というfukuさんの記事から始まって、色々と議論が沸き立っているので、尻馬しときます。
まぁ、流れは、
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で、この記事に言及したブログが大体網羅できているので、そちらを見て頂くとして、と。
今回の記事では、先の記事の中で触れられている、「資源の有効配分」に関するものです。
fukuさんの記事の中では、女学生との話で、「競争で負けた組織はかわいそうだ」という意見から始まって、そこから、「資源の有効配分」の話になって、トリアージの話になっているわけですが。
で、なんですけどね。
一人の人間が「可哀想」だからという理由で他人を助けた場合において、それは、トレードオフをすでに引き起こすのね。今日の話はそこ。
例えば、医療に関して言えば、最近の医療崩壊の話になるけど、医者というリソースが限られたものなのね。社会の富が増えれば、そのリソースを増やすことはできるけど、有限であることには代わりがない。
そのリソースは、社会全体の幸福につながるように配分されなければならないのだが、この問題についての視点はしばしば無視されてしまう。
で、これと根っこが同じなんだけど、妊娠中絶にもこの問題が絡んでいる。
特に妊娠中絶の反対派というのは、女性個人のリソースが限られたものであり、そのリソースの有効活用という視点に関して、ほとんど欠けていると感じるモノが多いわけ。
絶対に妊娠中絶に反対する人たちがいる。例えば、胎児は人間であって、それを人工的に堕胎させる行為は最悪の犯罪行為だという人たちだ。
例えば、「ヤバい経済学」にこんな話が出てくる。
ある法学者は、中絶の合法化は、奴隷制度よりも(必ず死を伴うわけだから)、ホロコーストよりも(「ロー対ウェイド」裁判以降にアメリカで行われた中絶は2004年現在3700万件で、ヨーロッパで殺されたユダヤ人600万人を超えるから)、もっと悪いと言う。
ちなみに、日本では年間30万件の中絶が行われており、これは、自殺者3万人、交通事故による死者9000人、殺人事件による死者1200人程度を全部あわせたよりも大きい。
ヤバい経済学の第四章では、「犯罪者はみんなどこへ消えた?」という内容で、アメリカで犯罪者が消えた原因を妊娠中絶の合法化にあるとした。様々なデータを通して、それを論じた。
その後に、こんな文章がくる。
アメリカで犯罪を減らした史上最大の要因の一つが中絶だなんていうのは、もちろん嫌な話だ。なんだか、ダーウィン主義よりもスゥイフト主義の香りがする。大昔、G・K・チェスタトンが言ったらしい言葉が頭に浮かぶ。:帽子が足りないからといって頭を切り落としても問題の解決にはならない。経済学の用語でいうと、犯罪の減少は中絶合法化の「意図せざる便益」である。しかし、道徳的な立場や宗教上の理由で中絶に反対していなくても、個人の不幸が大勢の幸せに変身するなんてショックだ。
「しかし、道徳的な立場や宗教上の理由で中絶に反対していなくても、個人の不幸が大勢の幸せに変身するなんてショックだ。」という場所を強調したのは、これが正に幸福と不幸のトレードオフそのものだから。
今回のエントリの趣旨は、ここにあるのだが、この問題こそが、この手の問題について議論を巻き起こす肝なのね。
中絶についてそれほど強い感情を持っていようがいまいが中絶はとても大きな問題だ。ブロンクスとミネアポリスで警察の最高幹部を務めたアンソニー・V・ボウザは1994年にミネアポリス州知事に立候補したとき、それを思い知った。ボウザはその数年前に本を出し、「おそらく、1960年代の終わり以降にわが国が採用した犯罪者対策の中で有効だったのは唯一中絶だ」と書いていた。ボウザのそういう意見は選挙直前になって知れ渡り、世論調査で彼の支持は急落した。で、結局負けた。
さきにも述べた通り、我々は「少数の不幸を代償として得られる大多数の幸福」というものについて、非常に不快に感じるメンタルを持っている。だから、基本的には、ここは受け入れられにくのだ。
で、なんだけど。
妊娠中絶は、いくつかのメリットとデメリットがあり、それらは、トレードオフの関係にある。
例えば、貴方が結婚して一年目に嫁さんに子どもが出来たとしよう。ところが、医者にいったら、「貴方のお子さんは、50%の確率でダウン症になる可能性があります。また、お嫁さんが出産の際に死ぬ確率があります」と言われたとする。
これは極端な例だけど、医療が発達した今でも、出産には、ある程度の確率で死の危険性が伴うし、それから、子どもの何%かは、先天的な異常を持って生まれてきてしまう。
そして、それらが、出産の前にわかってしまうケースがある。
ここで、貴方はトレードオフに直面する。
つまりだが、嫁さんの死の危険性をしってなお、子どもを生んでもらい、さらに、生まれた子供がダウン症だとしても、その子どもを育てるか。
それとも、中絶して、最初からもう一回小作りをするか、あるいは中絶して子作りを全面的にあきらめるか、だ。
酷い選択肢なので、どれを選んでも正解なんてない。でも、資源は有限で、その全てを解決しうる技術が現状ない以上、どれかを選ばなくちゃならない。
以前、妹が、学校で、「妊娠した時に子どもが先天的な異常を持っていると発覚しました。どうしますか?」ってテーマで議論したときの話をしてくれた。
その中で、ある女性が「生まれてくる子どもの命は、子どものもので、不幸か幸福かは子どもがきめることだから、親が先天的な異常を持って生まれてくる子供は不幸だろうから産まない方がいいなんて決めつけるのは間違っている」と言った話をしてくれた。
その女性の考え方が述べられた時、教室で拍手が起こったそうだ。ただ、妹のほうは、「やはり嫌」だと思ったそうだ。
日本の女性が、こういう問題を突きつけられたとき、どうするかは、個人できめればいいと僕は思っている。僕はフェミニストではなく、自由主義者の陣営に属する考え方をしている。だから、妊娠中絶に賛成するのは、自由主義的な発想によるものだ。つまり、政府によって「妊娠中絶は禁止」と規制されるより、個々人に生む生まないは任せた方がずっと上手く行くと考えているからだ。(問題はあるが、それは後で述べる)
もうひとつ、ものすごくショッキングな話をすると、文化人類学などで報告されていることだが、しばしば、未開民族では、「新生児殺し」が行われているそうだ。
僕が知っているケースでは、ある部族では出産は女性だけで行われるので、出産の際に、先天的な異常をもつ子どもが生まれた場合には、その子どもを殺してしまって、夫には「流産だった」と告げてしまうそうだ。
とても嫌な話だけれど、この話には、ある種の合理性がある。
というのも、女性にとって、生涯に生める子どもの数は極めて限られているからだ。この部族の女性にとっては、先天的な異常をもつ子どもを育てるコストは、とても高くつく。本来だったら、生涯で5人の子どもを育てられるのが、先天的な異常をもつ子どもがいた場合には、3人程度が限界だろう。あるいは、すぐ死んでしまうかもしれない
どの場合でも、女性は非常に不利益をこうむるし、それから、うんでもらえるはずだった、赤ん坊もいなくなる。これは殺人にはあたらないが、新しい命が生まれてこなくなるわけである。
そういう風に考えれば、そういった新生児殺しには、ある種の合理性があるのである。
とても嫌な話だ。それはわかっている。
なんで、こんな話をするかというと、日本やアメリカでは新生児殺しは、犯罪だが、一方で、中絶が合法化されているため、まさに、これと同じ状況が、中絶という形をとって行われているからだ。
トリアージと妊娠中絶、経済学と経営学における、このテーマの問題は何か?というと、「限られた資源をどれだけ有効につかって、社会の幸福に貢献するか?」というのがある。
トリアージに関しては、限られた資源とは医療で、それをどう有効に扱って沢山の患者を救うかという問題。
妊娠中絶に関しては、限られた資源とは、女性の卵子と子育てにかけれるコストであり、これらをどう有効に使って社会の幸福に貢献するか?という問題。
これらは、「限られた資源をどれだけ有効につかって、社会の幸福に貢献するか?」というテーマと根っこを一緒にしており、それゆえ、しばしば、この問題に経済学者やら経営学者が首を突っ込むのである。
で、妊娠中絶に話を戻そう。
妊娠中絶が非合法化された場合の、主な不利益をあげていく。
まず第一に、たとえ、非合法にされても、やはり「望まれない妊娠」は起こるって事だ。妊娠中絶が非合法化される前のアメリカですら、年間6万件から7万件の妊娠中絶があった。
また、非合法のもぐりの医者による中絶というもの行われていたという。これは非常に大きな問題で、非合法な中絶というのは、非常にリスクが高かった。現在ですら、ぞっとするような方法で中絶は行われているわけだけど、それよりもっと酷いものが行われていたのである。女性にとっては非常にリスクが高かった。
第二に、望まれずに生まれて来た子どもに親は冷たいって事だ。家庭内暴力や、捨て子が急増する可能性がある。
第三に、これはやば経で述べられていることだが、犯罪が増えて、犯罪で死ぬ人が増える可能性があるってことだ。不快は話だけど、貧しい女性は、妊娠中絶が禁止されたら、妊娠した子どもを生むしかなくなる。そういった家庭の子どもは、犯罪者になる確率が、そうでない子どもと比べて非常に高い。
やば経では、ロー対ウェイド裁判の判決文を引用している。このようなものだ。
州がこうした選択を一切認めないことで妊娠女性に与える損害は明らかである・・・・(中略)・・・母となること、あるいは新たに子どもをうむことが、女性に痛ましい生涯と未来を強いる場合がありうる。心理的な被害は甚大でありうる。子育ては精神的および肉体的健康の足かせとなりうるのである。望まぬ子どもを持つことは関係するすべてにも苦痛を与えるうえ、心理的あるいはその他の理由で、すでに子どもをいつくしむことのできなくなっている家族に子どもを迎えさせることになる点も問題である。
無論、今でも、妊娠中絶に関する議論は絶えない。アメリカですらそうだ。先に述べた女性の言葉にあるように、「子どもの命は子どものものであって、それを親の都合で消し去っていいのか?」という主張には、それなりの説得力があるからだ。
無論、望まれない子どもを育てる際に親が負わされるコストは無視できるものではなく、それ故、妊娠中絶は合法化されるようになったのだけれど。
さて、次に妊娠中絶が認められた場合について考えて見よう。
まず第一に、一番大きな利益は、女性が出産をコントロールできるということだ。この利益は、とてもつもなく大きい。フェミニストサイドの言論を引用するまでもなく、女性の大半は、この権利を手放すことはないだろう。僕自身も、支持している。理由は、フェミニストサイドでなく、自由主義的なものだけれど。子殺しは減って、養子に出される子どもも減った。
第二に、プロによる妊娠中絶が行われるようになるので、比較的安全に、中絶が行われるようになるってことだ。これも利益が大きい。もぐりの中絶なんかがまかり通った社会よりも、こちらのほうが、母体に傷をつけずに行われるに決まっている。また、非合法だった頃の中絶というのは、費用がばか高かったわけだけど、今では100ドルで受けられるようになったのも大きな利益だった。
そして第三になるのだけれど、ここが問題になる。
妊娠中絶が認められてから、アメリカでは、凄まじい勢いで、妊娠中絶が増えた。「ロー対ウェイド裁判」の後、一年で75万人の女性が中絶を受けた。そして、その数は年々増加の一途をたどり、1980年には160万件に達した。現在では、年間150万件の中絶が行われている。中絶の費用は下がる一方だった。
さて、問題。
妊娠中絶が合法化されて、その手術の費用が下がった結果として、中絶が増え続けた。そして、妊娠が30%増えて、一方、出産は、6%減った。
つまり、アメリカの女性達は、妊娠中絶を産児制限の方法として使い始めたのである。本人達にその意図があるかどうかは、ともかくとして、統計は、はっきりとその傾向を物語っている。
やば経では、これを「さしずめ、荒っぽくも劇的な保険」と述べているが、こういった保険はモラルハザードを引き起こすことで知られている。
火災保険の例を使うけれど、「火災保険に加入する人が増えると、火元のチェックを怠る人が増えるので(保険があるから)、火事が増える」という状態が起こる。
これを経済学の用語でモラルハザードというのだけれど、妊娠中絶の合法化によって引き起こされた犯罪者の減少が「意図せざる便益」だとするならば、妊娠中絶の合法化は、「妊娠が30%増えて、一方、出産は、6%減った」というモラルハザードを誘発してしまった。
つまり、いざとなったら妊娠中絶という保険があるので、避妊を怠りがちなセックスをする男女が増えたってこと。
これが、アメリカで妊娠中絶が合法化されて生まれた一番大きなデメリットとも言える。
とても嫌な話かもしれないけれど、妊娠中絶が合法化されると、殺される胎児が増える、という言い方さえ出来てしまうわけだ。最初から予期は出来たことだけど、しかし、その数が年間150万件まで膨れあがるとは、フェミニストですら思わなかったろう。
最後にもう一つ、やば経から引用する。
さて、話を進めるために、一つひどい疑問を考えよう。:胎児と新生児の相対的な価値はどれだけだろう?何人だかの胎児を生まれた赤ん坊一人の命のために犠牲にしなければならないなんていうソロモン王みたいな問題が降りかかったとして、あなた、どんな数字を選びますか?単なる頭の体操だ----もちろん正しい答えなんてない----けれど、中絶が犯罪に与える影響をはっきりさせるのに役立つ。
これについて、どう考えるだろう?それは人それぞれだとは思う。
やば経では、「命は妊娠で始まる」とする中絶反対派であれば、レートは1:1とし、「中絶を選ぶ権利は胎児のそれよりも重要」とする中絶賛成派ならば、何人の胎児であろうが、生まれた赤ん坊一人の価値には届かないとする。
ここまでは普通の答え。
で、なんだが、ここからが、経済学者っぽいやり方だ。(やば経の筆者がいっているように、これから先の話は、非常に不快な話なので、そういう人は読み飛ばし推奨。)
まず、生まれた赤ん坊一人には、胎児100人分の価値があるとする。これは、やば経のレートだけど、話をすするために、そうする。
この場合、アメリカでは150万件の中絶が行われているから、年間、赤ん坊一万五千人の命が失われているのに等しい。
日本の場合は、年間30万件の中絶が行われているから、年間、三千人の命が失われているのに等しい。
この数値は、アメリカの場合、殺人事件と同数の人間と同じだし、日本に至っては、殺人件数の二倍ちょいの数字だ。
つまり、胎児は、赤ん坊の100分の1の価値とした場合、中絶の増加と犯罪減少のトレードオフは、極めて非効率なものになるわけだ。特に日本においては、極めて非効率な状況を生み出している。
では、ここまでの話をして、何が問題なんだろう?
中絶を禁止すればいいのだろうか?僕はそうは思わない。問題は、ある種のモラルハザードだ。
つまり、「いざとなったら中絶すればいい」という保険があることから、妊娠は増えるのに出産は減るという行為に拍車がかかってしまっている。
僕が、妊娠中絶で問題にしたいのはここになる。つまり、「いざとなったら中絶すればいい」という保険が、人々に及ぼしてしまうインセンティブの問題なわけ。
最初に考えられる対策は、「ピルとゴムの併用」を強く進める方法だ。特に、日本では未婚者よりも既婚者での中絶が多いので、既婚者にはこれを強く進める。
また、ピルが高価で、副作用の強いピルしか日本では買えないって問題もある。このあたりは、避妊の話になるので、おいておくが。
僕個人は、赤ん坊と胎児のレートが1:100だとは考えてはいないけれど、しかし、このレートで換算した結果として、中絶が現状、非常に非効率な手段となっているという問題意識がある。
基本的に、日本の中絶率は、50年前と比較して下がっているわけで、これ以上下げるのは、もう無理なのかもしれない。しかし、もう少し、避妊に注意すれば、下げれるんじゃないかと思っていて、基本的に「ピルとゴムの併用」を進める立場なわけ。日本ではピルは普及していなのでね。
結局のところ、やば経の結論は、
中絶と犯罪の関係からはっきりとわかることはこれだ:中絶について、政府が女性に判断をゆだねれば、普通、女性は、子どもをちゃんと育てられるかどうか自分で判断する。育てられないと判断した女性は、中絶を選ぶことが多い。
って事なんだけど。
個人的には、これに付け加えて、「中絶が合法化されると妊娠は増える可能性がある」って所も付け加えたい。ある種のモラルハザードを誘発してしまうからね。中絶できるから、避妊をおろそかにしてしまうことがあるってこと。中絶が合法化されてからのアメリカの中絶の増え方は恐ろしすぎるから。
最後にフリードマンが喝破した事で「他人の金を他人のために使うとき」には、それが酷く無責任になるというのがある。
これは、「他人のリソースを他人のために使うときには、それを効率的に配分しようというインセンティブがない」ということだと僕は理解している。だから無責任で非効率なことをやりだす。
これを中絶に当てはめると、中絶反対派の人たちは、家族のリソース、つまりは子育てであると、産む子供とかに関して、どの子供を育てるべきか、という嫌な問題について、考えるインセンティブがないってことでもある。
女性であれば、それこそ、自分の子どもを生んで育てるには、生理、出産、育児、授乳といったコストを支払わざるを得ないので、その効率的な配分というのを考えざるを得なくなるが、赤の他人だと、そういうことまでは考えるインセンティブが、しばしばないってこと。
女性にかかるコストを考えれば、妊娠中絶は認められてしかるべきだ。少なくとも、僕はそう思う。
トリアージの問題だけれど、医者がリソースを患者のために使うのは当然。普通にやってれば、医者というのは、合理的に、そのリソースを患者のために配分する。
無論、ここでも、医者がモラルハザードを起こす可能性はある。「医師が不必要に多くの薬を患者に与えて診療報酬を増やそうする問題」なんてその典型だ。
医療のリソースは限られているわけで、そのリソースをどう配分するか。それは常にトレードオフの問題をはらむ。しかし、配分しなくちゃならない。全員を救うことはできない。将来できるようになるかもしれないけれど、今はそうじゃない。さらに、モラルハザードの問題まである。
しかし、ここで、「他人の金を他人のために使うとき」的な状況で、医者のやることに、口出しするのは、同じくらい危険な問題をはらむわけだ。
例の「可哀想」の話になるけれど、彼女達は、自分で患者を助けるのではない。医者というリソースを使って、患者を助けるということを考えている。そこに、医者というリソースは有限で、その効率的なリソースの配分をどうするかという視点が抜けている。それが俺からすると非常に危ういとおもうわけだ。
多分、彼女達は、中絶には賛成するだろう。なぜなら、彼女達は、自分で子どもを生む当事者だからだ。だから、自分の資源の効率的な配分を目指すインセンティブがある。
中絶は、トリアージ以上に議論にされるし、非人道的な行為だとして、徹底的にたたく人たちもいる。場合によって、奴隷制やナチのホロコーストより酷いって人もいるわけだけどね。
彼女達が、子どもを可哀想だと思わないって言ってるわけじゃない。そうじゃない。どっかで読んだが、どんな女性だって、「本当に中絶しなきゃいけないの?」って聞かれると涙を流すそうだ。ただ、彼女達には生めない理由がある。そういうことだ。
それを、経済学の観点から話すと、ある種、非人道的で、無味乾燥なものになることはわかっているけどね。
この問題は中絶だけじゃなくて、僕らの社会にあまねく存在している。幸福と不幸のトレードオフ。誰かの不幸が、全体の幸福につながるなんて、ショックな話だ。
だけど、そういう状況がいくつもある。そして、マンキュー経済学にあるように、「人々はトレードオフに直面している」わけだ。
何かを得るために、何を支払わなければならない、そういう状況にね。リソースは有限なのだから、当然そうなる。
例えば、技術が進歩しても、やはり問題は起こる。たとえば、技術が進歩して、完璧で低コストな避妊法、それから、どんな怪我でも一瞬で直せる安い薬が開発され、大量生産されて世界の人々に広まったとしよう。
こういう状況なら、妊娠中絶なんてなくなるだろうし、トリアージなんてなくなるだろう。薬だけで治るわけだから。
だが、だ。それは、日本から、高自給の医者の仕事や看護婦などの医療関係の仕事がまるで無くなることを意味する。彼らは失業することになる。
いずれは、彼らも新しい仕事をみつけるだろう。だが、その間、彼らは失業せざるをえなくなるし、適応できずに自殺してしまう人もでるかもしれない。
これは、可哀想じゃないだろうか?無論、大半の人は、可哀想だなんて思わないだろう。だって、この世界から病気や中絶がなくなるんだから。デメリットよりもメリットのほうが遥かに大きい。
でもやっぱり、ここでもトレードオフの問題が起きる。世界から病と中絶がなくなる引き替えに、医者と看護婦と医療関係の仕事がなくなって、彼らは失業してしまうわけだから。
少数の犠牲の上にたつ平和の世界。そういって批判することもできるかもしれない。しかし、医者の仕事を守るために、病人を出し続けろなんて馬鹿げているわけだ。
この配分とインセンティブやトレードオフについて扱うのが経済学の問題なんだけど、これから、しばらく、この手の問題について、いくつか紹介していきたい。
とりあえず、今日はこんな所で。
大期待
言われる方もあまり気分がよくないので、最初に「僕が講義するのは冷血な悪魔の学問だから、そのつもりで。」とか前振りをするらしいんですが、それを言っても、言えばなお、言う方も楽しくない。
しかしひょっとすると、聞いている学生さんの中で本気で「悪魔の学問なのかー!」と思ってしまう人も出てきちゃうのではないか、と、ここ数日の体験から、思います。どうしましょう。
経済学なんてまだまだ優しい方じゃありませんか。