一計を案じました。手数料をほとんどタダ同然に安くした上で、金を預けてくれたら、そこに金利をつけることにしたんです。もちろん、すぐさま、金庫番の金庫は金で一杯になりました。


そして、引き出しに応じるのに十分な金を金庫の中に保管した上で、残りの金を貸し出して所得を稼ぐことにしたんです。(主に長期で)


短く借りて長く貸す。これが銀行の宿命を説明できるのは、こういう理由からです。貸し出しに進出することによって、金庫番は、銀行と呼ばれるようになりました。これが銀行のはじまりです。


これこそが、かつての銀行業のビジネスモデルです。単純な説明ですが、ちょっと難しい言葉を使うと、貨幣的機能(預け入れと支払い)と貸し付け機能の二つをもった存在。金融仲介者。それが初期の銀行だったんです。


しかし、この二つの機能が結びついた時、最初の危機の芽が産まれました。預金者に金利をつけて支払わねばならない(支払いリスク)と貸した金を回収しなければならない(貸し出しリスク)を銀行は抱え込んでしまったんです


金を貸し付ける。それは、すなわち、いくつかのリスクを背負い込む事を意味しました。


もし、貸した金が返ってこなかったら、金庫の中から金が減って行きます。そして、いつかは、全ての預金者に金を返せなくなるかもしれないからです。


また一度に全ての預金者が、金庫の中から金を引き出そうとしたら、金庫番(銀行)は、その全てに応じることはできません。なぜなら、金庫の中の金の大部分は、貸し付けに回されているからです。


もし、預金者が金を引き出そうと一度に殺到したら、金庫番は、支払いができず、預金者から引き裂かれてしまうでしょう。もしくは、二度と金を預けてもらえなくなり、彼らは二度と旨みのある商売ができなくなる。


これは、のちに金庫番が「銀行」と呼ばれるようになってから、「銀行取り付け」と呼ばれるようになりました。この銀行取り付けは、銀行にとって最大の恐怖でした。


第二章 世界恐慌


人間は恐怖を感じるとその場から真っ先に逃げだそうとする性質があります。株の例えで説明するとわかりやすいのですが、株式市場では、暴落が起こると、全ての株が、良い悪いに関わらず下がります。悪い株は価値がないから、たたき売られます。しかし、悪い株には買い手はいません。そこで良い株が換金しやすいために、より一層売られることになるんです。自分の資産を守ろうと。そして全ての株が落ちるんです。みんなが出口に向かって一斉に逃げ出すために、こういう事がおこるわけです。


銀行取り付けも同じです。銀行が悪い経営状態になると、大抵の場合、倒産の前に預金を引き出そうと預金者が列をなしました。そして、不安は伝播します。他の銀行もやばいんじゃないか。そういう噂がたち、預金者が銀行業全体に信頼を失うと、経営が良い銀行にまで取り付けが伝播しました。少しでも自分の預金を守ろうと預金者が一斉に全ての銀行から預金を引き出そうとしたからです。これが銀行取り付けです。


いったん、預金者が銀行業全般への信頼を失うと、しばしばこれが起こりました。


そして、それが大規模におきたのが、世界恐慌が起きたアメリカにおいてでした。1930年、銀行倒産が増加したことが、銀行取り付けを引き起こしました。当時は金本位制であったので、急速に銀行から金が引き出されました。恐怖におびえた銀行は、急激に貸し付けを減らし、準備金を増やしていきました。


準備金が増えたので、一時的に取り付けは減ったものの、貸し付けが急激に減ったことにより、資金難に陥った企業がバタバタと倒産していきました。


そして、企業倒産は、貸し倒れを増やし、1931年、再び銀行倒産が増え始めると再び取り付け騒ぎが起こります。このことが、さらに銀行に貸し付けを削減させることになりました。結果として、資金難による企業倒産が起こり、景気は坂道を転がり落ちるように悪くなっていきました。


不況と金融危機。そして、1931年、耐えきれなくなったイギリスが金本位制を放棄しました。アメリカもそれに追随するという予測から、海外の投資家は、ドル資産を売って金を買いました。結果としてさらに、銀行からは金が消え失せ、アメリカの銀行は、金準備を失って、取り付けがおこった場合には、耐えきれない状況に追い込まれたんです。


追い込まれたのはアメリカの中央銀行であるFRBでした。取り付けに備える為の金をアメリカの銀行を戻すためには、金利を引き上げるしか手がなかったんです。


そして、FRBは、銀行が貸し渋りをしている最中に、金利をひきあげたんです。このことが、さらに企業に金を借りにくくしました。


また、金利の引き上げは、この場合、世界に向かってアメリカは金準備を急速に失っているとラッパを吹いて知らせるようなものでした。金喪失による金融不安から銀行取り付けが増え、銀行の倒産と企業の倒産を加速度的に増えました。世界恐慌は、こうしてフルスケールで進行することになりました。


現・FRB議長バーナンキは、「フリードマン生誕90年を記念して」という講演の最後で、この世界大恐慌が「FRBによって引き起こされたものだった」と語ってしめくくりました。


通常であれば、普通の規模の不況であったはずのものが、FRBの誤った金融政策、つまり、不況、デフレ時の金利の引き上げというプロセスを経て増幅され、世界規模で進行することになったからです。


この場合、正しい金融政策は、金本位制を放棄した上での金利の引き下げ、銀行からの不良債権の買い取りでした。そして、実際に、それを早期に行った国々は、早期に不況から脱出しましたが、アメリカのように金本位制度に固執した国では、それが不況とデフレを加速度的に早めることになったのです。


「金本位制度なくして金融はなりたたない」という誤った信念の下で、銀行はバタバタと倒産し、生き残った銀行も貸し付けをへらし、金準備を守るために資産の投げ売りを開始しました。それはデフレを加速させ、企業倒産と失業者を馬鹿げたほど増やしました。


そして、銀行間では、お互いが疑心暗鬼に陥りました。それ以前であれば、取り付け騒ぎにあった銀行を救済するため、他の銀行が融資を行って、取り付け騒ぎが起こっても、ある程度は対応することは可能でした。


しかし、今回の危機の最中では、銀行間ですら、「向こうの銀行は経営がやばいんじゃないか?」という疑心暗鬼から、そういった融資は滞ってしまい、銀行は八方ふさがりの状態におかれたんです。



1932年、議会とフーバー大統領は、銀行の危機的な情勢に対応し、ついに行動を起こしました。RFC(復興金融金庫)を設立し、危機的な状況に対応するため、銀行への流動性を提供して資金繰り難を緩和し、取り付けを沈静化させるのが目的でした。しかし、当時の実質国内総生産比で約一・五%にあたる10億ドル近い資金供給があったものの、金融危機は終わりませんでした。無論、改善はしましたが。


1933年、RFCの貸し付けが問題になりました。議会では、その貸し付けが政治的影響下にあるのではないかという批判がなされ、RFCは自らが貸し出している銀行の名前を公表しはじめたんです。


結果は最悪でした。なぜなら、それは黙示録の角笛だったからです。RFCから借り入れをしている銀行は危険な状態だとアメリカ中に大声で触れ回るようなものでした。同じような間違いをちょっと前にしてたのに、ここでも同じ間違いを繰り返したわけです。


結果として、取り付け騒ぎが起こり、RFCから借り入れを極度に銀行は嫌がるようになり、最後の貸し手、あるいは流動性供給の最後の手段であったはずのRFCは機能不全に追い込まれたんです。(なんか最近のどっかの国の流れと似てますね)



世界大恐慌はいくつかの事を我々に教えてくれます。


1、金融システムの崩壊は、実態経済に多大な負担をかけるため、金融システムの崩壊に直結する預金取り付けを防ぐシステムの必要性


2、金本位制度は、インフレを防いでくれる可能性はあるが、危機の発生時にはデフレを加速度的に進行させてしまう可能性をもつ

3、流動性の供給は役には立つが、金融危機の根治にはなり得ない



これが、1929〜1933年のアメリカからの教訓です。



第三章 ニューディール銀行改革


ここでは、金融政策のみに話を絞ります。そして、これが一番大事なんですが、何故か、日本の教科書じゃ公共事業ばっか取り上げててどうなってんだとか思うわけです。

世界不況からアメリカを立ち直らせたのは、金融システムの抜本的な見直しと再建に成功したからなんです。ニューディールの財政政策は大して役にたたなかったのですが、ニューディールの金融改革は、劇的な効果を発しました。


まぁ、僕の時代の教科書の話なんで、今はどうなっているのかはシランのですがね。


ルーズベルト政権は、第一の目的として、銀行への信頼を回復させることを目標としました。これは、緊急銀行法によって達成されました。これは、1933年の政権発足後、わずか5日後にルーズベルトが署名して法律となりました。


この法律の中で、最も重要な点はRFCが銀行の優先株を購入することが認められたことです。最終的に、その後の7年間でRFCは11億ドル相当の自己資本を銀行に供給しました。



この点は、現在の金融危機の中にあって、もっとも強調しておきたい点です。


なぜ、これが劇的な効果を発揮できたかというと、それは、銀行が自己資本を拡充することが可能だったからです。


フーバー政権の下では、10億ドルの流動性が銀行に供給されました。これで銀行の資金繰りは助かりますが、銀行にとっては負債が増えるだけのことで、財務体質はむしろ劣化します。そのため、預金者は一層、銀行から預金を引き出そうとし、銀行間の疑心暗鬼は解消されません。そのため、金融危機は終息しないわけです。(これは現在の金融危機に際しても極めて多くの教訓を含んでいます)


しかし、RFCによる優先株の購入は、即座に銀行の自己資本を増やし、財務体質を強化します。その結果、銀行のバランスシートは劇的に健全になるので、預金者は、銀行に対する信頼を回復するわけです。


また、銀行間の疑心暗鬼も取りのぞかれます。そうすれば、銀行間の融資が復活し、取り付け騒ぎがいくつか起こっても、銀行同士の短期融資で支え合うことが可能になります。金融システムは再び回り始めます。デフレへの連鎖は、ここで終わるわけです。


ここが肝で、大恐慌において、流動性供給が失敗し、優先株方式が成功した理由です。


取り付け騒ぎの根っこである、預金者の恐怖を和らげ、銀行への信頼を取り戻し、銀行間の疑心暗鬼を取り除くことこそが、重要なんです。


RFCは、いわば、S&L危機の時のRTC、サブプライム危機におけるアメリカ議会で審議されている不良債権の買い上げ機関の前身とも言える存在です。


公共事業も、流動性供給もきかなかった場合の最後の最後の手段、エース・イン・ザ・ホールと言えます。

多くの問題がありますが、しかしこれは、金融危機がにっちもさっちもいかなくなった場合にはやらざるを得ません。ためらわず行うべきだと僕は考えます。それが例え、納税者の負担になろうとも。大不況とデフレが吹き荒れる世界になるよりゃマシです。


金融危機から不況になったからといって、公共工事や流動性供給をするのでなく、すぐさまこれをやれればいいのですが・・・それは政治的に難しいです。本当に危機的な状況にあるというコンセンサスが出来るまでは、行えないのが難点です。現在のアメリカ金融危機においても、リーマンが倒産して、世界中に破滅の鐘を響き渡らせて、やっと、これが始まったわけですからね・・・


危機の初期で、これをやってれば75兆円もかからなかったのに・・・まぁ、10年前に、不良債権問題を先延ばしして、100兆円払った島国もありますが。景気のいい話です。



「第四章 銀行は何故規制されねばならなかったか」へ続く。(最近、こればっかりですが、いや、このエントリだけは最後まで書きます。まだ、何故PCが銀行を追い込んだのか書いてないし。絶対に。多分、うん、、多分・・・WoWをする予定はしばらくないし・・・・でも、全部で12章くらいになるかもしれないので、途中で力つきるかも・・・)

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