機能やボタンが多すぎ!! 使いにくいUIのデジタル家電が発売されてしまう本当の理由
"Less is more"なもの作りと合議制と
というwa-renさんと中嶋さんのエントリを読んで、書こうと思ったエントリです。バーナンキの話は今日も書きません。すいませんが、なんか書く時期を逃したというか。いつものよーに引用から入りますが、
ズバリ言ってしまうと既存機能に上乗せする企画は通すのが簡単だし、リスクが少ないからだ。
機能やボタンが多すぎ!! 使いにくいUIのデジタル家電が発売されてしまう本当の理由 - キャズムを超えろ!
というのと、
理想的には、映画の「監督」や建物の「アーキテクト」のようにデザインに関して全権を委ねられる人を一人選び出し、「その人に賭けた」もの作りをするしかないと思うんだが。
"Less is more"なもの作りと合議制と
というとこを読んでいて思ったことなんだけどね。
今まで、「web2.0といつか来た道」ってシリーズで、PCの歴史を振り返ってきたんだけど、今までの奴は、ほとんど海外の話だった。だから、今日は、日本のケースの話をしてみたい。
で、なんだけど、
HD DVD撤退を発表 東芝、3月末で販売中止
先日、東芝が、とうとうHD DVDから撤退を表明した。これで、次世代DVDプレーヤーは、ブルーレイに絞られたことになる。この話については、また今度書いてみたいテーマなんだけど、今日のお話は、東芝の物語でもある。そして、二人の世界的な発明を成し遂げた技術者の明暗にまつわる物語。
その話は、今から20年以上も前の話になる。
一方は技術者の希望の物語であり、他方は技術者の絶望の物語でもある。
最初は希望の物語から始めよう。なぜなら、紹介した記事で、HD DVDからの撤退発表を行った西田厚聡社長は、その話の中核に位置する人物だからだ。
時計の針を20年以上前まで戻すけれど、20年以上前、はじめてPCが世界に登場したとき、それは、すべてデスクトップだった。ここに大穴を開けたのが、1986年に東芝が世界で初めて開発実用化したラップトップ型PC、「j−3100」だった。(実際はT1100なんだけど、東芝が確固たる地位を築いたのは、J-3100から。)
これについては、今はマイクロソフトを退職された古川さんのブログに
インテル殿の動向、と吉田共同社長
というエントリがあって、その最後に、「東芝の溝口さんにJ-3100(赤いプラズマ)のラップトップパソコンを見せて頂き、ビックリしているビルゲイツ君」という写真がる。
これは、すばらしい歴史写真の一つだと思ったんで、紹介させて頂くわけですが、まぁ、古川さんも、ビル・ゲイツも、溝口さんも若い!!ビル・ゲイツ痩せてる!J-3100見たときのビル・ゲイツのびっくりした顔が面白い!
で、なんですけどね、今日の最初の話は、現東芝社長の西田厚聡と、世界に先駆けてラップトップPCを開発した溝口哲也さんのお話なんです。
ちなみに、一番左にいる人が溝口さんね。J-3100の開発者だ。
ラップトップパソコン
ノートパソコン
ウィキペディアへのリンクを貼っておくけど、ノートパソコン(欧米ではラップトップ)の全ては、東芝から始まったといっていい。そのくらい、J-3100のインパクトは大きかった。それから、その後に続いたDynaBook J-3100SSは、198,000円という価格で、当時のPCの世界に価格破壊を巻き起こしたんである。
ちょうど、いまASUSがEeePCでモバイルPCの価格破壊を引き起こしているけど、それと同じくらいのインパクトだった。当時は、だけど。
この凄まじいイノベーションを主導したのが、先に紹介した古川さんとビル・ゲイツと一緒に写真に写っている溝口哲也さんなんである。
http://www.mbco.co.jp/05_news/press_archive/030611.html
こっちに経歴と顔写真がのっている。今は、髪が真っ白になってしまった。(関係ない)
しかし、溝口さんによるラップトップPC(後のノートパソコン)の開発は、平坦なものではなかったんである。今や、ノートパソコンが主流で、デスクトップは死滅しつつあるのが現状なんだけど、当時は、ラップトップPCなんて、所詮ニッチな商品になると思われていたんである。東芝の経営トップに。
溝口さんは、1983年、東芝の研究開発チームと訪米した時、携帯型パソコンというアイデアを構想したそうだ。当時は、IBMがパソコン市場を牛耳っており、マイクロソフトはまだ生まれたての子犬のような存在だった。
そして、東芝のパソコン事業は、当時、岐路にあった。パソコン事業で大赤字を出しており、経営トップは、そこからの撤退を決定していたんである。東芝は、1993年から2000年までノートPCシェア7年連続世界1位だったわけで、信じられない話かもしれないけど、そうだったんである。
当然だけど、当時のトップは、溝口のラップトップPCの構想を拒否した。開発資金を与えなかったんである。大赤字を出しているPC事業に見切りをつけていたのだ。
しかし、溝口は、ここであきらめなかった。この執念の源泉がなんだったのか、それは僕は知らない。知っているのは、彼が、防衛関連のプロジェクトから、資金を流用して、同時に技術者を10人ほど、東芝の青梅工場に移動させたってことだけだ。
これはこれで凄いことなんだけど、巻き込まれた技術者にとってはいい迷惑以外の何者でもなかっただろう。プロトタイプは、24ヶ月で制作されたそうなんだけど、その制作秘話はひどいもんだ。当時の技術では、部品を詰め込めなくなるまで詰め込んで、それでもさらに、詰め込まないとラップトップはできない。
溝口は、ラップトップのカバーをはぎ取って、中にコップ一杯の水を流し込み、そこから、数滴の水がしたたり落ちてきたのを見て、「見ろ、まだ隙間が残っている!もっと賢く働け!」と叫んだそうだ。
まぁ、自分が部下だったらキレそうなエピソードだけど、とにかくも、24ヶ月で最初のプロトタイプのラップトップは完成した。
しかし、東芝経営陣からのラップトップに対する反応は、これまた冷たいものだった。1985年、溝口は、ラップトップを東芝のトップに披露した。ところが、東芝の当時のトップは、ラップトップを「ニッチしか埋められない」製品といって却下し、日本では販売しないように命じたんである。
今から考えると、信じられない愚行だと思うかもしれない。しかし、これが実際に起きたことなんである。デスクトップの次はノートだった。だが、当時のトップは、それを見抜けず、それをニッチ商品と切り捨てたのである。
ところが、彼に、ただ一人、理解を示してくれる人物がいた。現・東芝社長の西田厚聡である。当時は、東芝ヨーロッパの副社長だった。彼は、溝口に、
「プロトタイプを七台作ってくれれば、それをヨーロッパ中で見せて回って、初年度で1万台販売することを請け負う」
と宣言したんである。そして、彼は、その言葉を守った。ラップトップのプロトタイプをもってヨーロッパに帰り、14ヶ月で、1万台のラップトップを完売したんである。
市場は存在したのだ。ただ、目には見えなかっただけで。
その後の東芝の快進撃は、すでに書いた。ラップトップのT-3100はアメリカで大ヒットし、その後、ノートPCという新ジャンルをつくりだすことになるDynaBook J3100SS001が発売されることになった。
青梅工場でのPCの生産は、1986年の月産5000台から、1989年には、月産10万台にまで増加した。結果としてだが、東芝は、ノートPCの市場で1993年から2000年まで世界シェア一位の座にとどまり続けたんである。
西田厚聡と溝口哲也が、東芝のトップについたのは、このイノベーションを主導し、東芝のPC部門を見事に再生させた功績による所が大きい。
日本の東芝本社は、ラップトップの将来性を見限ったが、この二人のみは、違っていた。そして、本社からの抵抗にもかかわらず、ノートパソコン事業を、東芝の軸の一つに育てあげたんである。
理想的には、映画の「監督」や建物の「アーキテクト」のようにデザインに関して全権を委ねられる人を一人選び出し、「その人に賭けた」もの作りをするしかないと思うんだが。企業の中で一個人があまりに強い力を持つことを嫌い、責任の所在をあいまいにすることに最適化された日本の大企業にはそんなことはできないのだろうか?
中嶋さんのところからの引用だけど、溝口と西田、そして、東芝のラップトップは、必ずしも、大企業の中からはイノベーションは生まれないわけではないという一つのケーススタディとは言える。
しかし、その開発の過程については、中嶋さんの言う通りとしか言えない。
もし、溝口が合議制に従って、ラップトップの開発をやめていたら、東芝からダイナブックは生まれなかっただろう。彼は、ただ一人、ラップトップの可能性を信じて、技術者と金をあつめ、それを開発し、その可能性を信じたもう一人の男、西田が、それを日本でなく、ヨーロッパで実績を示すことで、ようやく経営トップに、ラップトップの収益性を納得させることが出来たからだ。
このように、大企業の中に、小規模なチームが組まれて、イノベーションが起こることは、いくつか例がある。アップルのジョブズが主導したマッキントッシュ開発チーム、世界初のPCを作ったパロアルト研究所の研究チーム、最近では任天堂の岩田社長が、作ったDSの開発チームだ。いずれも、主流の開発チームからは隔絶された場所で開発されたんである。
しかしながら、この溝口と西田の大成功の陰で、東芝では、もう一つの物語が進行していた。ラップトップに匹敵する発明を成し遂げながら、経営陣によって潰された一人の東芝技術者の物語が。
舛岡富士雄という人をご存じだろうか?フラッシュメモリの発明者であり、最近、東芝を相手取って、フラッシュメモリの発明の対価10億円の支払うように訴訟を起こしたので、知っておられる方は、結構いるのではないかと思われる。
これについては、ネットで読めるものとして、
特許を取り開発で勝って事業で負ける理由
という舛岡富士雄による、すばらしい記事があるので、それをお読みいただければと思う。有料の記事だけれど、368円払うに値する記事だ。短い記事だけれど、決して読んで損はない。特に技術者の方や経営者の方であれば、読む価値がある。そうでなくても、イノベーションに興味のある方なら、必読の記事だ。
かつて通産省には、特定の技術を開発するために主要企業を集め、巨額の補助金を支出する「大プロ」(大型プロジェクト=大型工業技術研究開発制度)と呼ばれる制度があった。その成功例としては、一九七六年から始まった「超LSI技術研究組合」が名高い。これ
は十年かけて一〇〇〇億円の国費を投じ、一メガビットのDRAM(半導体メモリ)を開発するプロジェクトで、大成功を収め、日本の半導体産業が世界を制覇する要因となったとされる。
よみがえる産業政策の亡霊
これは、池田先生の記事なんだけど、その中で、こんなDRAMの話が出てくる。
「超LSI技術研究組合」は、産業政策での大成功例として名高い。舛岡富士雄は、当時は、東芝の技術者だったのだが、このDRAMに70年代後半から、80年代前半まで、DRAMの製造技術開発に携わっていた。そして、そこで成果をあげ、40人の部下を抱える立場にまで出世した。
しかし、彼は、DRAMの限界を早くから見抜いていた。技術的な限界に気づいており、半導体産業が価格競争に巻き込まれ、やがては利益をえれなくなることを見抜いていたんである。
ここで、彼は、社のプロジェクトとしてではなく、自分の空いた時間を利用して、次世代の半導体の核となる技術開発を始めたのである。合議制ではなく、個人の決断だった。
そして、その研究開発の結果として生まれたのが、NOR型のフラッシュメモリだった。NOR型というのは、機器に組み込んで使われることが多いフラッシュメモリ。
で、なんだが、この開発の経緯は、溝口のラップトップと同じような経緯をたどった。つまり、フラッシュメモリ開発のための資金も人員も、トップは彼につけなかったのである。
結局のところ、彼は、ほかの仕事があった5人の部下に手伝わせることによって、試作に成功するが、それでも東芝のトップは、そこに資源を集中することはなかった。DRAMにひたすら資源を集中したんである。
最初に、NORに注目したのは、皮肉なことに、日本半導体企業からの攻撃によって、DRAMから撤退しかけていたインテルだった。インテルは、舛岡の研究に早くから目をつけて、そこに資源を集中し、東芝よりも早く、製品化したんである。
この結果として、NAND型フラッシュメモリ(取り外し可能なフラッシュメモリ)では、舛岡は、不退転の決意を固め、経営幹部からの風あたりの強さにもめげず、反発する部下を説得して、開発を進めたんである。
NAND型フラッシュメモリは、デジタルカメラなどの記憶メモリとして最適だった。その結果、ビジネスは、軌道に乗り始めたんである。(後には年間1000億円の利益をあげるビジネスへ成長する)
しかし、フラッシュメモリが、事業の柱になるロードマップが見えてきた時点で、舛岡は、研究所長から技監へと昇進を伝えられる。給与も増えるし、地位もあがるが、これは事実上の名誉職であり、左遷とも言える仕打ちだった。
彼は、この処遇に不満をもって、東芝を去った。
溝口は成功し、東芝の経営トップの一角に登りつめている。一方で、舛岡は東芝を去ることになった。
この差はどこから来たのか。
もう一つ、面白い記事を紹介するが、
彼が新規事業をやりたいと上司の法律家に提案した際の逸話が秀逸であったので紹介したい。彼の上司は経営会議から帰ってきてこう言った。
「役員40人が全員反対していた。それでもやりたいか」。
「やりたいです」。
「分かった。俺に任せろ。ただし1年待て。40人説得するにはそのくらいかかる」。
この上司は本当に1年かけて、全役員の賛成を取り付けてきた。もちろん理屈で説得したわけではない。元技術者の部下にとっては、上司がどうやって説得してきたのかまったく分からなかったという。「おそらく、出張とかゴルフとか宴席とか、そういった社外の場所で根回ししたんだと思います。権謀術策もあそこまで行けば見事です。嫌みではなく、本当に感服しました。僕には絶対できませんね」。ちなみに40人を説得した上司は見事、社長になった。
何が技術者を殺すのか
この記事は、舛岡さんの記事と関連する記事なんだけど、この話は、どちらかというと、西田と溝口との関係でも語ることができる。
やっと、題名の「イノベーションのチャンピオン」が何なのかって話をこれから出来るんだけど、
最近、イノベーションとかのケーススタディとかのことで、上記の本を読んだ。東芝のラップトップのケーススタディもこの本に収めれている。そして、この中に、イノベーション・チャンピオンという言葉がある。ちなみに、ここでのチャンピオンとは、優勝者とかの意味ではなく、擁護者という意味合いになる。
「新しいアイデアはチャンピオンを見いだすか、さもなければ死に絶える」(シェーン 1963)
にあるように、組織内でのイノベーション、とくに大組織内部では、イノベーションには、チャンピン、擁護者が必要とされるケースが多い。
マッキントッシュではジョブズ、DSでは岩田聡、ダイナブックでは西田、そして先に紹介したケースでは、上司の法律家だ。彼らは、イノベーションを擁護し、組織内での無関心や抵抗を打ち破るのを助けたのだ。
このようなイノベーションのチャンピオンは、一般的に、「組織で特に力がある個人ではなく、むしろ人々とのつきあいに長けており、説得や交渉ごとに巧みな個人である」そうだ。
これは、しばしば確認されるパターンなのである。
大企業内でのイノベーションには、このように、大組織から隔絶された小さな組織単位と、イノベーションのチャンピンの二つがそろっている時に、市場に迅速に移転される。
舛岡には、西田に相当する擁護者がいなかったことが最大の不幸だった。そしてそういう人は、滅多にいないのだ。悲しいが。
舛岡によれば、大企業の内部では、
日本の企業と技術者の関係を山登りに例えるなら、定められた道を効率よく進むよう先導できる技術者は評価される。しかし「次はあの山に登ろう」と方向性を指し示すような技術者は、疎んじられ封じ込められる。
という力が働くという。現実的な話をすると、これは内外の大企業のほとんどに当てはまってしまう。悲しいが。それは「いつか来た道」なのだ。大企業の内部では、この力が強く働く。
それを覆せる力をもつケースが、イノベーションのチャンピオンが存在した場合だ。今もジョブスはそういう存在だ。だが、そういう人物は残念だが、少ないと言わざるを得ない。
しかし、この欠点を、大企業の欠点を補う存在がある。
それが市場だ。
私は現在、次世代のマイクロプロセサの開発に取り組んでいる。平面のシリコン基盤に回路を設ける既存製品に対し、円柱型のシリコン基盤の側面にも回路を設ける「SGT」と呼ぶ機構を採用する。回路の増設に柔軟に対応して演算処理性能を高めることができ、既存のプロセサの十倍の速度向上が実現できると見込んでいる。
この技術を評価してくれたのも日本企業ではなかった。アラブ首長国連邦のドバイに本部を置く先端技術開発企業ユニサンティスである。同社は二百人の専門家を擁して世界中の先端技術を評価し、五年、十年先の収益化を目指して技術に投資する。これらの専門家がSGTに着目して、私を最高技術責任者とする日本法人を設立した。
「特許を取り開発で勝って 事業で負ける理由」 より
大企業から、イノベーションは生まれにくい。これは事実だ。だが、市場は、しばしばそれを生み出してきた。「次はあの山に登ろう」という起業家を支援する仕組みが存在するからだ。大企業には、これがない。あっても、上手に機能しない。
大企業では、トップに切り捨てたれたら、そこで終わりかもしれない。だから、トップの説得に失敗すればイノベーションの芽は摘まれてしまう。ただ、市場では、一つの投資先がノーといっても、ほかの投資家は、投資を申し出てくれたりする。市場は、しばしば、イノベーションのチャンピオンとしての役割を果たす。
そう、財布がいくつもあって分散されている。これは時に欠点にもなるが、利点でもあるのだ。ベンチャーキャピタルには欠点がいくつもあるが、だが、ベンチャーキャピタルによって多くの新しい企業が生み出されたのも確かなのである。彼らは、無数に存在し、そして一つが駄目といっても、別のVCはそれを採用したりする。
多くの成功したベンチャーは、そうやって断られながらも、資金を調達してきたのだ。
市場は、そういう意味で、擁護者としての役割を担っている。
最後にもう一つ、舛岡さんの記事を紹介させていただく。
ーーーー日本のエンジニアを見て思うことはありますか?
現状に文句を言う人が多すぎると思います。会社の仕事を100%こなしたうえで自分の好きなことをやれと言いたいですね。与えられた仕事が満足にできない人は、新しいことなどできないと思います。
私が東芝時代にフラッシュメモリを開発したのは、本来のDRAM開発を終えた後の、プライベートな時間を使ってのことです。SGTもそうでした。「オレは本当は優秀なエンジニアなのに、会社がダメだから能力が発揮できない」などという人は、そんな言葉をいった瞬間に本人がダメになります。そもそも、自分のやりたいことが会社でできるなど思わないほうがよい。
私は日本発の三次元半導体で歴史を創る
舛岡さんの言葉をどう取るかは、個人で考えて頂くことにして、今日はこのあたりでおしまいにします。経営側として考えること、社員として考えることは違うでしょうし。