長い長い話で、これには泥沼の政争があったんですが、これがまた、面白い話なんで。
第一章 トルーマン大統領 VS マッケーブFRB議長
始まりは、第二次世界大戦後になります。
3つの大洋と欧州とアジアの全域にまたがって起こった大戦争は、連合国の勝利に終わったわけです。
ここまでは、皆さん、誰でも知っていると思います。それから、アメリカが、大戦の戦費調達のために、国債を大量に発行していたことも、知っておられる方が多いと思います。
一方で、戦中から戦後にかけて、FRBは、政府の戦費調達を支えるため、市場から国債を買い入れて、長期国債の金利を2.5lに維持する政策を取っていました。
これは、あまり知らない人が多いのではないかと思います。
しかしながら、朝鮮戦争の勃発と同時に、インフレ率が爆発的に上昇しはじめます。1951年の消費者物価指数上昇率は、7.9%。前年が1.3%ですから、いかにインフレ率が急激に上昇したかがよくわかると思います。
当時のマッケーブFRB議長は、インフレ率上昇に対処するため、市場での国債買いオペレーションの停止、金利引上げを模索し始めます。インフレ率の急上昇は、経済そのものを破壊しかねませんからね。
しかし、朝鮮戦争の戦費調達を最優先したいホワイトハウスは、
「現在は国家の非常事態であり、FRBは長期国債金利を抑え、政府と協調すべきだ!」
と主張。いつの時代も、こればっかなんですけどね、ホワイトハウス。
だが、ここで偉かったのは金融政策を審議していたダグラス委員会が、ここでFRBの擁護にかかったんです。
「政府が国債に関しては人為的な市場を作りながら、民間に対して政府自身が守ろうともしない金融上のモラルを押しつけることはできない。隔離されペッグされた国債市場は、政府の信用を維持するどころか、かえって破壊することになる。」
という趣旨の最終報告書を提出。まぁ、ド正論なんですが。政府が人為的な市場を作って資金を吸い上げているのに、民間だけ自由競争して資金を奪い合えとかありえませんからね。とはいえ、そういうことをやる政府がそこらにあるのもアレなんですけど。
最終的に、世論の支持をうけたのは、FRB側の主張でした。最終調整の結果、1951年、財務省とFRBは、アコード(金融政策と国債管理政策の分離)を締結します。
ここにいたって、FRBは独立性を手に入れることに成功したんです。
第二章 ホワイトハウスの介入とFRBの逆襲
しかしながら、その代償は大きいものでした。これは、当然、ホワイトハウスの怒りを買いました。トルーマン大統領とシュナイダー財務長官は、マッケーブFRB議長を解任してしまいます。もっとも、正確には、議長は辞任しただけなんですが、その背後に政治的な力が働いたのは間違いないでしょう。ホワイトハウスは、このような形で、この後、何度もFRBに介入を行います。大統領や財務長官の顔は変わりますけども。
この時、トルーマン大統領は、より扱いやすそうなFRB議長として、若干45歳のマーチン財務次官補に目をつけます。当然、狙いは、FRBを再び政府のコントロール下におくことです。
戦費調達のための国債が必要だったのですが、そのためには、FRBが国債価格を安定させてくれることが非常に重要なんですね。
トルーマンは、マーチンと面接し、その折、彼に、議長就任の見返りとして、国債価格の安定についての確約を取り付けようとします。しかし、マーチンは、これをガンとして拒みます。
「マーケットは、王様や首相、大統領、財務長官、FRB議長に仕えるものではありません。残念ですがお約束できません。」
ド正論です。いやね、どこにでも、救いようの無い人がいるもんですが、一方で、凄い人もいるもんです。これを大統領に面と向かって言える肝が凄い。
この答えに納得のいかなかったトルーマンは、もう一度マーチンと面接します。そこでも、マーチンは、国債価格の維持政策に同意しませんでした。
ですが、不思議なことに、トルーマンは、マーチンを議長に任命したんですね。これについては、シュナイダー財務長官の推薦が大きな理由だったとか言われてるようですが、詳しいことはわかりません。
とにかくも、トルーマンはマーチンを議長に任命します。
しかし、マーチンは、トルーマンを裏切りました。マーチン議長は、FRBの独立性を維持すべく奔走したからです。政府のコントロール下には、FRBは入らないという事をはっきりとさせたんですね、ここで。
さらに、インフレに関しても、厳しく制御し、1950年代から60年代にかけて、低インフレ率を実現させます。
しかし、後に、トルーマンとマーチンが、ニューヨークで偶然会った際に、マーチンは「裏切り者」といわれたそうです。
選んでもらったのに、思いっきり背後から撃ち殺しちゃったわけで、しょうがないといえばしょうがないですけどね。
ただ、マーチンのFRBの独立性への功績は、非常に大きなものなんです。
第三章 グレートインフレーション
で、次の話に移りましょう。マーチンFRB議長は、その後も強い指導力を発揮し、ホワイトハウスから圧力に屈せず、FRBの独立性を守り、インフレ率の抑制を行いました。
FRB議長には、二つの重要な能力が必要とされます。
ひとつは、貨幣の安定です。酷いインフレ、酷いデフレに陥らないように貨幣の安定を追及する能力。
そして、もうひとつは、ホワイトハウスや議会からくる政治的圧力からFRBを守る政治力です。
ワシントンは腐敗の巣ですが、FRB議長は、それと付き合わざるをえません。そして、その中で、FRBの独立性を守り抜き、金利が政治のおもちゃにされるのを防ぐ能力が必須とされるんです。
1969年のことです。ニクソン大統領は、マーチンFRB議長をホワイトハウスに招きました。
会談の内容は、ぶっちゃけると、こういう事です。
「再任と引き換えに、中間選挙のある1970年に金融引締めを止めろ」
と、ニクソンはマーチンに迫ります。選挙の際に、FRBは、しばしば政治の分野から干渉を受けてます。選挙の年に、金利引き締めをやられて、経済情勢が悪化すれば、選挙で不利になるのは明らかだからです。
選挙の際に、投資家さんが、非常にそわそわするのはそういう理由です。政治と金利が完全に分離されていないケースでは、選挙の年は、ボーナスが金融市場に落ちてくることが多いんですね。
しかし、マーチンは、これを拒否。
これを受け、ニクソンは、マーチンの任期中に、当時利下げを主張していたアーサー・バーンズ氏を次期議長に指名します。これは、ルール違反とも言える仕打ちでした。そして、インフレが頭をもたげはじめます。
インフレが壷から飛び出したら、それを壷に戻すのには、多大な犠牲が必要となるんです。1960年代後半から、アメリカの消費者物価指数上昇率の伸びが大きくなります。インフレが起こり始めていたわけです。
ですが、アーサー・バーンズは、FRBとなるや、かつてから主張していた利下げを決行します。FRBは、ここで低金利政策を取るわけですが、これが裏目に出ます。
政治家が金利の周りをうろつくとロクな事がないの典型ケースなんですけどね。
国内の完全雇用とベトナム戦争での出費を支えるため、金融緩和を望んだニクソンの政策は、ドルを膨張させ、過剰流動性をもたらし、金融市場の混乱を招く元になったんです。
その結果が、1970年代のグレートインフレーションとして結実するわけです。もちろん、このグレートインフレーションは、オイルショックなどの外的要因も無視できないわけですが、この時期のFRBの迷走がそれに拍車をかけたことも間違いないわけです。
第四章 インフレファイターの帰還
アーサー・バーンズ、ウィリアム・ミラーと続いた二人のFRB議長の下で、アメリカは、とてつもないインフレに襲われます。これが1970年代のことでした。
そして、1979年、カーター大統領は、新しいFRB議長として、ポール・ボルカーを任命します。
当時、アメリカは、スタグフレーションに襲われており、財政赤字と高失業率のトリプルパンチを浴びていました。
そして、ここで、ケインズ嫌いのマネタリストであったボルカーは、劇的な金融の引き締めを行って、インフレファイターとしてのFRBという、本来の姿へと回帰させたんです。短期金利を19パーセントまで引き上げるという劇薬によって、インフレの沈静化を図ったわけです。
無論、これは凄まじい批判を呼び起こしました。何百万人もの人が失業し、企業や金融機関の倒産が相次ぐことになりました。
当然、人気商売である政治家、そして大統領からですら批判が出ました。なんせ、大統領選挙が近かったから当然でしょう。失業率がこれほど高いのでは、大統領選でカーターが勝てる見込みは無くなります。
しかし、ボルカーは、ここでFRBと金利の引き上げ政策を守り通しました。国民と政治家からの凄まじい批判をうけてなお、一歩も引かずに金融の引き締めを続けたんです。
事実上、このボルカーによる金融の引き締めがカーターの再選の可能性を著しく損なったと言わざるを得ません。
しかし、ボルカーを選んだカーターの選択は、正しかったと言わざるを得ません。彼のアプローチは正しかった。劇薬ではありましたが、インフレが落ち着いて、価格が安定したことで、アメリカはスタグフレーションから抜け出すことが出来たんです。
結果として、ボルカーの最後の5年間は、輝かしいものとなりました。インフレが落ち着き、景気が拡大するにしたがって、失業率が徐々にではありますが、落ち始めたんです。
第四章 ボルカー包囲網とFRBの制度的な欠点
ただ、ボルカー議長のFRBと、大統領選挙で再選されたレーガンの間には、徐々に溝が生まれはじめます。
当初は、インフレとの戦いで勝利をおさめたボルカーの業績を評価して、再任を決めたわけですが、同時に、レーガン再選以後、レーガン政権は、FRBへの関与の度合いを深めていきます。
ちと、FRBの仕組みを述べておきますが、FRBは、金利を変更する際、7人の理事のうち、過半数の賛成を得なければなりません。そして、ここが重要なんですけど、議長ですら、七票のうち、一票しか持っていないという点です。
憲法と法律によって定められていることですが、大統領は、理事を指名することが出来ます。
FRBの理事の任期は14年なので、本来は政治の影響を受けにくい仕組みなんですが、理事の地位がワシントンでは非常に低く、議長の力があまりに強いために、大抵は数年でやめていってしまうのが実情となっています。
そのため、理事が辞めるたびに、大統領が自分の考え方に賛同してくれるような理事を送り込むことが可能になるんです。
ここが問題で、人事を通じて、大統領は、FRBに強い影響力を及ぼせちゃうんですね。
そして、レーガンは、ボルカーFRBに対して、ここを利用して圧力をかけたんです。
1982年に、プレストン・マーチン副議長、84年にマーサ・シーガー理事、86年にウェイン・エンジェル理事、マニュエル・ジョンソン理事をレーガン政権はFRBに送り込みました。
いずれも、レーガン派の理事です。
そして、定員7名の理事の中で、4人がレーガン派になった時点で、遂にクーデターが起こされました。
86年2月のFRB理事会の午前の会議で、レーガン派4人の理事が、公定歩合の引き下げを求めて採決をボルカー議長に迫ったんです。
先にも述べましたが、FRB理事会は、総勢7名で構成され、議長ですら一票しかもてません。ボルカーは、自分が包囲された事、そしてホワイトハウスが、これと引き換えに理事に指名を行ったに違いないことを確信するわけです。
先にもいったとおり、FRB理事会は、多数決で採決されます。少数派だったボルカー議長に勝ち目はありませんでした。ボルカーは、4対3で敗れ、公定歩合の引き下げが採決されます。
ここで、ボルカーは激怒します。
この投票自体が、ホワイトハウスによって仕組まれた陰謀そのものであり、FRBの独立そのものを揺るがす許しがたいものだと考えたんですね。
しばしば、FRBの決定は、民主的ではないとされます。それは議長権限が異常に強いことに端を発しているのですが、それは、ワシントンの陰謀渦巻く世界で、FRBが生き抜くためには、しょうがないことなのかもしれません。
ホワイトハウスは、常に金利決定に関して、FRBを支配したいという誘惑に駆られているからです。そして、それは、やり方次第では不可能ではない。理事を買収したり、圧力をかけたり、あるいは、ホワイトハウス陣営の理事を送り込んでくることがあるからです。
ボルカーは、議長が同意しないのならば、会議は無期限に続けられるべきだとも考えていました。あまりに、民主的ではないと思われるかもしれませんが、このケースにおける議長に対する理事の対応は、反乱以外の何者でもなかったのですから、しょうがなかったのかもしれません。
ボルカーは、投票後、議長室に戻ると、辞表を手書きし、辞任をベイカー長官に伝えます。これには、流石にベイカー長官も驚いて、ボルカー議長をなだめにかかりました。
状況が変わったのは、午後の投票で、です。
このFRB理事会でのクーデターが市場に広まった場合、それは、FRBの独立性が疑われる事態に発展しかねません。
その場合、「金利をホワイトハウスが操っている」と投資家はみなすようになるでしょう。そうなれば、予想インフレ率が上がり、長期金利が上昇してしまいます。企業の設備投資や、住宅投資が冷え込んで、経済が不活発になるわけです。
で、それを恐れたレーガン派の理事の一人が、午後の会議で、引き下げ反対に回ったんですね。
こうして、クーデターは失敗に終わり、FRBの独立性は守られたわけです。
このように、FRBの独立性を守るってのは、並大抵のことじゃないです。ワシントンのあらゆる方向から、利上げをつぶそうとする圧力が飛んでくるわけですからね。
このクーデターの首謀者と目されたマーチン副議長は、翌月辞任したわけですが、ボルカー議長は、FRBで不利な状況が続きました。なんせ、数ではレーガン派理事が勝っている状況なんですから。
そのためだったかはわかりません。ボルカーは、FRB議長に留任せず、二期目で議長を退きました。
僕は、彼がとても偉大な議長だったと思っていますが、一方で、彼に加えられた圧力の大きさを考えると、FRBがいかに不安定な組織かということが、ここに明らかにもなります。いまだに、政治は、金利の周囲をうろつくことをやめていないとも言えます。それがどれだけ破滅的な結果を招くかははっきりしているのに。この誘惑に逆らえる政治家なんて、いないのかもしれません。
で、なんですが、ボルカーの後を継いで、FRB議長になったグリーンスパンに関しては、今、日経新聞の「私の履歴書」で連載が行われているので、今回は扱いません。
簡単に、僕としての評価を述べておきますが、とにかく、政治との付き合いが上手い議長だという事です。先にも述べましたが、政治に関わってきた経験が豊富なので、政治的圧力とどう向き合えばいいか、そしてどう身を守ればいいのかをよくわかっていた議長だという印象が強いです。
とにかく、政治との付き合いが上手いのと同時に、FRB議長としての権威を高める事によって、政治的な干渉から身を守っていたように思います。
それから、クリントン政権においてルービン長官が、クリントン大統領によるFRB批判を抑え込んだ手腕もまた、評価せねばならないでしょう。
長いFRBの歴史の中で、クリントンとグリーンスパンの関係ほど上手くいった関係はなかったように思えます。グリーンスパンは、クリントン(民主党政権)のことを、「ここ最近で最高の共和党大統領」と評していましたが、そのあたりが原因でしょう。
今日、バーナンキのことまで書こうと思っていたのですが、まぁ、今日はこのあたりで終わります。
バーナンキの議長としての資質は、エントリでも述べましたが、「ホワイトハウスからの干渉からFRBの独立性を守りぬく政治力」と「金融市場と通貨の安定の守護者としてのFRBを運営する能力」にかかっています。
そのいずれも持っていないと駄目なんです。
その話は、また明日にでも。
今回の記事では中央銀行の独立性に重点を置かれて書かれていますが、スティグリッツが「中央銀行は数々の神話を広めてきた。曰く、インフレは最大の悪である。曰く、インフレはいったん始まったら、それを反転させるには大きなコストがかかる。曰く、インフレ抑制には政府から独立した中央銀行が必要である。私の目的の一つは、これらの神話の嘘をあばくこと」と言っているように、中央銀行の独立性は過剰に神話化されているように思います。
国家ができる経済政策は財政政策と金融政策しかない以上、国民の信認を得ていない中央銀行がその片翼を独占的に管理している状況は決してよいこととは思えません。
グリーンスパンやバーナンキのようにトップが優秀ならまだ良いですが、今の日銀のように「利上げは勝ち、利下げは負け」「強い円は正義」などといった誤った信念を持ったトップが就任した場合、誰も止めることができないのですから。
三権分立と同じように、完全に独立した機関ではなく、中央銀行は相互監視の中での独立でならねばならず、そのような視点が欠けているように感じます。
1952年の大統領選挙にトルーマンは出馬していません。したっがってアイゼンハワーとは大統領の座を争ってません。
トルーマンのところを民主党に変えた方がよろしいかと
http://en.wikipedia.org/wiki/United_States_presidential_election%2C_1952
すみません、ちとアルコールはいっていて頭がまわっていません。
日銀のように株の55%が国のケースと特殊な FRB の少数株主(ロスチャイルドとロックフェラー)の場合は問題だと思いませんか? また大統領は任命するだけ(儀式のようなもの)で罷免権はありませんし、議長の選出や IR など、株式公開しているわけではないので、全て一般人が知ることはできません。不透明な1民間企業に、支配権を与えたアメリカの悲劇と捉えている多くの人々がいます。http://video.google.com/videoplay?docid=3110632096599506988