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2008年08月05日

チョークで汚れた手@教育と所得格差の話

没落エリートの出現―ビジネス社会から疎外される高学歴就職難民たちー

って記事から、はてなブックマークじゃ、昨日あたりまで、学歴の話が一杯でてたわけですが、そんなわけで、僕も一枚噛んでみようかと思います。


というわけなんですが、その話をする前の枕として、ちょっとした話を紹介してから。






フライパンで焼かれた赤ん坊


運命のめぐりあい

これはある一人の少女の物語である。一歳のとき、どこにでもあるようなフライパンで生きたまま焼かれ、その後人間らしい扱いを拒まれて、うち捨てられたも同然だった赤ん坊の話である。彼女は十四年以上しゃべることができなかった。

これは真実の話である(登場人物の名前は変えてある)。児童虐待としては特異なものであるが、現代社会においてもこうした問題はしばしば起こっていることなのである。育児病院や育児保護施設の諸記録は、それが事実であることを証明している。

この少女をローラと呼ぼう。

アメリカでは、精神病が他のあらゆる身体的、情緒的な疾病よりはるかに多く、病院のベッドを占めている。また、児童虐待は、いまでは市長がこれに対処するための「特別機動隊」を組織するほど、大きな社会問題の一つになっている。

ローラを救った「特別機動隊」は、けっして失敗を甘受しない女性たちのグループであった。彼女らは大都会の真ん中で、いまなお信仰という名の下に活動を続けている。ローラは、どの宗派にも属さないシスターたちのグループによって救われた。したがって、この物語はローラの話であると同時に、彼女達の話でもある。そして何よりも、一つの生命が胎児の段階から「人間」であることの意味を語る小史である。


(中略)


ローラは私にとって、ある意味をもっていた。背骨は曲がり、顔には傷跡があり、いつも何かにおびえて、なによりまったく口がきけない彼女に初めて接して以来、十数年の歳月が流れた。にもかかわらず、彼女のことを思うたびに、私の内で、ある特殊な感情がわいてくるのである。

そもそも私たちの出会いは、あまり褒められたものではなかった。

そのころ私は開業医になったばかり、腕は冴え、評判も広がりつつあり、私は自分の天職に自信を持ちはじめていた。長年の研究の成果を刈り取ろうと願っていた矢先だった。許される時間は限られており、貴重だった。

私もほかの精神分析医と同様、自分が与えうる治療で、もっとも利益が上がりそうなことに生きがいを感じる向きがあった。貧困や失業の苦しみから身体的、精神的に傷ついた人々は、われわれの職業的関心の対象とはなりえないまま、放っておかれることが多かった。当時、貧困にあえる人々、都会のスラム街に住む人々の精神病の治療とは、心理療法や精神分析よりも、むしろショック療法、薬物治療、病院収容を意味していた。

ローラはこれを変えたのである。

自分自身を分析するのは分析医の仕事ではない。だが、これからお話しする物語をふりかえってみるとき、私としてはこの出会いに、不思議な運命のめぐりあわせを感じないではいられない。陰鬱な施設をおざなりに訪問していた私を、傷ついた子どもの魂のもっとも暗い奥底に、徹底的に関わりあわせたきっかけと推進力は、おそらく私自身の内にある隠れたエネルギーだったのだろう。それについては読者の判断におまかせする。いずれにしても人間は意識的にせよ無意識的にせよ、なんらかの形で自分の過去と真っ向から対決を迫られることがある。こうしたことは、ローラの物語やシスターたちの話の局外、あるいは周辺にとどめておかねばならない。しかし、ここにつづる極貧家庭の知的障害者や無力な子どもの話は、私たちにとって決して他人事ではない。貧しい人々にとって、金は夢を実現させる魔術となり、悪夢を生じる蛇ともなる。

この物語の施設と初めて接触をもったとき、私はもはや貧乏ではなかった。私は幸運な人間、勝者の一人だった。その私が、最初から盲目的な感情で施設で働くことになったのは、事実、ある種の忠誠心から、としか考えようがない。それはおかしな忠誠心だ。だが、人は自分自身から逃れることはできないし、ローラやシスターたちとの対決に背を向ければ、それは私にとって義務の放棄でしかない。私はそのことをいやというほど知っていた。

我が身にながされた仕打ちを、どうして他人にくりかえすことができよう?

施設の子どもたちの頭をなでるとき、私はいつもこの感情をぐっとかき立てて思い出すことにしていた。この感情は、金でどうにかなるものではなかった。自分の怒りの源泉を直視し、自らの誠実さを問いただし、人が自分に与えるよりも多くを他の人々にあたえられるかどうかをしっかりと見定めねばならなかったのだ。


特殊学級に私はいた


具体的に言おう。私がローラの病歴記録を閉じて手に抱え、座って考えたとき、あの瞬間がよみがえってきた。私自身の幼いころに、同じようなことがあったのを思い出したのだ。あのとき、銀縁のメガネをかけた若い算数の教師が、文字通り私の一生を握っていた。彼は私の人生と関わりをもとうと心を決めるやいなや、即時その決意を実行に移した。

ある木曜日の午後、私が彼の教室にぶらりと入っていくと、その働き過ぎの安月給の青年・スコット先生は、放課後の補習で算数を教えていた。そして以来三ヶ月のあいだ、私は毎週火曜と木曜の同じ時間に、彼のクラスに出席するようになった。

私はまじめに興味をもって勉強に励み、スコット先生にいわれたことならなんでもやった。ところがある日、廊下をならんで歩いていると、先生が私にほかの教科の平均点を聞いてきた。いじわるで聞いているのではない。しかし私は、少しむきになって、そういうことは両親にだけ答えたい、とつっぱねた。

その日、スコット先生の質問にきちんと答えなかったのは、ただ私がきまり悪かったにすぎない。そのかわり、私はチョークに汚れた先生の上着をつかんで、数歩先の自分の教室まで案内した。

「これが君の教室?」先生は驚いてもう一度聞いた。「本当にそうなの?」

私はうなずいたが、何も言わなかった。先生は信じられないというように私を見た。私がつっついたので、側に立っている教師にたずねた。

「そうですわ」スターク女史が冷ややかにいった。「この子は私が担当です」

スコット先生が私にはっきり聞いたのは、私たちが次に会ったときだった。

「どうして君は、あのクラスにいるの?」

先生の言っている意味はわかったが、私は口ごもっていた。

「それは・・・障害児のクラスにってこと?」

いつかはいわなければならなかった。私は「特殊学級」、つまり知的障害児のクラスにおかれていたのだ。



私の災難は、三年生のとき、私が字を覚えられないのを教師が怒ったことから始まった。彼女は両親あてに、私の勉強をみるようにと手紙を出し始めた。その手紙には、やがて好調の手紙も添えられるようになった。問題は、その何通もの手紙が、両親のところでそれっきりになったことである。彼らは英語が読めなかったから、誰か翻訳してくれる人が必要だった。

私の両親は貧しく、七人の子どもを抱え、養っていかねばならなかった。家族のほとんどが13才を過ぎてからアメリカに渡ってきたのだが、なんとか食いつなぐために、みな一生懸命働いていた。祖国では誇り高かった一家にとって、それは容易なことではなかった。私たちは現在のスラム街の標準からいっても、やはりスラム街としかいいようのないところにすんでいたのである。

結局、私は混乱し怒りで胸をいっぱいにしながらも、おとなしく「知的障害児」のクラスで、凍りついたように座ることになったのである。私は二種類の連中---つまり「健康な連中」と「障害のある」連中の両方から仲間はずれにされたりからかわれたりした。そのあげく、何度も彼らと激しい喧嘩をし、たいていの場合は、私は学校から一目散に逃げ帰った。

クラスが変わったと両親に告げたときのことをどんなにはっきりと覚えているだろうか。ああ、あのとき両親の顔に浮かんだ”受け入れるしかない”という表情---もし私たちが貧乏でなかったら?貧乏人がいったいそれにどう対処できるというのだ?

スコット先生は、私を手伝ってくれると約束した。が、彼は教師である。彼を信用する理由など何もなかった。しかし私は先生が好きだった。先生はただ、「君には手伝ってやる者が必要だ。だからぼくが手伝ってやろう」としか言わなかった。

彼は六ヶ月以上にわたって自分の時間を犠牲にし、辛抱強く四年生、五年生の科目を見てくれた。そればかりか、私の信頼できる友達になってくれたのだ。のちに私がローラに試みたのも、まずは私を信頼してもらうことだった。

ある日、私は校長室に呼ばれた。部屋に入るとそこにスコット先生がいて、彼はあきらかに私の知能の発育ぶりについて懸命に彼女にわからせようとしていた。校長は学校の校則についの指導書を読み上げた。彼女は一言も前置きせず、いきなりそれを私の手において、読んでみるように命じた。びっくりした私は、ただのどがつまり、そこに書かれた文章は少しも声にならなかった。すると彼女は勝ち誇ったように、先生のほうに向き直っていった。

「ごらんなさい、スコットさん、あなたは時間をむだにしているんですよ」

光った眼鏡をかけた、おどおどした内気な青年は、突然私のそばによって、見たままを読んでみるようにといった。そして私は読み始めたのである。ことばは流れるように出てきた。そのあと、先生は私たちが勉強した科目について質問したが、私の頭は明快で、答えも正確だった。

こうして私は「特殊学級」から出され、”試験的に”五年生に編入された。その次にあったことは、私が市内一斉の算数のテストで最高点をとり、校長を驚嘆させたことだった。

スコット先生は、なおも無報酬で私に幾何を教えてくれた。その後、私は市内にある三つの化学専門の高校を受験する許可を申請した。先生は私に、そんなことをすれば校長は怒るだろうと忠告してくれたのだが、事実その通りだった。彼女にしてみれば、私は以前「知的障害児」だったのだ。

しかし、とうとう私は学校中で受験を認められた三人のうち一人となり、みごと二人が合格。私はその一人だった。

多くの歳月が過ぎ、私が博士号を認められる研究まで進んだとき、スコット先生は私の人生から消え去った。彼がいまどこで何をしているのか私は知らない。しかしどこにいようと、私は彼に敬意を表したい。彼は私を絶望から救ってくれたのだ。もし彼が、当時、チョークで汚れた手をさしのべてくれなかったら、おそらく私は単なることばのハンディによって、欠陥人間として永久に運命づけられたことだろう。

私の人生とローラのそれとの違いは、あきらかに私が逃げ切ったのに対し、ローラが以前罠にはまったままだったことだ。私が勝者であるのに対し、ローラは敗者だった。


しかし、私がほとんど自分の理性を裏切ってまで、ことばをはなせない見知らぬ娘のために戦いを挑み、「社会」という名の権力機構のなかで無知と偏見という共通の敵と闘ったのは、私自身の怒りの感情と願望からであった。



「ローラ、叫んでごらん」 リチャード・ダンブロジオ 関口英男・訳 
序章 フライパンで焼かれた赤ん坊 より






**横書きに直すときに読みやすいように、改行などは僕が入れてます。


この話は、僕が好きなノンフィクションの一つ「ローラ、叫んでごらん」のものだ。このお話は、ローラ、両親に虐待され、フライパンで焼かれた少女を施療した精神科医リチャード・ダンブロジオの幼い頃の話だ。


児童虐待の本にのっている話を枕にして、教育とか学歴の話を始めるのは、ちょっと奇妙に思われるかもしれない。ただ、この話は、この後していく話と密接に関連しているのだ。ミクロなレベルとマクロなレベルでの教育とか学歴の話の接点であり、重要なことがいくつも書かれている。


僕らの生きている国、つまりは日本は、学歴社会と言われる。学歴によって序列が作られ、そして、最終的に、学歴がいい子達が、良い企業に就職して、よいお給料をもらう、というのが一般的だと受け取られているような社会だ。


それが本当に子ども達にとって幸せか、それから僕らの社会を運営する上で、一番効率の良い方法かは別として、今まではそうやって教育や学歴は形作られてきた。


そして、今、時々、メディアで取り上げられる問題がある。「教育と所得格差」の問題だ。





 戦後の日本で最も賞賛に値する成果の一つに、高い社会的流動性を持った能力主義国家の建設がある。貧困層や中間層の子供でも、能力と野心さえあれば社会的に上昇することができた。これは子供たちだけでなく、国家にも大きな恩恵をもたらした。誰もが等しく教育の機会を得ただけでなく、教育に投じられた資源が平等に配分された。その結果、両親の資産や社会的地位によって聡明な子供たちの可能性が制約されるということはなかった。

 だが日本は“機会が平等な国”の地位を失おうとしている。私は最近、経済産業省で働く50代の2人の友人と話をする機会があった。彼らはいずれも東京の郊外に生まれ、両親はごく普通の勤労者である。彼らは、自分たちの時代とは状況が変わってしまったと言っていた。多くの省庁で新規に採用された官僚の大半は、両親のいずれかが同じ省庁の官僚の子弟だというのだ。同じような変化がビジネス社会でも浸透しつつある、と彼らは言う。

ドイツマスコミスキャン〜所得格差と教育機会不均等



これは、日本の話だけれど、日本においても、所得と教育格差の問題は時々問題にされるようになってきた。両親の所得と子ども達の学力には、相関性があるのだ。そのため、


 公的資金の貧弱さと公立学校の教育の質の低下に対する懸念、能力に応じた教育を妨げている偽りの“平等主義”が、中産階級の親に大きな負担をかける結果となっている。子供たちに十分な教育の機会を与えたければ、私立学校に頼らざるをえず、予備校に通うためにおカネを使わなければならない。2005年の時点で高校生の30%が私立高校に通っている。子供の人生は親の資金力によって制約されているのである。

 南ミズーリ大学の納見智昭准教授の調査では、日本の中学1年生で私立中学に通っている比率は00年には5・8%であったが、05年には7・0%に増えている。東京では、この比率は25・6%である。02年には塾に通っている生徒の数は小学校で39%、中学校で75%に達している。1976年には、その比率はそれぞれ12%と38%であった。75年には東京大学の入学者の26%は私立高校の出身者であったが、93年には50%に達している。



このような問題がとりだたされるようにもなってきた。貧しい家庭では、親がろくな教育を施せないために、学歴社会日本においては、貧乏な子ども達の未来は閉ざされたものになってしまう・・・というアレだ。

実は、これは日本だけの問題ではない。アメリカでも、全く同じ問題が起こっている。アメリカのエリートは、ほとんどが中上流階級の出身なのだ。アメリカンドリームは過去の話。現実にエリートをみれば、移民から身を起こして大成功なんて例はほとんど全くなく、金持ちは中上流階層の出身者・・・というのが現状なのだ。


そして、もう一つ。ドイツの話になるが、


◆進学率に大きな差◆

 論議の的となっているのは、15歳の生徒を対象とした調査で、親の所得によって子供の学歴に顕著な差が見られることが明らかになったためである。

 調査によれば、管理職者や研究者などを親に持つ子供は、ブルーカラー労働者を親に持つ子供よりも、ギムナジウム(ドイツの中等学校の一種で、この卒業試験に当たるアビトゥアに合格しなければ総合大学に進学することはできない。したがって、ギムナジウムはエリートコースへの登竜門とみなされている)に進学する割合が4倍に達しているという。


◆学校教育の成功と失敗◆

 さらに、州別にみると、最も格差が大きかったバイエルン州では、ギムナジウムへの進学率で実に6.65倍もの差がついていることも、議論を加熱させる一因となっている。

 というのも、これまでは、バイエルン州は生徒の学力水準が高く、学校教育で成功しているとの見方が一般になされてきたのであり、その“教育優良州”において、全国でも最大の格差があることが露呈された形となったからである。


ドイツマスコミスキャン〜所得格差と教育機会不均等



このように、ドイツでも全く同じ傾向が現れているそうだ。何故、ドイツの話をしたかというと、以前、


書評「 日本の経営・欧米の経営―比較経営への招待」


というエントリで、

ドイツ
高級官僚の地位は、経営者と比較して、低いものと見られる向きが強い。これは、ドイツにおいては、エリートの概念が、官僚や経営者といった向きでなく、指導者としての資格が、博士学位と結びついているためと言われる。ドイツ大企業の経営者の6割は博士学位所持者である。つまり、イギリスと比較すると、専門的な知識をもっているプロフェッショナルとしての経営者が多いのが特徴とされる。


先進国では、唯一といっていいほど、経営者の出身階層に、階層間の差異が少ない国でもある。また、父親の職業が公務員である経営者が多いのも特徴。非常に変わった経営者育成システムといえるかもしれない。他の国では、大抵の場合、特定大学への集中や、階層間の差異が現れるのだが、ドイツにおいては、それが少ない。指導者としてのキャリアパスが、博士学位のように専門性の強いものである点、それゆえに出身校がさほど重要とされない点などが上げられるかもしれにない。




って話をしたからだ。ドイツって国は、経営者500人くらいを対象にして標本抽出した結果、ドイツでは、他の先進諸国でみられるような、経営者の出身階層における偏りがあまりなかったのが特徴だったのである。


だが、そういう国でも、やはり、親の所得によって子どもの学力に顕著な差がでる・・・という調査結果が出て、波紋を呼んでいるそうな。


親の所得と子どもの学力には相関性がある。それも正の相関だ。親の所得が高い場合、その子どもは学力が高くなる傾向がある。


一体、何故、こんな相関がでるんだろう?


最初、紹介した話では、これは全く逆だ。リチャード・ダンブロジオは、一人の算数の先生の助けがあったにせよ、スラム街で育ち、そこから這い上がって最終的に博士号をとり精神分析医として成功した。


最初に、親が極貧で英語が読めず、英語もろくに話せない両親の元で育ったにも関わらず、最終的に成功した人の話をしといて、その後に「親の所得と子どもの学力には相関性がある」なんて話をするのは、なんとも奇妙だと思われるかもしれない。


でも、ちっとも変じゃない。この話は、他の色んな話を挟むと、色々と見えてくるものがある。だから紹介した。


ちと、長くなりすぎたので、続きは次回で。
posted by pal at 02:25 | Comment(11) | TrackBack(21) | コラム このエントリーを含むはてなブックマーク | 編集

2008年06月14日

日雇い派遣「原則禁止」に反対する。

あー、もう死ぬほど欝な気分ですが、明らかにまずい方向に日本の政治が進んでいると感じたので、これについて書かせて頂きます。書いていて嫌な気分になるエントリですが、どうしても書かずにはいられませんので。


まず、問題の記事の紹介から入りますが、読んでうんざりしたのが、この記事です。




 ワーキングプア(働く貧困層)の温床とされる日雇い派遣労働をめぐり、舛添厚生労働相が13日、日雇い派遣を原則禁止する方針を示した。秋の臨時国会に労働者派遣法の改正案を提出する方向だ。世論の高まりに押された格好だが、与野党の隔たりは大きく、臨時国会で規制強化がどこまで進むのか不透明だ。


日雇い派遣「原則禁止」、厚労相が法改正を表明



あのですね、厚労省の方々は、この国の労働環境というのが、どういう風に出来ているのか、わかっておられるのでしょうか?そもそも、なんで終身雇用だとか年功序列だとかが、今の不景気の日本でも維持されているか、理解しておられるんでしょうか?


この国の労働構造においては、正社員というのは、派遣社員無しには維持できないんです。企業が正社員に福利厚生をして、給料払って、失業から守ってあげれるのは、派遣とか期間工とか、フリーターがいるからなんです。景気が悪くなったときに、最初にコストカットするための非正規雇用なんです。日本じゃ、簡単に正社員のリストラはできませんからね。


それでもって、景気が悪くなったときに、すぐ人件費のコストカットできるから、正社員の雇用は守られるんです。そうやって、正社員の雇用は守られてきたんです。


派遣労働の合法化ってのは、二つの意味がありました。一つ目は、企業が安い労働力を求めて海外にでていってしまうのを防ぐため。日本国内でも安価で、それから切り捨て可能な労働力が使えるなら、海外に出て行く必要はありませんからね、企業も。


それからもう一つが正社員の雇用を守るためです。心底嫌な話ではありますが言わせてもらいますけどね。何で派遣労働を認めると、正社員の雇用が守られるのか?っていうと、海外との競争にさらされた企業は、派遣社員を使うことで、事実上のコストカットが出来たからです。


新入社員を減らせば、出て行く人の方が多くなるので、給料の水準はそんなに落とさないでも、人件費は減らせます。人が減ったら、生産力が落ちて競争力が普通は落ちますが、この部分を派遣労働で補うことを選んだのが、日本の政治と経営者だったわけです。


なんでそんな事したかっていえば、日本の正社員の雇用を守るためです。というか、法律の問題上、守らざるを得なかったのですがね。


心底嫌な例えなんですけど、この仕組みを説明するのには、良いやり方なんで使いますが、切り捨て御免の万能奴隷に支えられた貴族社会みたいなもんんなんですよ、日本の正社員と派遣とかの外部労働人口の問題はね。


奴隷が1000人いて、貴族10人いたとします。それぞれの貴族一人につき、100人の奴隷を必要するとします。そうしないと、貴族は自分の贅沢な生活を維持できないとします。貴族が貴族たりうるためには、奴隷が100人必要ってことです。


トヨタの正社員も、基本的にはこれと同じなんです。トヨタの正社員が存在するためには、無数の下請けと派遣労働者がいなければならないんです。低賃金で劣悪な労働をしてくれる人達がいないと、トヨタは正社員を維持できないんです。


国がここで、「派遣禁止」って法律を作ったとしましょう。そうなったら何がおこるか?


答えは、正社員も派遣も減るです。


派遣が禁止されたら、トヨタは、正社員を維持するために必要な下請けやら低賃金労働者を使えなくなります。下請けが使えなくなる理由ってのは、下請けのような中小企業は、派遣社員がいないと成り立たないからです。もともとカツカツなわけだし。


奴隷がいなければ貴族は存在できないのと同じなんです。派遣社員がいないと、日本社会ってのは、正社員の多くをそのまま雇用し続ける事ができないんです。派遣法が作られた理由の一つは、身も蓋もない事を言ってしまえば、正社員の雇用を守るためだったんです


正社員の雇用を守るために、若年労働層とか、失業者とか、女性が犠牲にされたわけなんですがね。女性なんて、企業が長期雇用の正社員を優遇するもんだから、子育てしてから再就職なんかしようとするとメチャクチャ不利になるわけで。新卒と中途採用は、労働市場から閉め出されちゃうんです。


だから、派遣労働を禁止すれば、派遣の人達が職につけなくなって困るだけでなく、正社員事態の数も減るんです。


製造業の大企業は派遣が使えないなら、海外に工場建てて生産拠点移すだけです。そして、国内には最低限の正社員しか残さないって選択を取るでしょう。就職氷河期と同じことが起きます。つまり、新卒減らして希望退職者を募り、人件費を減らしていくって方法をとるでしょうね。結果として、正社員が減ります。


中小企業は、派遣みたいな安い労働力使えないなら、そのまま倒産しちゃうとこも出るでしょう。その結果、中小企業の正社員も減ります。そもそも、大企業が海外に生産拠点移したら、その時点でアウトな中小企業だって多いんです。そして、やっぱり正社員は減ります。派遣もね。


日雇いってのは、そういうシステムの中の歯車の一つなんです。もし禁止されたら、それは日雇い労働者が失業するだけじゃすみません。日雇い労働者に支えられて初めて存在できる正社員の数も減らすことになるんです。


だから、日雇い派遣には、僕は反対するんです。これほど馬鹿げた規制はありません。何の意味もない。考え得る限り、最も悪い結果をもたらす規制です。派遣の雇用も、正社員の雇用も減らしてしまう。


このエントリは、心底嫌な気分でかいているエントリです。だって、本当は、僕だって、池田先生みたいに、「正社員と非正規社員の差別を撤廃して労働需要を増やせ」って書きたいですよ。あるいは、弾さんみたいに、「オランダみたいなワーキングシェアを!」って言いたいです。


でも、現状の正社員の色んな保護を取っ払え!って言っても、現在進行形で進んでいる政治のアレには効果がありそうにないんです。だって、正社員のほうが、現状派遣より多いんだから。正社員は、そんな事を許さないでしょう。


結局、政治家は、基本人気商売です。派遣と正社員を天秤にかけて、声が大きい方を取り入れるでしょう。つまり正社員側のです。だから、池田先生の主張は政治レベルでは、実現しそうにない。個人的は大賛成なのですが。


また、弾さんの主張は、要するにワーキングシェアで、オランダでは成功した奴なんですが、日本ではどうにも悪名高いんです。多分、実現されそうにない。


だから、僕は実現可能そうで、そしてワーストではないという理由で、派遣労働を認めているんです。それから日雇いも。


それが欠陥のあるシステムだってのは百も承知です。でもワーストではないんです。今の日本でワーストなのは、派遣労働を全面的に禁止して、常用雇用しか認めないって法律で認めちゃうことです。(恐ろしいことに、これを主張する人いるんです。)


これやったら、派遣労働者は完全に失業しちゃうし、企業は正社員を減らして、海外に生産拠点を移します。結果として、日本の失業率が相当上がります。


問題はここで終わりません。失業率が上がれば、政府は何らかの対策を打たざるを得なくなります。当然、真っ先にやるのは、借金して、大規模な財政政策をすることでしょう。民間の代わりに、失業者を雇おうとしてね。


結果として、借金まみれの国庫にさらに借金が増えたあげく、ほとんど何の効果もないような財政政策で、無駄金が使われることになります。財政政策が、効果を発しないっていうのは、フリードマンが喝破した奴なんですけどね。そもそも、日本の官僚とか公務員は、今まで散々非効率な金の使い方をしてきたわけで。財政政策だけ、効率的に金を使ってくれるなんて望むべくもないんです。


その結果として、借金が増えすぎて、長期金利があがったりでもしたら、そのことがさらに企業の経営を悪化させて、倒産を増やし、雇用をさらに減らす・・・って連鎖が起きることになりかねないんです。


繰り返しますが、今の日本の経営システム内では、正社員の雇用を維持するためには、派遣に代表される外部労働人口が必要なんです。彼らがいるから、正社員を馬鹿高いコストで維持できているんです。


もし、派遣を禁止すれば、企業、特に大手の製造業企業なんてそうですが、正社員を現在の規模では維持し続けることはできないんです。もし、派遣を禁止すれば、派遣労働者だけでなく、正社員の数も減ります。これは必ず起こります。


だから、ワーストの選択肢ではないという理由で、僕は日雇い派遣の「原則禁止」には反対します。これは、絶対に解決策にはなり得ません。それどころか、問題をさらに悪化させるだけです。失業率が悪化するという形で。


ベターな選択肢、僕がベストだと思う選択肢は、それに反対する人が多すぎるという理由で取れません。だからしょうがないんです。
posted by pal at 04:58 | Comment(70) | TrackBack(6) | コラム このエントリーを含むはてなブックマーク | 編集

2008年06月13日

失業が生み出すもの

大げさなタイトルなんだけど、ちょっと気になった記事とか論調が出てきたので、これについて書いておきます。

もともとは、

蟹工船が平積みとなった挙げ句のアキバ事件か

こっちの楠さんの記事読んでから、ちょっと書こうとは思っていた話なんだけれども。

他にも、

秋葉原通り魔事件が例外的犯行だと思えない理由


こちらの記事読みながらも思った話なんだけどね。


故事にある「衣食足りて礼節を知る」をもちだすまでもなく、人間、衣食住足りた状態では、そう簡単に犯罪には走ったりしない。これは裏を返せば、衣食住が足りないと、社会不安が高まるってことでもある。


食料暴動とかは、日本では過去のものだけれど、世界の最貧国あたりでは、まだ起こっている。


貧困は犯罪を生み出すか?答えはイエス。

犯罪の九割は失業率で説明がつく

という記事が、ちょっと前にはてBで話題になったけど、ある種の犯罪は、失業率と密接に関係がある。

考える前にやるべきことがあるだろ


もちろん、この記事には、反論が示されていて、そちらも面白いのでご一読を。


で、なんだけど、「失業率が上がれば、基本的に社会不安が高まる」というのは、確かにあるんだけど、まず、失業率が高くなると、確実に増える犯罪っていうのは、贈収賄だとか、窃盗なんかの金と密接に結びついた犯罪だって事がある。


人間は食わなきゃ死ぬわけで、それに例外はない。

現在の人々の多くは、専門化した知識で食っている人がほとんどで、畑耕して飯を作るスキルと土地、機械なんかをもっているのは、日本人の2%くらいの農家くらいのものだ。


我々は、分業と専門化を受け入れ、社会の生産性を高めているのだけれど、一方で、それは「他の人が自分に必要なものを作ってくれる」という暗黙の了解事項を誰もが、知らず知らずのうちに認めているからだ。


だが、失業している人に限っては、その限りじゃない。金がないと、必要なものが買えないからだ。


だから、失業者が増えると、自分に必要なものが買えない人達が、金にまつわる犯罪を犯すようになるので、これらの犯罪が増える、というのは、当たり前の話だし、それから、実際に、窃盗なんかの金にまつわる犯罪っていうのは、失業率と相関性があるわけだ。


「ヤバい経済学」では、「研究によると、失業率が1%下がると非暴力犯罪が1%減る」って話が紹介されている。


ここでの非暴力犯罪ってのは、窃盗なんかのことで、こういう犯罪は、職をもっている人なら、しなくてもいいわけだし、逆に、失業率があがれば、窃盗なんかの犯罪が増えるってのは当たり前といえば当たり前の話なわけだ。


だって、金がない人が増えるんだから。「金に困って盗みを働きました」って人が増えるのは当然。だから、失業率が上がれば、窃盗などは増える。


問題は、暴力犯罪だ。つまり、殺人だとか、放火だとか、強姦だとか。


この手の犯罪は、失業率が上がると増えるんだろうか?失業率が下がれば下がるんだろうか?


失業した人が「金に困って無差別殺人しました」、「金に困って放火しました」、「金に困って強姦しました」ってのは、動機としては不十分だ。前後に全く関係がないから。金に困って無差別殺人しても、金は一銭も入らない。他も全く同じだ。


それに対して、窃盗を除いたやつは、この1-1-1-1図の紫色のグラフなのですが、
http://hakusyo1.moj.go.jp/nss/list_body?NSS_BKID=52&HLANG=&NSS_LEVSTR=2_1_1_1_0#H001001001001E
戦後長らく80年代に入るぐらいまで基本的に減り続け、今世紀になって急増しているという印象がします。
 つまり、窃盗などは、そのときの失業率に直に影響され、もっと重い犯罪は5年ほどラグを置いて傾向的に効いてくるという感じがします。



これは、「松尾匡のページ」からの引用なんだけど、窃盗などは、失業にすぐ影響されるが、重犯罪は5年ほどラグを置いてから傾向的に効いてくるっていう話をされている。重犯罪は、失業率が悪化しても、すぐに起きたりはしない。


それから、また「やば経」から引用するが、


1990年代、失業率は2%下がった。一方、非暴力犯罪はというと、約40%も下がっている。でも、好景気説のもっと大きな嘘は、暴力犯罪に関する点だ。1990年代に殺人は他のどの種類の犯罪よりも大幅に減っているし、景気と暴力犯罪の間には何の関係もないことを示す、信頼のおける研究が沢山ある。そんなもともと弱い関係が、ごく最近の1960年代を見ればなおさら弱いことがわかる。景気は大変な勢いで伸びた----で、犯罪も同じように伸びた。



って話が載せられている。好景気説っていうのは、「1990年代は好景気だったから犯罪が減った」って説ね。


「金に困って盗みを働きました」ってのは、窃盗の動機としては十分すぎるほどだし、失業した人が、金に困って盗みを働くケースが増えるので、失業率があがると犯罪が増えるというのは確かに説得力がある。


特に、日本においては、窃盗などの非暴力犯罪のほうが、暴力犯罪よりもずっとずっと多いから、失業律が上がると、犯罪が増えて、それが相関係数に強い影響を与えたとしても、無理はない。


失業率と犯罪率 G7版


この「犯罪の9割は失業律で説明がつく」には、svnseedsさんの所で、国際比較の奴が作られてて、日本以外では、あまり相関性がよくない。


これについては、犯罪の内訳をして、暴力犯罪と非暴力犯罪でわけて、それぞれの相関係数をだしてみれば、ひょっとしたら日本と似たような関係になるのかもしれない。海外だと、日本よりずっと暴力犯罪が多いから。


まぁ、このあたりはおいておくとして。自分で調べる気もないし。


僕がここまでこんな話をしてきたのは、「貧困は犯罪を生み出す」という説が、一部では当てはまらない可能性が高いって事を言いたいからだ。


貧困、つまり先進国で最悪の貧困ってのは、失業状態のことだけど、これは確かに窃盗とかに代表されるような「金にまつわる犯罪」の増加は、確かに説明できる部分があるし、データもいくつかある。


だけど、暴力犯罪、ここでは殺人や強姦、放火なんかは、どうにも「景気の良し悪し」だとか「失業」に強く影響されるようなものじゃないってことを言いたいわけ。これは「やば経」の筆者と同じ意見なんだがね。どうやら、他の要因のほうに、強い影響をうけるらしい。


「金に困って強姦しました」なんてことを、捕まったレイプ魔が言っても、説得力ないでしょ?


少年の凶悪犯罪は本当に増えているのか


それから、こちらのページにもあるんだけど、


 注目点はいろいろあります。昭和23年の強盗件数は戦後最高の3878件。これは戦後の混乱期だったことを示します。当時の17歳は、教育勅語による学校教育を受けています。近年、教育勅語の有用性を訴える老人がいらっしゃいますが、なんの効果もないことが証明されました。人間、食うのに困れば、盗みを働くのです。道徳教育を強化したところで、犯罪の抑止効果は期待できません。

 強盗には昭和35年にも、もうひとつのピークがあります。『病的性格』の記述どおり、戦後の混乱期を脱してなお、不思議なことに少年による強盗事件は増えていました。ということは、そもそも「戦後の混乱期だから犯罪が多かった」という説明が、的を射たものなのかどうか。疑問は残ります。



戦後の強盗件数は、昭和23年にピークがある。それから、少年の強盗件数も、そのあたりにピークがある。昭和23年ってのは、1948年で、1945〜1950年あたりは、日本が特に苦しかった時期だ。だから、この時期、金に困った人達が強盗を沢山働いたってのは、普通に考えれば、当然の話になる。


問題は、やっぱり暴力犯罪、特に少年の暴力犯罪だ。殺人、強姦、放火とか。


これらが、急激に増えたのは、1955年あたりからで、1955年というと、「もはや戦後ではない」って宣言が出て、日本経済が戦前の水準まで回復した時期だ。だから、これ以降、「日本が貧しかったから犯罪が増えた」という説明は使いにくくなる。


むしろ、1955年以降は、戦前の水準まで少年の凶悪犯罪率なんかが下がっても良かったはずだ。でも、そうはならなかった。1955年以降、むしろ少年の殺人、強姦、放火なんかは、率にしてもやっぱり戦前の水準より増えてしまったんである。


結論をいうと、貧困を理由に暴力犯罪や自殺を説明するのは、少々危ういわけだ。たしかに、貧困が理由になって、窃盗のような犯罪が増えるのは、かなりデータの上からもわかるわけだが、殺人や強姦なんかの凶悪犯罪が増える理由としては、説得力があまりないんだ。(強盗殺人なら、まだわかるが)


また、貧困のせいで、自殺する人が増えるって説明もいくつか反論できる。

自殺率の国際比較


こちらのページに自殺率の国際比較があるんだけど、日本の自殺率ってのは、国際比較すると、とても高い。世界で、もっとも裕福な国なんだけど、自殺率はとても高い。日本より高いのは、東欧諸国だとかロシアだとかだ。


それから、日本よりも明らかに経済状態が悪く、経済的には非常に困っている国々のほうが、ずっと自殺率が低かったりする。


「貧困」だと「人は絶望して自殺する」っていうのは、自殺率の国際比較を見ると、納得しがたい。どうも、自殺というのは、その国の文化や風土なんかと強く関係していて、その国の貧困率と密接に関係があるというものではないようなんだ。


無論、日本では、自殺と失業律の間に何らかの関係があるじゃないかって、データもある。

失業者数・自殺者数の月次推移

例えば、これだ。月次推移をみると、失業者数と自殺者数の間には、何らかの関係があるんじゃないかって風にも見える。失業者数があがると、自殺者数があがる傾向がみてとれるからだ。


ただ、やはりこれでも、失業者数が98年から03年にかけて緩やかに増えたにも関わらず、自殺者数事態は、横ばいだったって傾向はあるわけだ。


日本では、無職の人の自殺がとても多い。


これらの事をかんがみると、むしろ、日本における自殺というのは、失業が原因というより、「失業した奴なんて価値がない人間だ」ってある種の風潮が原因なんじゃないかって僕には思えるわけだ。


で、なんだけどね。


僕は、今回の事件を引き起こしたのは、「若者の就業不安」だとか「派遣と正社員の格差の問題」だとは思っていない。たしかに、どちらも大変な問題だ。だから、それらについては、僕も色々と考えを述べてきたわけだけどね、このブログでも。


でも、今回の事件は、それが原因じゃない。


なんでそう言い切るかってのは、理由があってね。


まず一つ目は、暴力犯罪が起こった理由を、「失業が悪いんだ」って形で責任転嫁するのは、疑問ってこと。これは、今まで述べてきたことだけど、失業が直で引き起こすのは、普通、窃盗とかのレベルだ。あるいは、むかついた上司を殴るとか、勤め先の悪口を言いふらすとか。「金に困って盗みを働きました」レベルまでは、ある程度は、乗除酌量の余地がある。窃盗犯に、まともな職を与えない社会や、社員に抑圧的に接する会社文化にも責任がある。


だけど、暴力犯罪については、全く話が別だ。殺人や強姦は、失業だとかを原因にしていい問題じゃない。やはり、これは起こした犯人自身の問題だ。どんなに金銭的に困っても、失業してても、将来に希望がもてなくても、食うに困ったとしても、無差別殺人や強姦しても、何の解決にもならないからだ。


今回の事件の犯人のやった事を、「拡大自殺」、つまり「確実に死刑となるために凶悪犯罪を起こす」だったと見ることもできる。だが、これは自殺と同じように貧困が問題というより、社会的な風土や文化とかの要因のほうが強いと思う。貧困なのが問題じゃない。貧困な状態をものすごい恥だと思ったり、自分に価値がないと思わせてしまう社会規範のほうが問題だって事。


で、二つ目になるんだけど、僕が今、一番、心配しているのはこっちだ。ネットを中心として、今回の事件の原因を「派遣制度」に求めている人達がいる。


たしかに派遣と正社員の格差問題は問題だ。僕も非常に問題視しているし、この問題については、今まで何度か意見を述べてきた。


問題なのは、この「派遣制度」について、今後、どうなるかだ。


そして、今回のケースで、非常に誤った方向に進んでしまいそうな気がするのだ。


ちょっと前、構造計算書偽造問題 - Wikipediaって問題があった。


これのせいで、建築に関しては、非常に不信感が高まって、建築業界は打撃を受けた。だけど、その後、さらに問題がおきた。国がその後に作った規制制度が、あまりに厳しすぎて、建物建てるのが、とんでもなく難しくなってしまったのである。


建築業界の市場規模は、日本のGDPの10%に及ぶから、その影響もひどかった。GDPを押し下げる主要因の一つになって、現在の日本の景気の悪化に一役かう羽目になってしまったんである。(人によってはサブプライム並に酷いって人もいる)


稚拙な規制ってのは、この手の問題を引き起こしやすい。あの時も、世論が盛り上がって、建設業界をたたきにたたいたので、政府としても対策を取らざるをえなかったんだろうけど、出てきた結果は、考え得る限り、最悪の結果だった。


で、なんだけど、僕が懸念しているのは、今回の件で、「日本で派遣を雇うのは、後々の事まで考えると損だ」と企業サイドが判断したケースだ。「派遣制度が今回の無差別殺人事件の原因だ」なんて事になったら、そりゃ、派遣制度を企業は見直さざるを得ないだろう。


この場合、企業がとるであろう選択肢で、有望そうなのが二つあって「正社員を増やして派遣をほとんど切ってしまう」って言う奴と、「日本では正社員のみで生産を行い、あとは全部、世論がうるさくない海外で生産する」ってのがある。


前者の場合、おそらくだが、失業率が上昇する。派遣全員を正社員化できるほどの体力なんて、今の日本の企業にはない。一部の大企業ならできるが、トヨタだって、期間工全員正社員にはできない。だから、正社員にしてもらえる人の数より、派遣制度がなくなって失業してしまう人の数のほうが多くなる。


これは、おそらくだが、日本の犯罪の件数を増やす結果に結びつく。理由は先に述べたように、「失業は窃盗などの非暴力犯罪の増加をもたらす可能性が高い」からだ。


一方で、後者は、当然だが、産業の空洞化と名高いアレを引き起こす。もともと、日本では車が売れなくなってきたわけで、トヨタあたりは、喜んで海外に生産拠点を移すかもしれない。日本国内の派遣使っている工場減らして、海外の工場増やすってことだ。


人件費が安いし、マスコミだってうるさくない所もある。むしろ、雇用を創出してくれるってことで、喜んでトヨタをむかい入れてくれる国さえあるかもしれない。



この二点が、僕が心配する事なんだ。そして、だけど企業がそれをやりかねないんじゃないかと、今、危惧している所なの。


無論、派遣制度の見直しや、労働市場のきちんとした改革は、今の日本には必要だし、それが議論されるきっかけになるなら、今回の事件は構わないし、むしろ、良いことだ。また、今回の事件をきっかけとして、ちゃんと、政府が労働市場と向き合ってくれるなら、それも大歓迎。


ただ、おかしな規制だとか、「派遣制度が今回の事件の根源だ」って意見には、僕的には、反対する。デメリットがメリットを上回りすぎていると考えているからだ。企業サイドが、ウンザリするような対応をとりそうな気がビンビンするから。


だからせめて、「派遣制度が今回の事件の根源だ」って言うなら、その前に、いくつか枕をつけて欲しい。


「今の若者は危険じゃありません。金銭的には恵まれてませんが、笑ってしまうほど遥かに40年前の若者より安定的です。失業したからって盗みを働いたり、人を殺したりする人間はまずいません」って事。


それから「派遣社員は、おちこぼれでも何でもありません。正社員と同じくらいよく働くし、彼らがその地位に甘んじているのは、彼らに能力がないからでなく、運がわるかったというのが多くの場合、最大の問題なんです」って事。


当たり前の事かもしれないけれど、でも、変な方向に規制が向かないようにするには、これはやっぱり大切な事なんだ。


経営者の皆様におかれましては、今回の件で「派遣を雇うは危険だからやっぱりやめよう」なんて絶対に思わないでください。雇用はちゃんと作ってください。お願いします。あるいは正社員を増やして、派遣を減らし、全体として雇用者数が減るような形に結びつくのが良いことなのかどうか、それもご検討願います。


政府におかれましては、きちんと労働市場の問題について取り組んでください。また、この間みたいな、官製不況の原因になるような規制をつくらないでください。


どうかお願いします。
posted by pal at 03:29 | Comment(33) | TrackBack(25) | コラム このエントリーを含むはてなブックマーク | 編集

2008年06月10日

この国の政治が迷走している理由がよくわかったよ・・・

こないだのエントリの後編を書こうと思ったんだけど、ちと、いい加減ウンザリするニュースがいくつも入ってきたので、こっちを先に書いておきますが。


「ダガーナイフ」銃刀法改正も検討へ


こないだの連続殺人のせいなんだろうが、お前等、本当に日本の為にはたらくつもりがあるのかと小一時間。


あのさあ、こないだの事件は、ナイフがなかったら起きなかったんですか?いや、本当にそう考えているわけ?単に規制しやすくて、ちょっとだけ「仕事してますよ」的なアレでやってんじゃないの、これ?


だってさ、こんなもの規制した所で、今後、通り魔事件が減ることはまずないし、自殺が減ることもないし、交通事故が減るわけでもないじゃん。そもそもさあ。


包丁が通り魔事件でよく使われるが、包丁が通り魔事件起こしているわけじゃない。首つり自殺でロープが使われるからって、ロープが自殺を引き起こしているわけでもなく、交通事故の原因だって車じゃないでしょ。


そりゃ、車があるから、交通事故は起こるわけだが、ひとつの事故の因果関係で、「車があるからいけないんだ」なんて形にはならんでしょ。


政治家と官僚ってリソースは有限なわけで、それらは、もっと効率良く使われないといけないはずなんだけどさ。なんで、こんなどうでもいい規制法案を真面目に作る必要あんの?


ちょっと前にさあ、睡眠薬が自殺によく使われたモンで、そういう薬を色々と薬品業界が自主規制かなんかしたことがあったはずだけどさあ。


あのさあ、そんな事したって、意味がないんだよ。自殺しようとしている人達は、睡眠薬自殺できないなら、他の方法をとるだけの話じゃん。でもってさあ、睡眠薬を使った自殺でなら、致死率がそんなに高くないから、自殺してから、家の人が救急車呼んで助かる確率は結構あった。自殺未遂ですむわけ。こういう場合にはね。


ところが、睡眠薬使った自殺ができなくなると、今度は、首つり自殺とかしちゃう人が増えたりするわけだ。そうなると、これは、まず確実に死にいたる方法だから、自殺者が増えてしまったりもするわけで。


先日の秋葉原連続殺人の件だってさあ、もし、犯人がナイフもってなくて、ひたすらレンタカーで、人を無差別に轢き殺そうとしてたら、もっと沢山人が死んでいたかもしれないじゃんか。歩行者天国にダンプで突っ込んで、ひたすらアクセル踏み続けたら、何人殺されれていたかわからんのよ?なんで、レンタカーで、ひたすらひき殺し続けずに、ナイフ使ったかはしらんけどね。


車から降りて、ナイフ使ってたから警官が取り押さえられたけど、車に乗って、ひたすら人を轢き殺す方法をとってたら、警官まで轢き殺されていたかもしれない。


ダガーナイフ規制したら、この手の連続殺人がなくなるなんて、馬鹿げた考え方としか言えないんだけどさあ。他にも、いくらでも沢山の人を殺す方法なんてあるんだから。犯罪を産んだ土壌から解決しないと、何しても大概は無駄なんだよ。


なのに、一体、何考えて、あんな馬鹿げた事やりだすわけ?

それからさあ



同次官は、米機関投資家のゴールドマン・サックスやモルガン・スタンレーが原油高は今後も続くと予測したリポートを公表後、原油が急騰したと名指しで非難。「片方で投資をしておいて(取引に)有利な情報を流す。(市場の価格が)しかるべき水準に収れんするメカニズムが機能していない」と不満を述べた。
 その上で「どんなことがあってもファンダメンタルズ(経済の基礎的条件)は60ドルだと言い続ける」と強調した。 

原油高に怒りもピーク=米投資家を名指しで非難−経産次官Comments



またお前か・・・って思った記事なんだけどさあ、何で、こんな人が次官してるわけ?とても東大で経済勉強してきた人とは思えないんだけどさ。


あのさあ、そんなことしてるなら、相場操縦でとっくに逮捕でしょ。アメリカじゃ。そりゃ許されんよ。それが出来てないってことは、買ってるのは他の奴なわけで。


そもそもさあ、原油のファンダメンタルズが60ドルで、今の価格はバブルだっていうならさ、普通の次官クラスならさ、


「 原油価格が上がっている場合、国内の石油化学関連メーカーは合法的に商品価格に、原油の値上がり分を上乗せできる。

この場合、石油化学関連メーカーは、買い付け時の原油価格と販売時の原油価格の差益が入るため、業績が好調になる。

しかし、いったん、製品価格が上がり始めると、消費者は、価格が上がった分、買い控えや、そもそも製品を買わないといった行動を取り始めるため、全体として消費が減り始める。石油関連製品に対する消費そのものが減っていくのである。

石油関連製品の消費が鈍化し、消費者が原油高のため車に乗らなくなれば、そもそもの消費が減っていく。人々が外に出かけなくなるからだ。その結果、石油とは関係のないサービス業にも影響が出て行く可能性もある。

結果として、不景気が訪れ、石油の消費が減っていく可能性が高い。現実問題として、アメリカでは車などの販売台数が鈍化しており、消費者はより燃費の良い車を求め始めている。

現在、アメリカは不景気にさしかかっており、石油の消費量も今後減ることが予想されている。これは、金利の引き締めをおこなっており、オリンピック特需が今年には終わる中国も同じだ。

で、ある以上、本来であれば、現在の石油価格は下がっていないといけないはずだ。だが、現在の原油価格は、明らかにファンダメンタルズからかけ離れており、明らかにバブルの様相を呈している。


消費者や、石油を消費する企業は、現在コスト高に苦しめられているが、もし、原油価格が下がった場合には、石油科学関連メーカーは、製品価格を下げねばならなくなる。だが、彼らの倉庫には、原油が高い時期に買った在庫がある。つまり、買い付け時の原油価格と販売時の原油価格の差の分だけ、損がでることになる。


いったん、この原油バブルが弾けた場合には、石油を原料として使う製造業企業には影響が出ることは避けられない情勢だ。また、消費者が消費を減らすという行動は、石油価格が下落した後も、持続してしまう可能性もある。


現在、国際的に、レアメタルや原油の高騰が続いているが、もしここから、投機資金が一斉に逃げ出した場合には、そのことが企業にとっては、一時的な損失を産むことにもなりかねない。また、消費者の行動に及ぼす影響も無視できる問題ではない。


現在の事態を深く憂慮している。」




くらいのことは言えないものなんですかね。よりにもよって、金融機関とか資本市場批判とか、一国の次官クラスの発言とは思えないんですけどね。もうちょっと日本経済を真面目に考えてくださいお願いします。


政治家にしろ、官僚にしろ、いくら頭が良いったって、限られたリソースしか持っていないのに、そのリソースを無駄遣いしすぎじゃないですかね。


もっと、真面目に本当に重要な問題について取り組んで下さい。お願いします。連続殺人にしろ原油にしろ、もうちょっと違うやり方があるでしょうに。
posted by pal at 22:59 | Comment(8) | TrackBack(3) | コラム このエントリーを含むはてなブックマーク | 編集

2008年05月28日

中絶とナチスのホロコーストってどこがちがうの?前編

さて、本日は、先日のエントリ、

トリアージと中絶の経済学

の続きである。


タイトルはかなり扇情的なものにしたが、今回の話はするには適当だろうという事でつけた。なんで、こんなタイトルになるかは、これからお話しようと思う。


さて、なんだけども、先日の話では、「ヤバい経済学」の話で、「アメリカで犯罪を減らした史上最大の要因の一つが中絶だ」って話をしたわけだ。

「やば経」によると、子ども時代の貧困と片親の家庭で育った子どもは、将来犯罪者になるかを予測する上で、もっとも強力な要因だと言う。

片親の家庭で育つと子どもが将来犯罪者になる可能性はほぼ二倍になるらしい。また、母親が10代、あるいは母親の教育水準が低い場合にも、子どもが犯罪者になる確率が上昇する。

「やば経」では、ここで、アメリカで何百万人の女性に中絶を決心させた原因の一つが、「子どもを生んだら、その子どもは不幸になり、犯罪者になる確率が高い」と女性が予測した要因そのものにあるようだ、と仮説を立てた。

そして、実際問題として、中絶が合法化されてから、犯罪者が減った。この話は昨日した話だ。問題はここから。

さて、ここで素朴な疑問がわく。日本は、世界で最も治安の良い国だが、一体、日本の治安の良さをもたらしたのは一体何なんだろう?まさか、中絶?日本でも?そんな馬鹿な。でも調べてみるとアレな事実が浮かび上がってくる。


少年犯罪データベース 少年による殺人統計


まず、こちらの統計グラフから紹介するんだけど、ここで少年による殺人の統計が見て取れる。それをみると、戦後の子ども達は、急激に凶暴になったのが見て取れる。少年による殺人が急激に増えたのだ。

そして、不思議なことに、1967年あたりから急激に少年による殺人が減り始める。

何故だろう?何故、急に日本の少年は凶暴になって、1967年を境に少年達はおとなしくなったのだろう?実は、この傾向は少年による殺人によるものだけでなく、少年による強姦でも同じ傾向が現れている。

少年犯罪データベース 少年によるレイプ統計

コピーといっていいほど、少年による殺人事件の統計と同じだ。戦後になると急激に少年による強姦が増え始め、そして、1967年あたりを境に、急激に少年達は強姦をしなくなっていった。

一体、何がこんな状況を生み出したのだろう?

その答えは、意外なことにルーマニアにある。チャウシェスク政権時代の話だ。「やば経」からの引用になるが、


ニコラエ・チャウシェスクはルーマニアの共産主義独裁者になって1年後の1996年、中絶を禁止した。「胎児は社会全体の財産である」。彼は高らかに宣言した。「出産を忌避する者は、国家存続のための諸法を犯し、義務を怠るものである」。


チャウシェスクが取った政策は、単純なもの、つまり「生めよ増やせよ」政策だった。中絶を禁止して、人口を増やし、ルーマニアを強化しようとしたのだ。

問題はここからだ。

中絶が禁止されてから、一年でルーマニアの出生率は二倍になったのだ。チャウシェスクの狙いは、見事に結実した。だが、副作用があった。また、「やば経」からの引用になるが、


中絶が禁止されてから生まれた子供の世代を、ちょうど前の年に生まれた子供と比べてみると、どの指標も悪化している---学校の成績は悪く、仕事で成功することも少なく、そして犯罪者になる可能性はずっと高くなっていた。


中絶が合法である限り、女性は、自分で子どもをちゃんと育てられるかどうか、きちんと判断する。これが「やば経」の結論だった。

だが、中絶が非合法化されると、女性は、ちゃんと子どもを育てられるかどうか、全く判断しないまま子どもを生むようになる。

その結果が、こういう形になって現れる。ルーマニアは、中絶が禁止されると、出生率は高くなるが、子ども達が犯罪者になる確率が高くなるというモデルケースなのだ。

さて、じゃあ、日本に戻ろう。

日本では、1941年、閣議である政策が決定された。その政策とは、「産めよ増やせよ」というスローガンがついていた。富国強兵、植民地への殖産、それから戦争における人員の確保のためだ。

そして、この政策は、狙った通りの効果が一応はあった。日本の出生率は、1920年の36.3%をピークに緩やかに下がり、1940年には29.0%まで下がっていた。明治以来の人口増加は限界に来ていたのである。

ところが、「産めよ増やせよ」のスローガンが採択された1941年から、出生率は上昇に転じ、1943年には30.2%まで回復。1947年には34.3%まで上がり、その後は下降の一途をたどり、1955年には、19.3%まで下がった。図表は以下。


tb0.1.gif

戦後における人口の動きより


先にも述べたように、中絶をするかどうかが女性の判断にゆだねられた場合、女性は子どもをちゃんと育てられるかどうかを判断する。その精度はかなり高い。育てられないと判断すれば、彼女達は中絶を選ぶ。


身も蓋もない言い方をしてしまえば、将来犯罪者になってしまいそうな子どもしか育てられないと判断すると、女性は中絶を選ぶことが多い。


だが、このシステムが、チャウシェスク時代のルーマニアのように、国家からの政策によってゆがめられた場合には働かないのだ。


そして、「やば経」の仮説にある通りのことが、日本でも起こった。1941年前後に生まれた子供達が、少年になり、少年犯罪をするようになる10才なるのは、1951年前後からだ。

少年の凶悪犯罪は本当に増えているのか


こちらのページに、強盗・殺人・強姦・放火の四種を合計したグラフがある。戦後の小宴凶悪犯罪の統計グラフだが、昭和30年から、急激に少年による凶悪犯罪が増えはじめているのがみてとれる。

昭和30年は1955年だから、ちょうど、1941年生まれの子ども達は14才になっていることになる。つまりは、少年犯罪(10−19才)の範囲内で非行に走る年頃だ。


これは偶然だろうか?図らずも、「やば経」がたてた仮説の通り、日本でも起きている。つまり、「産めよ増やせよ」的な政策、中絶禁止は、その後の国内における犯罪の件数の増加につながる、という。

この話は、まだここで終わらない。

戦前戦中の「産めよ増やせよ」的政策の影響は、戦後もどうやら続いたらしい。戦地から帰ってきた男性が、はっちゃけただけかもしれなけど、1949年までは出生率は高いままだった。しかし、1947年の34.3%をピークに出生率は下がっていく。


だが、一番重要なのは、以下の数値だ。

tb0.3.gif


同じ資料からだが、妊娠中絶件数が昭和24年(1948年)の10万件から急激に増え始めたのである。昭和25年には32万件、昭和26年には45万件、昭和28年にはなんと100万件に達した。たった4年で、10倍まで増えたのである。

この後、中絶率は横ばいになり、1960年まで100万件を記録し続ける。

もし、「やば経」の仮説が正しいなら、このように、女性が自分の自由意志で中絶するか否かを選択した場合には、それは、日本での犯罪の減少を引き起こすことにつながるはずだ。

そして、それは、女性が積極的に中絶を始めた昭和28年(1953年)前後生まれの子ども達で最初に現れることになる。この子ども達は、犯罪を犯す確率が低くなる。


そして、ここでも、まったくその通りのことが起こった。昭和28年前後に生まれた子供達が10代になる昭和40年前後あたりから、急激に凶悪少年犯罪の件数が減り始めたのである。

少年の凶悪犯罪は本当に増えているのか


こちらの中段あたりにあるグラフを見て頂けばそれがわかる。

つまり、アメリカやルーマニアで起こった事は、日本でも、ほとんど全く同じ形で繰り返されていたことになる。女性というのは、どうやら本当に直感をもっているらしい。

つまり、彼女達は、自分の子どもが犯罪者になってしまいそうな状況で、中絶という選択肢がある場合には、中絶を選ぶことが多いのだ。日本でもアメリカでも。

どういうメカニズムかはわからないが、女性達は、かなり高い確率で、犯罪者になりそうな子どもは、中絶してしまうようなのだ。

だが、もし、「産めよ増やせよ」的な政策が取られたり、妊娠中絶が禁止されると、この機能が働かなくなる。その結果、子ども達の中で犯罪者になる割合が多くなってしまい、少年犯罪が増える。


日本は先進国ではかなり早くから妊娠中絶を合法化していたし、戦後は「産めよ増やせよ」をしなかった。そして、その期間が相当長期にわたって続いた。


つまり、日本が世界で最も犯罪率が低い最大の原因は、日本人がモラルが高いからでも、裕福だからでも、警視庁が優れているからでもない。妊娠中絶が早くから実施され、人口動態に人為的に政府が手を加えようとしなかったからのようだ。

その結果、日本の女性達は、正しく産んでよい子どもとそうでない子どもを、見もふたもないが「選別」できた。

その結果として、日本では世界でもまれにみる低犯罪国になったというわけである。

これは驚くべき機能、女の直感だが、ここで、どうしようもない疑問が持ち上がる。


また、別の回に、資源の有限性がその合目的的な最適配分を促し、戦略性やリーダーシップや組織内の規範意識も意思決定も価値判断もそこから始まる、ということをわかりやすく説明したくって、四川の震災のニュースを挙げてトリアージの概念を説明した。絶対的に医療資源が不足しているところでは、「もう助かりそうにない患者」と「患者自身が処置したら大丈夫な患者」はカテゴライズして分けて、その間の「治療しなければ助からないが治療すれば助かるかも」というところに有限の医療資源を配分する、というシステムがあるんだよ、ということを説明したら、やっぱり女子学生のかなりの部分から「かわいそうだ」という反応があった。


ケーキを売ればいいのに - 福耳コラム



中絶が認められると、犯罪が減る。それは女性が、将来犯罪者になりそうな子どもを中絶するという身も蓋もない育児制限を行うようになるからのようだ。


胎児を殺して社会を豊かにするという行為を、明らかに意図的でないにせよ、女性達は行っている。この場合は、犯罪者になりそうな子どもは、中絶するという形でだが、これが厄介なことに、戦後日本で、最も効果のあった犯罪対策のようなのだ。

だが。

これって、かの悪名高いナチのホロコーストと同じような事じゃないだろうか?

だって、ナチは、ユダヤ人に「劣等民族」というレッテルを貼って彼らを虐殺した。

また、重度障害者たちが精神病院のガス室で殺されていった。その数は20数万人にも上るという。

ようするに、社会に役に立たない人間は殺して良いというアレだ。これって忌み嫌われる行為なんだが、しかし、中絶にもどうやら、同じ機能があるらしい。

この場合、中絶が合法化されると、犯罪者が減る。つまり、中絶というのは、悪名高いアレだ。はてBのタグで「全体最適はナチ」なんてのがあるが、まさしく、この行為そのものだ。

社会全体の幸福と女性個人の幸福のために、将来犯罪者になりそうな胎児を殺しているってことだ。


ここまで見てくると、次のようなアレ、つまり、「やば経」に出てくる、


ある法学者は、中絶の合法化は、奴隷制度よりも(必ず死を伴うわけだから)、ホロコーストよりも(「ロー対ウェイド」裁判以降にアメリカで行われた中絶は2004年現在3700万件で、ヨーロッパで殺されたユダヤ人600万人を超えるから)、もっと悪いと言う。


という言葉を思い出してしまう。


ここで、「この女学生達は偽善者だ!中絶には賛成するのにトリアージには反対するなんて、偽善の極地だ!」という事は簡単。日本の女性の大半は中絶に賛成しているからね。


だが、僕の結論は違う。


この二つには、とても大きな違いが存在する。前回のエントリでも少し述べたけど、次のエントリで、その違いについて述べてみたい。


後編に続く。
posted by pal at 01:30 | Comment(5) | TrackBack(3) | コラム このエントリーを含むはてなブックマーク | 編集

2008年05月26日

トリアージと中絶の経済学@幸福と不幸のトレードオフ

ケーキを売ればいいのに - 福耳コラム


というfukuさんの記事から始まって、色々と議論が沸き立っているので、尻馬しときます。


まぁ、流れは、


はてなブックマーク > ケーキを売ればいいのに - 福耳コラム


で、この記事に言及したブログが大体網羅できているので、そちらを見て頂くとして、と。


今回の記事では、先の記事の中で触れられている、「資源の有効配分」に関するものです。


fukuさんの記事の中では、女学生との話で、「競争で負けた組織はかわいそうだ」という意見から始まって、そこから、「資源の有効配分」の話になって、トリアージの話になっているわけですが。


で、なんですけどね。


一人の人間が「可哀想」だからという理由で他人を助けた場合において、それは、トレードオフをすでに引き起こすのね。今日の話はそこ。



例えば、医療に関して言えば、最近の医療崩壊の話になるけど、医者というリソースが限られたものなのね。社会の富が増えれば、そのリソースを増やすことはできるけど、有限であることには代わりがない。


そのリソースは、社会全体の幸福につながるように配分されなければならないのだが、この問題についての視点はしばしば無視されてしまう。


で、これと根っこが同じなんだけど、妊娠中絶にもこの問題が絡んでいる。


特に妊娠中絶の反対派というのは、女性個人のリソースが限られたものであり、そのリソースの有効活用という視点に関して、ほとんど欠けていると感じるモノが多いわけ。


絶対に妊娠中絶に反対する人たちがいる。例えば、胎児は人間であって、それを人工的に堕胎させる行為は最悪の犯罪行為だという人たちだ。


例えば、「ヤバい経済学」にこんな話が出てくる。




ある法学者は、中絶の合法化は、奴隷制度よりも(必ず死を伴うわけだから)、ホロコーストよりも(「ロー対ウェイド」裁判以降にアメリカで行われた中絶は2004年現在3700万件で、ヨーロッパで殺されたユダヤ人600万人を超えるから)、もっと悪いと言う。



ちなみに、日本では年間30万件の中絶が行われており、これは、自殺者3万人、交通事故による死者9000人、殺人事件による死者1200人程度を全部あわせたよりも大きい。

ヤバい経済学の第四章では、「犯罪者はみんなどこへ消えた?」という内容で、アメリカで犯罪者が消えた原因を妊娠中絶の合法化にあるとした。様々なデータを通して、それを論じた。


その後に、こんな文章がくる。



アメリカで犯罪を減らした史上最大の要因の一つが中絶だなんていうのは、もちろん嫌な話だ。なんだか、ダーウィン主義よりもスゥイフト主義の香りがする。大昔、G・K・チェスタトンが言ったらしい言葉が頭に浮かぶ。:帽子が足りないからといって頭を切り落としても問題の解決にはならない。経済学の用語でいうと、犯罪の減少は中絶合法化の「意図せざる便益」である。しかし、道徳的な立場や宗教上の理由で中絶に反対していなくても、個人の不幸が大勢の幸せに変身するなんてショックだ。


「しかし、道徳的な立場や宗教上の理由で中絶に反対していなくても、個人の不幸が大勢の幸せに変身するなんてショックだ。」という場所を強調したのは、これが正に幸福と不幸のトレードオフそのものだから。


今回のエントリの趣旨は、ここにあるのだが、この問題こそが、この手の問題について議論を巻き起こす肝なのね。



中絶についてそれほど強い感情を持っていようがいまいが中絶はとても大きな問題だ。ブロンクスとミネアポリスで警察の最高幹部を務めたアンソニー・V・ボウザは1994年にミネアポリス州知事に立候補したとき、それを思い知った。ボウザはその数年前に本を出し、「おそらく、1960年代の終わり以降にわが国が採用した犯罪者対策の中で有効だったのは唯一中絶だ」と書いていた。ボウザのそういう意見は選挙直前になって知れ渡り、世論調査で彼の支持は急落した。で、結局負けた。



さきにも述べた通り、我々は「少数の不幸を代償として得られる大多数の幸福」というものについて、非常に不快に感じるメンタルを持っている。だから、基本的には、ここは受け入れられにくのだ。


で、なんだけど。


妊娠中絶は、いくつかのメリットとデメリットがあり、それらは、トレードオフの関係にある。


例えば、貴方が結婚して一年目に嫁さんに子どもが出来たとしよう。ところが、医者にいったら、「貴方のお子さんは、50%の確率でダウン症になる可能性があります。また、お嫁さんが出産の際に死ぬ確率があります」と言われたとする。



これは極端な例だけど、医療が発達した今でも、出産には、ある程度の確率で死の危険性が伴うし、それから、子どもの何%かは、先天的な異常を持って生まれてきてしまう。


そして、それらが、出産の前にわかってしまうケースがある。


ここで、貴方はトレードオフに直面する。


つまりだが、嫁さんの死の危険性をしってなお、子どもを生んでもらい、さらに、生まれた子供がダウン症だとしても、その子どもを育てるか。


それとも、中絶して、最初からもう一回小作りをするか、あるいは中絶して子作りを全面的にあきらめるか、だ。


酷い選択肢なので、どれを選んでも正解なんてない。でも、資源は有限で、その全てを解決しうる技術が現状ない以上、どれかを選ばなくちゃならない。


以前、妹が、学校で、「妊娠した時に子どもが先天的な異常を持っていると発覚しました。どうしますか?」ってテーマで議論したときの話をしてくれた。


その中で、ある女性が「生まれてくる子どもの命は、子どものもので、不幸か幸福かは子どもがきめることだから、親が先天的な異常を持って生まれてくる子供は不幸だろうから産まない方がいいなんて決めつけるのは間違っている」と言った話をしてくれた。


その女性の考え方が述べられた時、教室で拍手が起こったそうだ。ただ、妹のほうは、「やはり嫌」だと思ったそうだ。


日本の女性が、こういう問題を突きつけられたとき、どうするかは、個人できめればいいと僕は思っている。僕はフェミニストではなく、自由主義者の陣営に属する考え方をしている。だから、妊娠中絶に賛成するのは、自由主義的な発想によるものだ。つまり、政府によって「妊娠中絶は禁止」と規制されるより、個々人に生む生まないは任せた方がずっと上手く行くと考えているからだ。(問題はあるが、それは後で述べる)


もうひとつ、ものすごくショッキングな話をすると、文化人類学などで報告されていることだが、しばしば、未開民族では、「新生児殺し」が行われているそうだ。


僕が知っているケースでは、ある部族では出産は女性だけで行われるので、出産の際に、先天的な異常をもつ子どもが生まれた場合には、その子どもを殺してしまって、夫には「流産だった」と告げてしまうそうだ。


とても嫌な話だけれど、この話には、ある種の合理性がある。


というのも、女性にとって、生涯に生める子どもの数は極めて限られているからだ。この部族の女性にとっては、先天的な異常をもつ子どもを育てるコストは、とても高くつく。本来だったら、生涯で5人の子どもを育てられるのが、先天的な異常をもつ子どもがいた場合には、3人程度が限界だろう。あるいは、すぐ死んでしまうかもしれない


どの場合でも、女性は非常に不利益をこうむるし、それから、うんでもらえるはずだった、赤ん坊もいなくなる。これは殺人にはあたらないが、新しい命が生まれてこなくなるわけである。


そういう風に考えれば、そういった新生児殺しには、ある種の合理性があるのである。


とても嫌な話だ。それはわかっている。


なんで、こんな話をするかというと、日本やアメリカでは新生児殺しは、犯罪だが、一方で、中絶が合法化されているため、まさに、これと同じ状況が、中絶という形をとって行われているからだ。


トリアージと妊娠中絶、経済学と経営学における、このテーマの問題は何か?というと、「限られた資源をどれだけ有効につかって、社会の幸福に貢献するか?」というのがある。


トリアージに関しては、限られた資源とは医療で、それをどう有効に扱って沢山の患者を救うかという問題。


妊娠中絶に関しては、限られた資源とは、女性の卵子と子育てにかけれるコストであり、これらをどう有効に使って社会の幸福に貢献するか?という問題。


これらは、「限られた資源をどれだけ有効につかって、社会の幸福に貢献するか?」というテーマと根っこを一緒にしており、それゆえ、しばしば、この問題に経済学者やら経営学者が首を突っ込むのである。


で、妊娠中絶に話を戻そう。


妊娠中絶が非合法化された場合の、主な不利益をあげていく。


まず第一に、たとえ、非合法にされても、やはり「望まれない妊娠」は起こるって事だ。妊娠中絶が非合法化される前のアメリカですら、年間6万件から7万件の妊娠中絶があった。

また、非合法のもぐりの医者による中絶というもの行われていたという。これは非常に大きな問題で、非合法な中絶というのは、非常にリスクが高かった。現在ですら、ぞっとするような方法で中絶は行われているわけだけど、それよりもっと酷いものが行われていたのである。女性にとっては非常にリスクが高かった。


第二に、望まれずに生まれて来た子どもに親は冷たいって事だ。家庭内暴力や、捨て子が急増する可能性がある。


第三に、これはやば経で述べられていることだが、犯罪が増えて、犯罪で死ぬ人が増える可能性があるってことだ。不快は話だけど、貧しい女性は、妊娠中絶が禁止されたら、妊娠した子どもを生むしかなくなる。そういった家庭の子どもは、犯罪者になる確率が、そうでない子どもと比べて非常に高い。


やば経では、ロー対ウェイド裁判の判決文を引用している。このようなものだ。


州がこうした選択を一切認めないことで妊娠女性に与える損害は明らかである・・・・(中略)・・・母となること、あるいは新たに子どもをうむことが、女性に痛ましい生涯と未来を強いる場合がありうる。心理的な被害は甚大でありうる。子育ては精神的および肉体的健康の足かせとなりうるのである。望まぬ子どもを持つことは関係するすべてにも苦痛を与えるうえ、心理的あるいはその他の理由で、すでに子どもをいつくしむことのできなくなっている家族に子どもを迎えさせることになる点も問題である。



無論、今でも、妊娠中絶に関する議論は絶えない。アメリカですらそうだ。先に述べた女性の言葉にあるように、「子どもの命は子どものものであって、それを親の都合で消し去っていいのか?」という主張には、それなりの説得力があるからだ。


無論、望まれない子どもを育てる際に親が負わされるコストは無視できるものではなく、それ故、妊娠中絶は合法化されるようになったのだけれど。


さて、次に妊娠中絶が認められた場合について考えて見よう。


まず第一に、一番大きな利益は、女性が出産をコントロールできるということだ。この利益は、とてもつもなく大きい。フェミニストサイドの言論を引用するまでもなく、女性の大半は、この権利を手放すことはないだろう。僕自身も、支持している。理由は、フェミニストサイドでなく、自由主義的なものだけれど。子殺しは減って、養子に出される子どもも減った。


第二に、プロによる妊娠中絶が行われるようになるので、比較的安全に、中絶が行われるようになるってことだ。これも利益が大きい。もぐりの中絶なんかがまかり通った社会よりも、こちらのほうが、母体に傷をつけずに行われるに決まっている。また、非合法だった頃の中絶というのは、費用がばか高かったわけだけど、今では100ドルで受けられるようになったのも大きな利益だった。


そして第三になるのだけれど、ここが問題になる。


妊娠中絶が認められてから、アメリカでは、凄まじい勢いで、妊娠中絶が増えた。「ロー対ウェイド裁判」の後、一年で75万人の女性が中絶を受けた。そして、その数は年々増加の一途をたどり、1980年には160万件に達した。現在では、年間150万件の中絶が行われている。中絶の費用は下がる一方だった。


さて、問題。


妊娠中絶が合法化されて、その手術の費用が下がった結果として、中絶が増え続けた。そして、妊娠が30%増えて、一方、出産は、6%減った。


つまり、アメリカの女性達は、妊娠中絶を産児制限の方法として使い始めたのである。本人達にその意図があるかどうかは、ともかくとして、統計は、はっきりとその傾向を物語っている。


やば経では、これを「さしずめ、荒っぽくも劇的な保険」と述べているが、こういった保険はモラルハザードを引き起こすことで知られている。


火災保険の例を使うけれど、「火災保険に加入する人が増えると、火元のチェックを怠る人が増えるので(保険があるから)、火事が増える」という状態が起こる。


これを経済学の用語でモラルハザードというのだけれど、妊娠中絶の合法化によって引き起こされた犯罪者の減少が「意図せざる便益」だとするならば、妊娠中絶の合法化は、「妊娠が30%増えて、一方、出産は、6%減った」というモラルハザードを誘発してしまった。


つまり、いざとなったら妊娠中絶という保険があるので、避妊を怠りがちなセックスをする男女が増えたってこと。


これが、アメリカで妊娠中絶が合法化されて生まれた一番大きなデメリットとも言える。


とても嫌な話かもしれないけれど、妊娠中絶が合法化されると、殺される胎児が増える、という言い方さえ出来てしまうわけだ。最初から予期は出来たことだけど、しかし、その数が年間150万件まで膨れあがるとは、フェミニストですら思わなかったろう。


最後にもう一つ、やば経から引用する。



さて、話を進めるために、一つひどい疑問を考えよう。:胎児と新生児の相対的な価値はどれだけだろう?何人だかの胎児を生まれた赤ん坊一人の命のために犠牲にしなければならないなんていうソロモン王みたいな問題が降りかかったとして、あなた、どんな数字を選びますか?単なる頭の体操だ----もちろん正しい答えなんてない----けれど、中絶が犯罪に与える影響をはっきりさせるのに役立つ。




これについて、どう考えるだろう?それは人それぞれだとは思う。


やば経では、「命は妊娠で始まる」とする中絶反対派であれば、レートは1:1とし、「中絶を選ぶ権利は胎児のそれよりも重要」とする中絶賛成派ならば、何人の胎児であろうが、生まれた赤ん坊一人の価値には届かないとする。


ここまでは普通の答え。


で、なんだが、ここからが、経済学者っぽいやり方だ。(やば経の筆者がいっているように、これから先の話は、非常に不快な話なので、そういう人は読み飛ばし推奨。)



まず、生まれた赤ん坊一人には、胎児100人分の価値があるとする。これは、やば経のレートだけど、話をすするために、そうする。


この場合、アメリカでは150万件の中絶が行われているから、年間、赤ん坊一万五千人の命が失われているのに等しい。


日本の場合は、年間30万件の中絶が行われているから、年間、三千人の命が失われているのに等しい。


この数値は、アメリカの場合、殺人事件と同数の人間と同じだし、日本に至っては、殺人件数の二倍ちょいの数字だ。


つまり、胎児は、赤ん坊の100分の1の価値とした場合、中絶の増加と犯罪減少のトレードオフは、極めて非効率なものになるわけだ。特に日本においては、極めて非効率な状況を生み出している。


では、ここまでの話をして、何が問題なんだろう?


中絶を禁止すればいいのだろうか?僕はそうは思わない。問題は、ある種のモラルハザードだ。


つまり、「いざとなったら中絶すればいい」という保険があることから、妊娠は増えるのに出産は減るという行為に拍車がかかってしまっている。


僕が、妊娠中絶で問題にしたいのはここになる。つまり、「いざとなったら中絶すればいい」という保険が、人々に及ぼしてしまうインセンティブの問題なわけ。


最初に考えられる対策は、「ピルとゴムの併用」を強く進める方法だ。特に、日本では未婚者よりも既婚者での中絶が多いので、既婚者にはこれを強く進める。


また、ピルが高価で、副作用の強いピルしか日本では買えないって問題もある。このあたりは、避妊の話になるので、おいておくが。


僕個人は、赤ん坊と胎児のレートが1:100だとは考えてはいないけれど、しかし、このレートで換算した結果として、中絶が現状、非常に非効率な手段となっているという問題意識がある。


基本的に、日本の中絶率は、50年前と比較して下がっているわけで、これ以上下げるのは、もう無理なのかもしれない。しかし、もう少し、避妊に注意すれば、下げれるんじゃないかと思っていて、基本的に「ピルとゴムの併用」を進める立場なわけ。日本ではピルは普及していなのでね。



結局のところ、やば経の結論は、


中絶と犯罪の関係からはっきりとわかることはこれだ:中絶について、政府が女性に判断をゆだねれば、普通、女性は、子どもをちゃんと育てられるかどうか自分で判断する。育てられないと判断した女性は、中絶を選ぶことが多い。



って事なんだけど。


個人的には、これに付け加えて、「中絶が合法化されると妊娠は増える可能性がある」って所も付け加えたい。ある種のモラルハザードを誘発してしまうからね。中絶できるから、避妊をおろそかにしてしまうことがあるってこと。中絶が合法化されてからのアメリカの中絶の増え方は恐ろしすぎるから。



最後にフリードマンが喝破した事で「他人の金を他人のために使うとき」には、それが酷く無責任になるというのがある。


これは、「他人のリソースを他人のために使うときには、それを効率的に配分しようというインセンティブがない」ということだと僕は理解している。だから無責任で非効率なことをやりだす。


これを中絶に当てはめると、中絶反対派の人たちは、家族のリソース、つまりは子育てであると、産む子供とかに関して、どの子供を育てるべきか、という嫌な問題について、考えるインセンティブがないってことでもある。


女性であれば、それこそ、自分の子どもを生んで育てるには、生理、出産、育児、授乳といったコストを支払わざるを得ないので、その効率的な配分というのを考えざるを得なくなるが、赤の他人だと、そういうことまでは考えるインセンティブが、しばしばないってこと。


女性にかかるコストを考えれば、妊娠中絶は認められてしかるべきだ。少なくとも、僕はそう思う。


トリアージの問題だけれど、医者がリソースを患者のために使うのは当然。普通にやってれば、医者というのは、合理的に、そのリソースを患者のために配分する。


無論、ここでも、医者がモラルハザードを起こす可能性はある。「医師が不必要に多くの薬を患者に与えて診療報酬を増やそうする問題」なんてその典型だ。


医療のリソースは限られているわけで、そのリソースをどう配分するか。それは常にトレードオフの問題をはらむ。しかし、配分しなくちゃならない。全員を救うことはできない。将来できるようになるかもしれないけれど、今はそうじゃない。さらに、モラルハザードの問題まである。


しかし、ここで、「他人の金を他人のために使うとき」的な状況で、医者のやることに、口出しするのは、同じくらい危険な問題をはらむわけだ。


例の「可哀想」の話になるけれど、彼女達は、自分で患者を助けるのではない。医者というリソースを使って、患者を助けるということを考えている。そこに、医者というリソースは有限で、その効率的なリソースの配分をどうするかという視点が抜けている。それが俺からすると非常に危ういとおもうわけだ。


多分、彼女達は、中絶には賛成するだろう。なぜなら、彼女達は、自分で子どもを生む当事者だからだ。だから、自分の資源の効率的な配分を目指すインセンティブがある。


中絶は、トリアージ以上に議論にされるし、非人道的な行為だとして、徹底的にたたく人たちもいる。場合によって、奴隷制やナチのホロコーストより酷いって人もいるわけだけどね。


彼女達が、子どもを可哀想だと思わないって言ってるわけじゃない。そうじゃない。どっかで読んだが、どんな女性だって、「本当に中絶しなきゃいけないの?」って聞かれると涙を流すそうだ。ただ、彼女達には生めない理由がある。そういうことだ。


それを、経済学の観点から話すと、ある種、非人道的で、無味乾燥なものになることはわかっているけどね。


この問題は中絶だけじゃなくて、僕らの社会にあまねく存在している。幸福と不幸のトレードオフ。誰かの不幸が、全体の幸福につながるなんて、ショックな話だ。


だけど、そういう状況がいくつもある。そして、マンキュー経済学にあるように、「人々はトレードオフに直面している」わけだ。


何かを得るために、何を支払わなければならない、そういう状況にね。リソースは有限なのだから、当然そうなる。


例えば、技術が進歩しても、やはり問題は起こる。たとえば、技術が進歩して、完璧で低コストな避妊法、それから、どんな怪我でも一瞬で直せる安い薬が開発され、大量生産されて世界の人々に広まったとしよう。


こういう状況なら、妊娠中絶なんてなくなるだろうし、トリアージなんてなくなるだろう。薬だけで治るわけだから。


だが、だ。それは、日本から、高自給の医者の仕事や看護婦などの医療関係の仕事がまるで無くなることを意味する。彼らは失業することになる。


いずれは、彼らも新しい仕事をみつけるだろう。だが、その間、彼らは失業せざるをえなくなるし、適応できずに自殺してしまう人もでるかもしれない。


これは、可哀想じゃないだろうか?無論、大半の人は、可哀想だなんて思わないだろう。だって、この世界から病気や中絶がなくなるんだから。デメリットよりもメリットのほうが遥かに大きい。


でもやっぱり、ここでもトレードオフの問題が起きる。世界から病と中絶がなくなる引き替えに、医者と看護婦と医療関係の仕事がなくなって、彼らは失業してしまうわけだから。


少数の犠牲の上にたつ平和の世界。そういって批判することもできるかもしれない。しかし、医者の仕事を守るために、病人を出し続けろなんて馬鹿げているわけだ。



この配分とインセンティブやトレードオフについて扱うのが経済学の問題なんだけど、これから、しばらく、この手の問題について、いくつか紹介していきたい。


とりあえず、今日はこんな所で。


posted by pal at 07:23 | Comment(4) | TrackBack(3) | コラム このエントリーを含むはてなブックマーク | 編集

2008年03月05日

書評「松下幸之助日々のことば」

まぁ、ここ数日、えらい不評なエントリばかり書いて、読者のみなさんの気分を悪くさせてしまった可能性が高いんで、今日は、もうちょっとポジティブなエントリ書こうと思います。


というわけで、今日は、僕の好きな本「松下幸之助日々のことば」のご紹介です。



なにそれ?って思う人がいるかもしれませんが、現在のパナソニックの創業者、松下幸之助の696の言葉をまとめたモノです。


たったそれだけです。

wikipediaにありますが、


父親が米相場で失敗して財産を失ったため、小学校を4年で中退しわずか9歳で宮田火鉢店に丁稚奉公に出た。



まともな教育なんて、何一つ受けなかった人です。ただ、そんな人だからかもしれませんが、ほんのわずかな言葉で、物事の核心を言い表す能力の持ち主でした。


まぁ、また「マッチョ」の話か、とか思うかもしれませんが、でも、すごくいいことが沢山かいてあるんですよ。しかも、数行の文章で。これ、凄いことなんです。たった数行の文章で、深くて面白い事を述べてしまうんですからね。


うちのブログみたいにダラダラ長くつまらんことを書いたりはしてません。本当に短い。僕、疲れた時とか、よくこの本読むんです。本当に凄い本でしてね。

ほら、名言集とかあるじゃないですか。ネットでもよくあるし、僕も紹介してきましたけどね。


ただね、そういうのって、過去の偉人たちの集大成なんですよね。でも、この本は、松下幸之助の言葉だけです。それだけです。でも、それなのに、本当に面白いんです。名言の宝庫とは、まさに松下幸之助のことをいうんだと思います。


wikipediaにもありますが、


また、「松下はどのような会社ですか?」という問に対し「松下電器は人を作る会社です。あわせて家電を作っています」と答えた。



気がきいた返しだと思いません?こういうのが一杯載ってるんですよ。信じられないほど。




せっかくですから、いくつかお気に入りを紹介させてもらいますけど(ってかね、名言多すぎて紹介しきれないくらいあるんですよ、マジで。)


この本、月ごとの構成になってまして、1月の名言、二月の名言って形でまとめられています。だから、ここでは、三月の名言でお気に入りなのを紹介させていただきますが、


人間はともすれば、うまくいけば自分の腕でやったと思いがちである。それがおごりに通じる。だから、事がうまくいったときは運がよかったと考え、うまくいかなかったときは運がないと思わず、腕がなかったと考えたい。そうすれば、自分の力をあげざるを得まい。

(成功と失敗)



いきなりマッチョイズムかよ!とか思う方もおられるかもしれませんけどね、ただ、やっぱり、これは真理だと僕は思うんです。自分の力をのばす心構えってのは、絶対に人間に必要なものだと僕は信じているんです。



熱意というのは人から教えてもらって出てくるものではない。自分の腹の底から生まれてくるものである。



名言集とかの存在意義を失わせちゃう言葉ですが、たしかにそういうモノです。


商品の価値は、つくる人間より使う人間の方がよく知っている。買ってくれる人に聞くのが一番いい。



これもお気に入りなんですけど、はてなの「50%の状態で出す」じゃないですが、ユーザーの意見をくみ取るのが良い製品作りの近道っていうのは、今も昔も変わらないようです。無論、いくつか問題もあるでしょうが、これはやはり基本の一つでしょう。



順調なときに失敗の原因が生まれ、困難に直面しているときに成功の芽が生まれる。



これもお気に入りなんです。最近のサブプライム問題も、そうでしたけど、経済が好調な時に限って、なんかおかしなことが進行していたりするんですよね。それから、困難に直面している時に限って、何かの新しいモノが生まれてきたりする。不思議なものですけど。終わらない不景気はありません。かならず、再生の時期が来るんです。



人より多く働くことは尊い。しかし、人より少なく働いて、今まで以上の成果をあげることもまた尊い。



働くばかりが能じゃありませんよ、という経営の神様からのお言葉でふ。



天国の良さは地獄に落ちてはじめてわかる。不足を経験しなければ満ち足りた喜びは真に味わえない。



昨日のエントリはこれをだらだら長いこと述べたようなものなんですが。やっぱり、松下幸之助みたいに、20文字くらいでまとめたほうがよいですね。


事にあたって、ある程度の負担や多少足をひっぱられることは最初から覚悟してあたるべきだ。



これもお気に入りです。何するにしても、万事順調にいくなんてことはまずありませんからね。最初から、ある程度の負担や多少足をひっぱられることを想定しとくのが丁度いいんだと思います。



美と醜は表裏一体。美の面にとらわれ、反面の醜を責めるに急なのは、真実を知らぬ姿である。



これ、特に好きな言葉です。美と醜は、一つのコインの裏と表で、結びついているんです。醜いものを責めて無くそうとするのは簡単ですよ。でも、それは醜ものがあるから、美しいものがあるんだってことを無視している。この二つは、同じコインに刻まれているんです。



自分の意志によって何でもできると考えれば、必ず迷いが生じ苦難に陥る。心すべきことである。



これ、五月の言葉なんですが、好きな言葉なんでついでにご紹介。あのですね、僕、あんまり努力って言葉が好きじゃないんですよ。いやね、時々、僕も使いますけどね。


ただね、努力って言葉の裏側には、「頑張れば自分の意志によって何でも出来る」っていうある種の傲慢が感じられて、どうにも好きに慣れない部分があるんです。


この社会は、専業化と分業が進んでいるわけです。皆さんの生活に必要ほとんどのモノは、他人が作ったモノです。


我々は、生きていく上で、「他の人が私に必要なものを作ってくれる」っていう暗黙の了解の下で生きているんです。そういう信頼が、分業と専業化を支えているんです。


貴方一人の力で出来ることなんて、どんなに努力しようがたかがしれているんです。



他人と分業し、自分で出来ることをして、初めて、人間ってのは、一人でするよりも遙かに大きい事を成し遂げられるんです。そこを忘れてはいけないってね。


だから、富を生み出すのに重要なのは、努力よりも、分業や協業、専門化なんだと僕は思っているンです。自分の意志で何でもできるとか、自分の地位があるのは自分が努力したからだとか思うのは、思い上がりも甚だしいって思うクチなんです。


自分一人で何でもできると思って、何かに挑めば、ほぼ確実に失敗するし、貧乏になります。


貴方が成功できたとしたら、それは、色んな人と分業して、優れた成果を生み出せたからに他ならないんです。今の社会ではね。そこが重要なことなんです。一人で出来ることなんてたかがしれているんです。



あと、ついでに、5月のことばの最後についている松下の話がお気に入りなんで、ご紹介しておきます。
利益だけでは動かない

 たとえば、ライオンに肉をやる。おまえの与え方が悪いから、おれは食わん、というライオンはいませんわな。とにかく腹がへっていればかぶりつく。それを十回ほどくり返していれば、顔を見せるだけで、ハハー、これはいつもわしに肉を人だなぁ、となついてくる。

 ところが人間はそうはいきませんね。与え方によっては、「けしからん、そんなもの食えますか」と、こうなります。考えようによっては人間ほど厄介なモノはありません。しかし、これは、ある一つの正義感とか、正義とかね、そういうものと合わせて与えれば、それは成り立つことだと思うのですよ。人間は利益で動く面と、利益だけでは動かないという二つの面をもっていますからね。

 まぁ、人間の心というものは複雑微妙というか、いわば千変万下の様相を呈しているものです。そして、そうした複雑微妙な心を持った様々な人によって成り立っているのがこの社会です。ですから、われわれはまずよくこの人間の心、人情の機微というモノをしらないといけませんね。そこから、よい人間関係も明るい社会も生まれるのではないでしょうか。




ついでに、ですが、昭和43年の発刊以来、累計400万部を超えているビジネス版バイブルである





も紹介させていただきます。これも、まぁ、定番っちゃ定番なんて、読んだ事がある人のが多いとは思いますけどね。松下幸之助のエッセイですけど、これはビジネスに関わる人間だったら読んだほうがいい。とにかく、含蓄が全然違う。


ビジネス書では、やっぱりね、8歳から商売に関わってきた人の言葉ってのは違うんですよ、レベルが。


そんなんで、読んだことのない人は、是非読んでみてください。これは本当に面白い本です。昭和からずーーーーっと読み継がれている理由は、読めばわかります。


これこそ、ビジネスのすご本ですよ。絶対に時間の損にはなりません。


あ、ついでに、もう一つ、この話も、「日々の言葉」からご紹介させていただきます。最近の流れで、ですけど。


幸せな時代

 現在は一面生きがいを求めやすい時代だと思います。昔に比べたら、ずっと生きがいが見つけやすくなっている。たとえば、江戸時代なら、士農工商という身分がきっちり決まっていましたね。サムライの家に生まれればサムライになる、町人の家に生まれれば町人になる、というようにどういう道に進むかは最初から決められていた。選択の余地はなかったわけですよ。そういう状態の中では、自分のやりたい事をやるとか、適正を生かすということはむずかしかったと思うんです。

 ぼくの少年時代には、もうそういった身分制度はなくなって、各人がそれぞれ志を持って道を求めることがしやすくなっていました。けれど、今のようなことはなかったですね。職業一つ選ぶにしても、限られた範囲でしかなかった。今は職業にしてもさまざまなものがありましょう。ぼくなど、名前を聞いただけでは分からないようなものも多いですが、とにかく非常にふえてきた。

 また、高校、大学へも、行きたければ行くことができますし、自分のすすみたい道、あるいは自分のやりたいことが自由に選べるわけです。

 そういう意味で、現在は生きがいを見つけやすい時代だと思うんですよ。今の若い人たちは実に幸せな時代に生きていると思います。



もひとつ。


百万円もらって不足をいう人もあれば、紙一枚もらって喜ぶ人もある。後者は心の豊かな人だと思う。
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2008年03月03日

努力しても決して幸せになれない理由

せっかくなんで、この話もしとこう。


というか、ひとつ前のエントリで、就職氷河期の話にのってしまったんで、この話もせずにはいられないんでね。


昨日のエントリを書いた後に、色々とフィードバックを頂いた。それで、考えていたんだけど、結局のところ、一つの結論には達した。


つまり、資本主義は、心の底から、みんなに嫌われている。これほど嫌われている主義思想はないという結論だ。


前回のエントリでは、資本主義の非人道性について書いた。その性質上、「誰かが負けないといけない」って話と、「群れで一番弱い犬には過酷な運命がつきものだ」って話だ。


確かに、そうなんだ。これは、資本主義がもたらす副作用の一つだ。だが、ちょっともう少し、マクロな視点で世界を眺めてみれば、別の見方が出来る。今日はまず、その話からしてみたい。



http://www.globalrichlist.com/


まずはこのサイトに行って、このサイトで、yenに貴方の年収を打ち込んでもらいたい。そうすると、貴方が全世界で上位何%に入る金持ちかがわかる。


打ち込むのも面倒くさいって人のために、参考までに述べておくけど、年収300万円でも、上位9.44%になる。


たぶん年収三百万円の人は、自分なんて、底辺クラスだと思っていると思う。日本という国でみれば、それは正しいかもしれないけれど、全世界的にみれば、とんでもない金持ちなわけ。これは現実なの。


日本がどれだけ金持ち国家かわかるよね、これで。そして日本人がどれだけ金持ちかも。底辺の労働者ですら、世界の上位10%なわけ。


そもそも、年収10万円でも、TOP 49.22%に入っちゃうの。これが世界の現実。世界の半分くらいの人は、一日2ドル以下で暮らしていて、テレビもなければ水道もなく電気もなく、当然、ネットなんてない暮らしをしているわけ。


明日食べるパンの心配をしていたり、明日どうなるかわからない、そんな人達が世界に30億人くらいいるの。


それと比べれば、日本ってのがいかに富んだ国かわかると思う。この国に生まれたというだけで、我々は勝ち組なわけ。


じゃあ、格差の話に移ろう。ビル・ゲイツの資産はおおよそ10兆円あって、2位のウォーレンバフェットは4兆円くらいある。二人合わせれば14兆円だ。


この資産は、全世界の人口の下位50%の全資産にほぼ匹敵すると言われる。たった二人の人間が、世界の半分の人間が持っている富の量と同じくらいの富を所有しているってわけ。


これをどう思う?


誰だってこう思う。「不公平だ」ってね。


ビル・ゲイツとバフェットの資産を没収して、そして彼らの資産を恵まれない人々に分配すれば、きっと、世界で30億人くらいの人々の生活を改善できるだろう。


ちょいと正確にいえば、14兆円あれば、1日1ドルを10年間、30億人くらいに配ることができる。10年くらい、貧困な人達の暮らしはかなり改善されるだろう。


だが、それが、本当に、この世界から貧困をなくすことに役立つと思う?


もっと言えば、本当に格差が憎くて不平等が許せないというなら、アメリカ人と日本人は稼いだ金をそういう地域におくってあげるべきだ。資本主義に反対し、不平等を許せない人達は、得に。


そういう考え方には、僕は反対はしない。ビル・ゲイツがやろうとしていることにも、反対はしない。ただ、僕は、そういうことをしても、長期的には何の役にも立たない可能性が高いと思っているの。


もうちょっと、範囲を狭めて考えてみよう。日本でもっとも裕福な人々の財産を奪って、それを貧しい人達に配れば、日本から格差が消えて、本当に豊かな暮らしが実現されるだろうか?


僕は、これっぽっちもそうは考えない。


理由は二つある。一つは、経済学的な理由で、もう一つは、人間という生き物の心理に深く根ざした問題だ。


まず、第一に、一つの面白い話をしよう。富を公平にばらまくのは、非常に道徳的なこととされる。ロビンフッドとかネズミ小僧をみればいい。金持ちから盗んだ金を貧乏人に分け与えるのは、洋の東西を問わず、非常に道徳的なこととされているんである。


だが、それを国家規模でやるのは難しい。しかし、金でなくて、資源でならいくつかケースがある。たとえば、石油などの天然資源だ。豊富な天然資源を国有化して、それから得られる利益を平等に分配すれば、ものすごく国民全員が豊かになれるはず・・・・だった。しかし、現実にはそうはいかなかった。


グリーンスパンの自叙伝「波乱の時代」にこんなエピソードが載せられている。下巻の13ページからだ。


天然資源が豊富だと、「オランダ病」と呼ばれる問題をかかえて経済が低迷する危険がある。
(中略)
オランダ病にかかるのは、資源の輸出が好調になり、その国の通貨が高くなる場合である。通貨高になれば、他の輸出産業は競争力が低下する。
(中略)
「10年後、20年後には分かるだろう。石油が我々の破滅の原因になることが」。この言葉は、ベネズエラの石油相で石油輸出機構(OPEC)設立者の一人、ホアン・パブロ・ベレス・アルフォンソが1970年代に語ったものだ。まさに的確な予想であり、この予想通り、OPEC加盟国はほぼすべて、原油で得た富を使って石油と関連製品以外の分野に経済を大幅に多角化することに失敗している。天然資源で得た富は、通貨の価値をゆがめるだけでなく、社会にも悪影響を与える。苦労なく簡単に富が得られると、生産性が伸びにくくなるのだ。



何度も繰り返してきたけど、国民の生産性が伸びれば伸びるほど、その国は豊かになれる。つまり、生産性を高めることは、その国、国家、他の人々への最大の貢献なんである。逆に、生産性が低ければ、その国は貧しく、低い生活水準を享受せざるを得ない。


そして、生産性を上げるために、もっとも効率的な方法は何か?というと、みんなが大嫌いな競争なのだ。勝者と敗者を容赦なくわかつ方法だ。


では、なぜ、競争が生産性をあげるかというと、競争が起こると、各個人は、それぞれ、自身の生産性を高めようとし、結果として専門化と分業という手段を取ることが多いからだ。


実際問題として、日本人の多くは、競争に勝ち抜くために、ある程度の専門知識を身につけようとするし、分業を受け入れている。


専門化と分業は、生産性を押し上げる重要な要素だ。この二つは、競争に晒されると、凄い勢いで推し進められる。



そして、競争による淘汰圧によって、生産性が押し上げられると、結果的にだけど、国が豊かになる。国が豊かになれば、社会的な利益が増大するんである。



現実的な話をすれば、競争に晒され続けた資本主義国は、不思議なことに、繁栄した。物質的な豊かさは上昇した。日本でいえば、底辺と言われる年収300万円クラスでも、PCもってインターネットしている人が多数いる。競争が激しかったのに、日本人の平均年収は伸びて、娯楽は増えて、最底辺の人達まで、最先端のテクノロジーであるPC(途上国からみれば)を使っていたりもする。


それは、社会全体での生産性が伸びたからだ。これこそが、資本主義が繁栄し、勝ち残った理由なんである。


そして、豊富な石油資源がある国々が、繁栄しきれなかった理由でもある。簡単に富が得られるので生産性が伸びにくく、そして、国からの様々な特典を享受できるので、働く意欲が薄くなってしまうのだ。これが石油の呪いと呼ばれるものだ。


グリーンスパンは、これを著書で非常に簡潔な言葉を使って説明している。そして、実際に、それを歴史が裏付けている。世界の富は、ここ100年で増大した。主に資本主義の国々で。そして、乳幼児死亡率は下がり、貧困は減り(必ず敗者を生み出す資本主義なのに)、平均寿命は延び続けて2倍になった(競争が絶え間なく続くのに)。このあたり、詳しく知りたい人は、グリーンスパンの著書を読んでみてくださいな。


グリーンスパンの伝記から、もう一つ引用させていただくが、


アフリカ西海岸近くの小島からなる小国、サントメ・プリンシペの領海内で大規模な油田が発見されたとき、その開発についての反応が複雑だったのも不思議だとは言えない。フラディケ・デメネザス大統領は2003年にこう語った。「私は国民に「オランダ病」「原油価格の不都合な真実」「石油の呪い」と呼ばれるものを避けると約束した。経済統計によれば、原油資源が豊富な開発途上国は資源に恵まれていない国と比較して、GDP成長率があきらかに低い。社会指標をみても、平均を下回っている。サントメ・プリンシペは、この豊富さの逆説を避けるつもりだ」



このように、豊富さの逆説を避けることで、自国を豊かにすると宣言した、大統領の決断は、とても正しいの。長期的にみれば、だけどね。


歴史的にみれば、小国で、経済の規模が小さい国家に豊富な天然資源が見つかると、しばしば、その国家と国民を逆にやっかいな立場に追い込んできた。


で、なんだけど、この話を僕がしたのは、競争がいかに、国家と人々を豊かにするかって話をしたいからなわけなのね。現実的には、競争することで、社会全体の物質的豊かさが上がるの。


もし、貴方が、もっと物質的に豊かになりたいなら、その為に出来る方法は、一つしかない。まじめに競争して生産性をあげること。それが、一番、社会に貢献することだし、結果的に社会全体を豊かにしていくってわけ。


で、ここまでが前振り。


ここまでは、競争して、生産性を上げて、より沢山の財やサービスを個々人が生産できるようになることこそが、物質的に豊かな社会を作る唯一の道だって話をした。ルールに則って競争し、生産性を高めることこそ、社会への最大の奉仕なの。


そして、それこそが資本主義だってこと。物質的に豊かな社会を作ろうとしたら、これほど優れた方法はないの。


けど、だ。


それでも、なお、資本主義は人気がない。


世界の寿命を延ばし続けているのは何だ?答えは資本主義。

世界から貧困を少なくしているのは何だ?答えは資本主義。

世界の生活水準をあげているのは何だ?答えは資本主義。


過去、どんな宗教、思想、哲学、そして体制も成し遂げれなかったことを、資本主義は成し遂げたの。資本主義の300年にわたる歴史で、人類は飛躍的に進歩した。進んだ資本主義国では子供たちは飢えと貧困と過酷な労働から解き放たれた。女性は、信じられないほど地位が上がった。妊娠を自分でコントロールする権利を得て、沢山の財産をつくることも出来るようになった。男性に頼ることなく。


それでも、なお、資本主義は人気がない。大多数の人から嫌われている。なぜだろう?成果だけみれば、過去、どんな時代に生まれたいかなる思想・主義よりも優れた結果を出し続けてきたのに?


答えは、どうやら、人間自身の心理の中にあるようだ。


たとえば、日本の実質GDPは、1960年と2008年を比較すると、およそ6倍に増えている。これは、日本人の生産性がそれだけ高まったからなんだけど、じゃあ、日本人の満足感、幸福度は、6倍になっただろうか?


たぶん、そうでもない。というか、絶対にそんなことはない。むしろ、昔はよかったなんて回顧する人のが多いかもしれないくらいだ。


なぜ、物質的豊かさがあがっても、日本人は、それと同じペースで幸福になれないんだろう?なぜ、日本人は、世界でもっとも豊かな人々の範疇に入るのに、こんなにも不幸だ不幸だと騒ぐ人が多いんだろう?


どうも、その答えは、人間の、とある心理に根ざしているようだ。


現在の先進国の若者にとって、将来の経済的安定性というのは、どうやら、過去の存在となっており、暗黙の必要条件は、世間の注目をひくことによって得られる「自己満足の追求」になっている、という指摘をどこかの本で読んだ。


グリーンスパンも、ここが問題だと述べている。ちと引用するけど、



繁栄が広がれば、あるいは繁栄が広がるからこそ、猛烈な競争や変化によって、自尊心の源泉である現在の地位が脅かされるのを恐れる人が多くなる。幸福度は、物資的な豊かさそのものよりも、対等だと思える周囲の人や同僚や目標とする人の豊かさと比べてどうか、といったことにはるかに大きく左右される。



つまり、だけど、幸福度は、かなりの部分で、相対的なものだということだ。衣食住の心配について、先進国の人々は、かなり心配しないですむ。少なくとも、途上国の人々みたいに、明日のパンの心配をして眠るようなことはない。


つまり、衣食住が満たされてしまうと、幸福度は、他者との相対的な差異によって規定されるってことだ。グリーンスパンは、もう一つ、面白い話をしている。


ハーバードの大学院生に、自分の年収が5万ドルで、同僚の年収がその半分の場合と、自分の年収が10万ドルで、同僚の年収がその倍の場合、どちらが幸せかと聞いたところ、大多数が前者を選んだという。この逸話を最初に読んだ時は一笑に付した。だが、奥底に眠っていた記憶が蘇った。ドロシー・ブレイディとローズ・フリードマンが行った1947年の興味深い研究である。



ハーバードの大学院生だから、さぞ、みんな合理的だと思うかもしれない。だが、この逸話が本当だとすると、彼らは、合理的であるというより、人間的なようだ。つまり、絶対的な富の量でなく、他者との相対的な差異によって、自分の幸福度を決めているんである。


その後の、彼の話も耳を傾ける価値がある。


「データが示すように、人間は誰しも他人の収入がどれだけあり、どれだけ使っているか気になるものなのだ。たとえ友達であっても、序列を競うライバルでもある。」


これは、大抵のひとが、同意してくれると思う。


「国の経済が発展し、所得が上昇するに従い、個人は目に見えて幸福になり、ストレスを感じなくなるものだし、富裕層は、所得階層の低い世帯に比べて、おおむね幸せであることは、調査によって示されている。」



これも事実。大抵の場合、所得が多い方が幸せであると言える。だから、生活水準は重要なのだ。





「だが、人間の心理では、生活水準が上昇したことによる当初の喜びは、贅沢が地位に見合うようになると、たちまち消えるものだ。新たな水準がすぐに「普通」だと認識されるようになる。充足感は、一時的なものなのだ。」




しかし、それでもなお、努力して競争し、生活水準をあげ、最後には富を得ても、やっぱり幸せには必ずしもなれないのは、どうやら、このせいのようだ。つまり、喜びは永続せず、新たな水準が普通になってしまうのだ・・・・。



今の我々が、世界でもっとも、豊かな国に住み、高い生活水準を誇り、充実したインフラに囲まれて生きているのに、幸せになれないのは、ある意味では、このせいなのだ。


つまり、幸福が相対化してしまっている。誰かと比べることによって、幸福の大きな部分が規定されてしまうのだ。勝ち組、負け組なんて表現はその典型で、誰かと比べることによって、その人が幸せかどうかが決まってしまう。


つまり、だが、自分より「劣った人々」が沢山いないと、その人は幸せを実感できにくくなっているんじゃないかってこと。


考えるだけでおぞましいけど、でも、どうも、それが真実のような気がするわけ。


だから、資本主義は嫌われる。なぜなら、それは敗者を生み出すからだ。そして、現状、どうも、先進国の人々は、相対的にしか幸福を感じられない世界にいる。


つまり、自分よりおとった人々がいないと、幸福を感じられないという悪夢のような精神世界にいるんじゃないかってこと。そして、相対的な敗者になると、とても不幸に感じるマインドを発達させているらしい。たとえ、先進国に生まれたとしても。


これが、努力をしても決して幸せになれない理由じゃないかって話。


幸福が相対化した結果、自分より「劣った人」がいないと幸福を感じられないという素晴らしい物差しで幸福が決定されるようになった。


である以上、重要なのは努力じゃないんだ。


多くの場合、人が幸福になれるどうかは、周りに貴方より相対的に劣った人がどれだけいるかで決定されるんだ。


貴方の周りに貴方より優れた人しかいない場合、貴方は不幸せになり、劣った人間しかいなければ、貴方は幸福になれるってわけ。


そんなおぞましい話。もっとも、これはグリーンスパンによれば、ソーンスタイン・ベブレンって人が1899年に「有閑階級の理論」って中で似たような話を書いてたらしいけど。個人の財やサービスの購入は、「隣人に負けないように見栄をはる」ことと結びついているってね。


まぁ、適当な話なんで、あんまし鵜呑みにはしないでください。


とはいえ、アラン・グリーンスパンの「波乱の時代」は本当に面白くて勉強になるので、是非とも読んで欲しい本。今日書いた話なんて、グリーンスパンの受け売りがほとんどです。ようするに書評的あさましともいいますが。

でも、ほんとに、自叙伝という域を超えて、経済学の初歩的な教科書として、また金利について勉強できる本としても使えるくらい、いい本なんです。考えさせられることも多いと思う。是非、読んでみてください。




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2008年03月01日

就職氷河期と資本主義

いやね、この話題のるかそるか考えて、結局、のることにしたわけですが、

2008-02-27 - reponの日記

この猛烈なパワハラエントリから始まって、


小市民も幸せに暮らせる社会へ - 雑種路線でいこう


氷河期の猛吹雪にズダボロに引き裂かれた人々と、グングン成長して人生を謳歌した人たち - 分裂勘違い君劇場


楠さんと分裂君が反応して、


その彼らに思い切って聞いてみればいい。「なんで僕にこんなひどい仕打ちができるんですか」って。

君の年収分を賭けてもいい。彼らにはそんな自覚ないから。それどころか彼らは彼らで「俺たちがこんなに一生懸命やっているのに、なんであいつは足を引っ張るんだ」、と思っているから。


小市民の敵は、小市民



で、弾さんがこう反応してきたんだけどさ。


この手の就職氷河期の話は、そこいらで散々、話合われてきているから、みなさんも飽き飽きしているだろうけど、まぁ、聞いてくださいよ。


あのね、就職氷河期の話になるんだが、これが時々、成果主義とか市場原理主義のせいだと言われることもあるんだけど、これは間違いなのね。


なんでかって話になるんだけど、まず、マクロな話になるんで、退屈な話かもしれないけど、日本って、正社員を簡単に解雇できないのよ。労働法の関係上、簡単に首切れない。


で、なんだけどね。一部のエクセレントカンパニーって会社は、コストに占める人件費の割合が低く、景気循環の影響を受けにくい。こういう会社は、法律で守らなくても、労働者をとても大切にあつかう。


なんでかって?だって、コストに占める人件費の割合が低いんだから、コスト削減の際に、まずリストラって形を取らないで済むし、景気循環の影響を受けにくいなら、景気後退にリストラをせずにすむから。


アメリカや日本で、エクセレントカンパニーって呼ばれる会社の多くは、こういう特徴を持っている。あるいは、かつては持っていたわけ。


だから、アメリカでいえばIBMやコダック、今の日本企業でいえば、任天堂とかね。こういう企業はとても従業員を大切にできる。なぜなら、彼らの財務体質がそれだけ強靱だからなわけ。経営者が人徳者だからじゃないの。きちんと裏付けがあったから出来たの。


けど、大部分の企業は、現実にはそうじゃない。大抵、コストに占める人件費の割合は大きいし、それから、景気変動の影響を受ける事業を行っているわけ。


そういう企業は、どうしたって、不況になったら、人員削減をしないといけない。リストラせずにすませるなんて、そういう企業には不可能なの。終身雇用なんて、こういう企業には構造上できるはずがないの。たとえば、トヨタなんて、本来、終身雇用なんて出来るはずがない。


でも、日本の大企業のいくつかは、今でも終身雇用的なシステムを取っているところがある。なぜ、そんなことが出来るのか、考えたことはある?


理由は、ぶっちゃけると、外部に切り離し可能な労働人口を抱えているからなわけ。


いわゆる派遣労働、期間工、フリーター、全部そうなんだけど、こういった人達は、全員、企業が人員カットを行わないといけなくなった場合に、最初に削れる人員として、最初から雇われているのね。先にも述べたけど、労働法の関係上、日本じゃ、簡単には労働者をリストラできない。でも、不景気になったら、リストラしないと、コストの関係上、どうしようもない企業がある。


そういうリスクを負っているのが、こういう層なわけ。派遣、期間工、フリーターは、最初にクビにされるリスクを負わされている。一方で、まぁ、景気が過熱してくると、一番最初に賃金があがるのもここなんだけどね。(労働市場が流動化しているから)そして、景気が良くない時は、失業しているか、もしくは給料が超低い状態で我慢しないといけなくなる。もし、そうなっていないなら、どこかおかしな所が、市場に存在するってことになる。この話は、又別の話なので、おいておくとして。(今、求人倍率が凄いことになっている愛知とかはバイトの時給がうなぎのぼりだとか。)



あのね、問題の根本は、市場原理主義のせいでも成果主義のせいでもない。


日本企業が、労働者のクビを切れない文化、あるいは切りにくい法制度があるってことが根源なの。


俺がいつも不思議に思うのは、クビを切れないのに成果主義なんて導入して意味あるの?ってこと。成果主義のいい点は、身も蓋もないことを言えば、一番できない奴を追っ払って、外部からもっと出来る奴と、とっかえることでしょ?


ところが、これが日本じゃできない。


もともと、仕事ができない人は、会社にしがみつきやすい。それなのに、そういう人が年功序列で偉くなってしうまうのが、日本株式会社の問題の一つだった。かつては。


出来る人はもともと実力があるんだから転職して、もっといい企業にいってしまう。結果、会社は、無能な連中の固まりになるってピーターの法則じゃないが、そういう悪いサイクルがまわってしまう可能性がある。


何度も言うけどね、問題の根源は、成果主義でも市場原理主義でもない。日本企業がクビを切りにくいのが問題なの。降格が起こりにくいことも、問題を促進してしまう。


クビが切りにくく、降格が起こりにくい場合、企業内では、そのしわ寄せが、平社員と派遣に代表されるような、外部の労働人口に寄せられちゃうのよ。


何故ならって、クビ切りにくいんだから、正社員を一気には増やせない。景気悪くなったときに、人を増やしすぎると、困ったことになるからね。


けどね、企業は景気のいい時とか忙しい時は、仕事量が増えちゃう。仕事量が増えたら、人増やすか、個々人の生産性をあげるか、あるいは地獄のような残業させて乗り切るかになる。


今の日本では、正社員増やすのは難しいし、生産性はすぐにあがるもんでもない。結果として、残る選択肢は、地獄のような残業地獄になるわけだ。


もともと、正社員ってのは、派遣などに比べて、労働市場の需給関係から、給料がすぐにあがったりはしない。解雇されにくいのと、福祉とかのサービスとの引き替えでそうなっている。


だから、企業にとっては、安い賃金で長時間労働させるには、正社員のほうが都合がいいわけ。で、その結果として、猛烈な長時間残業させられているのが、今の日本の正社員となっているわけ。場合によっては、サービス残業地獄な人もでる。



派遣に代表されるような外部労働人口がかぶるのは、もちろん、首切りリスクだ。会社の業績が悪くなったら、すぐに、人件費をクビ切れるように、外部労働人口を整えておいているんだからね。


で、僕がいいたいのは、どういう事かっていうとね。


あのね、結局の話、この問題の根っこはどこか?っていうと、根っこはね。見もふたもないが、「労働者を幸せにしてあげよう」と考えて作られた労働法そのものにある欠陥だって事。


特に、「労働者のクビを簡単には切れないようにする」ってとこだ。誰だって、失業は嫌なもんだ。だから、こういう風な形の法律が出来た。そこまではいい。


ただ、現実には、企業の多くは、その時々に合わせて、労働人口を拡大させたり、縮小させたりしないといけないのに、そういったダイナミックな企業活動が、この法律のせいで、かなりの部分、制限されてしまった。


その結果として、ゆがみが生まれてしまった。


正社員の過酷な残業地獄、大量の外部労働人口と正規社員の格差の問題だ。


結果としてだけどね。「正社員のクビを切りにくくする(労働者を守る)」って法律は、上手く行かなかったの。失業にふるえる人が多かった時代であれば、誰もが望んだものであったかもしれない。でも、現実には、それは機能するはずもないシステムだった。長期間、それが維持されてきた事は、ある意味では凄いことなんだけどね。


日本やドイツでは、それがかなり長期間維持された。今でもそうだけどね。で、なんだけど、じゃあ、市場原理主義のアメリカみたいにすれば、いいのか?って話になるけどさ。


そうするってことは、アメリカみたいに、出来ない奴はクビにされる。これは容赦なく行われる。パワハラが起こる以前に、生産性の低い奴は、次から次へとほっぽり出される世界になる。


残酷なことを言わせてもらえば、どういう形にしろ、「群れで一番弱い犬には過酷な運命がつきものだ」って事。日本型のステークホルダー資本主義にしろ、アメリカ型の株主重視型の資本主義にしろね。


日本型経営ってのが一時、もてはやされた。終身雇用と年功序列。でも、そのシステム事態が問題があるってことを失われた10年は明らかにした。


社内のステークホルダーには、残業地獄。社外の労働人口には首切り格差地獄ってね。


アメリカ型経営は、残業は少なくなるし、パワハラみたいなのは、少なくなるだろう。何故なら、必要なら、人を増やせばいいだけだし、必要なくなったら、即クビを切ればすむ話だから。「出来ない奴をなじるよりクビ切るほうが早い」わけだしね。そして、出来る奴と出来ない奴は、容赦なくふるい分けられて行き、格差は当然拡大する。


残念だけど、現状、理想的な資本主義ってのは存在しない。なぜなら、資本主義ってのは、その性質上、「誰かが負けないといけない」からだ。勝ち負け競争の世界なんだから、どうしてもそうなる。勝者と敗者を容赦なくわかつシステムなんだからね。


クビ切られるのが嫌で、労働者を保護しても、結局、誰かが負けなくてはならなかったってわけ。それが資本主義なの。


でも、それこそが、資本主義が社会主義にシステムとして勝利した理由でもある。


何故なら、常に、技能をもたない、教育をうけていない人々を最も弱い立場に追いやるのが資本主義だからだ。キリギリスには、常に過酷な運命しか待っていない。


だが、一方で、働いて貯蓄し、投資を行い、何か新しいものを生み出していくことが出来る人々に報酬を与えるのが資本主義であり、新しいものを生み出したアリには報酬が与えられるのが、正当な資本主義なわけ。


古いモノを壊し新しいモノを絶えず生み出し、世界を改善していく力こそが資本主義が社会主義に勝利した理由なの。


でも日本は、必ずしもそうじゃなかった。


失われた10年を生み出した決定的な原因の一つに、不良債権の処理で日本が迷走したことがある。最近、読んだ記事の中でお気に入りのフレーズを使わせてもらえば、「考えうる中で最悪の手段を使って」、日本はデフレを悪化させ、不況を長引かせ、経済をズタズタにしてきた。


この間のグリーンスパンの「私の履歴書」にこんな話がでてくる。

宮沢元蔵相との会話でよく覚えているのは、邦銀の不良債権問題を巡る議論だ。80年代末に米国でも同様の問題に直面したが、私はその時の解決法を詳しく説明した。整理した貯蓄金融機関の担保不動産を整理信託公社(RTC)が安値で売り、不動産市場を動かしたことで、米国では問題を早期に解決した。宮沢元蔵相は辛抱強く、笑みを浮かべながら聞いていたが、最後に「それは日本のやり方ではない」と言った。金融破綻や多くの失業者をうむことを意味するからだ、と。



これね、今のサブプライム問題がひどくなれば、遅かれ早かれ、アメリカは、これとにたことをやると思っているの、僕はだけどね。


グリーンスパンは、RTCの理事だった。そして最終的には、RTCは、数百億ドルの不動産を安値で売却した。


そんな事したら、余計不動産が安くなってしまわない?とか思うかもしれない。確かに、短期ではそうなる。だが、長期では違う。


なぜなら、そこで大量の物件が売りに出されたことで、底値が形成されるからだ。底値で買った人は、とてつもない利益を手にすることができる。これもわかりきった話なのだ。


こういう行為をハゲタカとののしる人もいるかもしれない。たしかに、ほめられた行為とは言えないかもしれないけれど、彼らのおかげで、底値が形成され、そして不動産市場では、再び、価格の上昇が起こったんである。


一人が大もうけすれば、我も我もと、投資家が二匹目のドジョウを狙って飛び込んでくるからだ。


しかし、この方法は、劇薬だ。このS&L危機では、アメリカだけで、1500の銀行が倒産したし、失業者も大量にでた。だが、一方で、アメリカは日本のような長期間の停滞には陥らずにすんだ。


日本は、これが出来なかった。理由は、悲しいが、宮沢元首相のいった通りだ。失業と金融機関の破綻を日本は受け入れれなかった。


もし、宮沢元首相にもっと政治的な才能と、冷徹さがあったら、自民党をまとめ上げて、総選挙でフルボッコにされる覚悟で、不良債権処理を早期にすませることができたかもしれない。


ただ、それができる政治家が出現したのは、不良債権が雪だるま式に膨れあがった2000年代のことだった。遅すぎたともいえる。小泉内閣になってようやく、不良債権の本格的な処理が行われたからだ。


で、最初の問いに戻るんだけど、要するにね、僕たち自身が政府に泣きついても、これっぽっちも事態は良い方向に向かわないって例の典型ケースが、ある意味では日本だったの。そして、古いものを壊し、新しいものを作ることを怠ってきた。企業は永遠であるっていう、ありえない理念が80年代に流行ったせいかもしれないけどね。


戦後の日本の高度成長は、アメリカの自由主義と自由貿易の恩恵を存分にうけたからで、社会主義に走ったからじゃない。戦後、焼け野原の日本に、新しいシステムを築いたから、日本は成長した。


就職氷河期は、日本の国政そのものの誤りだったのと同時に、我々自身が倒産と失業を受け入れれなかったからでもある。これは対になっている。日本は、古いものを壊して新しいものを作ることを怠ってしまったの。


そして、就職氷河期と、ニートやフリーター、そして派遣の増加は、なにを将来の日本にもたらすかっていうと、日本の低成長と、それに伴う低い生活水準になる。なぜなら、ここ10年、日本って国は、既存の労働者を守る一方で、新卒の労働者を冷遇し、外部労働市場においやるか、フリーターにしてしまったりしたからだ。これは、新しい労働人口への投資を怠ったという見方が可能だから、それはすなわち、将来の低成長、低い生活水準に結びついてしまう。


日本は、こうして、これからの10年のみずから低成長を招う可能性があるわけ。自己実現的に、自らを貧乏に追いやってしまう。実際、そうなってしまう可能性が高いって思ってる。既存の年齢が上でもうすぐ退役してしまう労働者を優遇し、新卒に対する投資を怠ったり、過酷な労働で酷使して使い潰せば、それは将来の低成長へとつながるのは当たり前だから。


誰もがいい暮らしをしたいと思いながら、あやまった方法を選び、自分たちの貧乏を自己実現しようとしている。特に、ここ10年。


僕が、日本型資本主義、時々、ステークホルダー資本主義って奴に、非常にうさんくさい目を向けているのは、このせいだ。


現実的には、アメリカ型の株主型資本主義と同じくらい問題があって、その上、時として、将来の低成長すら招くシステムなのに、未だにそれを称揚するなんて馬鹿げている。


株主型資本主義もステークホルダー資本主義も、道義的には糞の山だ。なぜなら、どちらも、結局のところ、誰かが負けなければならないからだ。


ただし、前者は、畑の肥やしくらいにはなるが、後者は核廃棄物でなんの役に立たないと最近思ったりもする。


最後に僕がいいたいのは、「我々は負けを受け入れる覚悟」と「リスクをとる決意」をする必要があるってこと。倒産や失業を受け入れ、同時にリスクを取って何かを始めることを、もう一回最初から始めないといけない。リスクを取って再挑戦することも時には必要になるのを受け入れないといけない。


負けを受け入れるって事は、古いものがいつかは滅びるってことを受け入れるってことだ。どんなものもいつかは古くなる。そして壊れる。これを受け入れないといけない。


そして、どんなに今いる場所が心地よくても、時には、リスクをとって、新しいことを始めないといけない事があるってこと。日本で、今うまくいっている産業も、30年もすれば威勢を失うだろう。その時のために、新たな産業を育てないといけない。それは楽なことじゃない。でもやらないといけない。プロがアマに戻って、最初からやり直すのは大変だ。でもやらないといけない事でもある。


どちらも、楽なことじゃないのはわかっている。でも、患者にはそれが必要なんだと僕は思う。過去10年と同じ過ちを繰り返すわけにはいかないから。
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2008年02月18日

はてな移転と企業が海外進出する時の経営の話とか

更新にずいぶん日があいてしまったし、本当は、バーナンキの話をしようと思っていたわけですが、ちと、はてなの本社移転の話がホットなんで、便乗して、前からしようと思っていた話でもしてみようかと思います。


というわけで、本日は、はてな移転の話とか、海外進出の話とかになるわけですけどね。

Friendly Shower


近藤の帰国、そして、はてな本社の京都移転


もともとの発端は、はてなの社長のid:jkondoが、日本に帰ってきたことから始まるわけです。それは、こちらのエントリで述べられていることでもあるわけですが。あと、社長夫人のreikonさんがご懐妊だそうで、本当におめでとうございます。



はてなとマッキンゼーとUEIとマイクロソフト、社内コミュニケーションについて


で、そろそろ本題に入ろうと思うわけですけど、今日、こちらのエントリを読んでいて、思い出したのが、海外とコミュニケーションをとりながら生産を行うことの難しさの話なんですけどね。


こういう国内と海外で生産を行う話を読むと、僕が真っ先に思い出すのが、ミネベアの話なんです。ミネベアってのは、一部の技術者の間では有名な会社です。とりあえず、wikipediaへのリンクを張っておきますが。


ミネベア


ミネベア株式会社は、長野県北佐久郡御代田町に本社を置くベアリング、モーターを中心とする電器部品メーカー。直径22mm以下の小径・ミニチュアサイズのボールベアリングでは、シェア世界一である。略称はNMB(Nippon Miniature Bearing)。生産の6割をタイ王国で行うほか、中国などにも工場を持つ。




引用した部分にありますが、ミネベアは主力はベアリングの会社です。それから、ここが重要なんですけど、日本でも、きわめて早くから、グローバルに事業を展開した会社であるってことです。


本社は、地方にあるわけですけど、1971年にアメリカでの海外生産を開始しており、これはソニーやホンダより早い。

そういう意味では、日本で、もっとも古い歴史をもつグローバルカンパニーの一つなんです。巨大企業ではありませんけど、海外生産比率は8割を超えており、買収も積極的に行った会社です。そして、それで大きくなった。


海外生産と買収とでかくなった面があるんで、そういう意味では、アメリカ的、とも言えるかもしれませんけど。



で、なんですけどね。


ミネベアって会社の海外展開や買収は、現在では成功を収めた事例として記憶されているんですけど、その道は決して平坦なものじゃありませんでした。


上海ミネベア精密機電


こちらに、上海にあるミネベアのボールベアリング工場の記事がありますが、海外に生産拠点を置いて、そこで超精密部品を作るってのは、結構難しいんです。


ミネベアのモットーであり、「どの工場でも同品質の製品をタイムリーに生産できる体制づくり」ってのは、技術差があっては難しいですから。


で、なんですが、ミネベアが、最初に海外で工場買収したり、現地の相手と提携したりした時、当然、最初は盛大にすっこけたんです。


この手の話には失敗がつきもので、たいていの場合、「教科書に出てくる失敗はみんなやった」って後年になって振り返るものなんです。これはしょうがない。ホンダとかアメリカ進出の際、最初に失敗してますけどね。


ミネベアのケースでは、不良品を大量に出してしまうって結果になりました。ただ、ここで、ミネベアは海外での生産をあきらめなかった。


ミネベアは、1970年代から80年代にかけて、大規模な海外生産に踏み切ったんですが、海外での生産の経験を積むにつれて、いくつかの原則を学んでいくんです。


まず、海外での買収を行った場合には、そこに最新鋭の機材の設置を行う。


次に、従業員は、現地でまず調達し、それを日本の工場に招いた上で、教育を行う。これは、ミネベアの文化と技術移転の上で、非常に優れたやり方でです。


ミネベアのモットーである「どの工場でも同品質の製品をタイムリーに生産できる体制づくり」ってのは、こういう仕組みをへて、可能にされたものなんです。


最新鋭の機材を現地の工場において、そこに日本で教育した人材を送り込む。現地社員を抜擢し、日本からの派遣社員を最小限度にとどめる。ミネベアの海外展開は、こういったシステムを作り上げて、ようやく軌道にのっていったんですね。



今では海外生産は普通に行われているわけですが、それをはやくから行っていた事例として、ミネベアのケースは貴重なケーススタディなんです。


むろん、技術移転っていっても、コアな技術は、日本で行っています。製品の設計や開発、それから統括などは、今でも日本です。







詳しくは、これらの本でどうぞ。ミネベアの元会長、高橋高見って人は、ミネベアを世界企業にした人であるわけですが、その経営手法も、異色と呼ばれるものでした。異色な経営ってのは、失敗も多いです。高橋も沢山失敗してます。たいていは、教科書にでてくるような失敗を全部することになるのも珍しくない。しかし、それが強みでもあるわけです。人は破れたゲームから教訓を学ぶものだって名言にあるように、学ぶ機会を与えてくれるんです。


で、はてなの話に戻るんですけどね。



ミネベアのケースは、あくまで、ベアリングの製造の話です。いわばローテク。むろん、使っている技術は最新鋭ですけどね、ただ、製品のライフサイクルの早さという意味では、秒進分歩のハイテク業界ほどではない。


ハイテクの世界の企業は、それこそドッグイヤーの世界ですから、技術の陳腐化も早いし、それに、工場作るわけでもないんですから、同じやり方が通用するってことはないでしょう。


ただ、はてなに関しては、そんなに僕は心配してないんですよ。jkondoって、最初につくったのが、人力検索で、これは、はてなの主力じゃない。いまも、人力検索には、注力してますけどね。


今のはてなは、外から見ている限りは、はてなダイアリーから派生したサービスで、やっとキャッシュを稼げるようになった感じです。jkondoは、必要なら、そのくらいの方針転換はしているわけで。


最初に作ったサービスにこだわり続けてたら、マイクロソフトはなかったし、アメリカで大型バイクを作ろうとホンダが最初がんばり続けていたら、ホンダはアメリカでは勝てなかった。


教科書に出てくるような失敗なんて、全部したっていいじゃないですか。こういう戦術面での失敗は、取り返しがつく失敗なんです。だから、そう心配することでもない。


異色な経営、変な会社、おおいに結構ではないですか。


それで失敗した会社は多い。でもね、それで成功した会社だって多いんです。でもって、成功したら、そのやり方がスタンダートになって、普通になってしまうことだってある。



僕は、まだ、はてなのサービスを使っていくつもりです。


そんだけです。




posted by pal at 08:09 | Comment(1) | TrackBack(1) | コラム このエントリーを含むはてなブックマーク | 編集

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