笑えるネタと泣けるネタってのはいつも紙一重。
チャップリンが「新米門番」という作品を作っていた時に
こんな逸話が残っている。
チャップリン演じる門番が支配人に首にされる場面がある。
支配人「お前なんか首だ!」
チャーリー
「ああ、どうかお願いです。そんな残酷なこと仰らないで下さい。家には大勢の子供がいるんです。私がクビになったらどうやって食べさせたらいいか・・・・・・・」
たったこれだけの場面だけれど、チャップリンが
演じると、これが喜劇になる。
ここで、チャップリンが
滑稽な仕草をしてみせるからなのだけれど
セリフだけ抜き出せば、
これは紛れもなく悲劇的な場面でもある。
当時、この場面をみていた女優が、チャップリンの
演技を見て、涙を流したという。
彼女は、彼が笑わそうとしていたのを知りながら
それでも涙が出てきてしまったのだという。
笑いというのについては、色々と以前にも書いてきたけれど
結局、これは、非道徳的な部分があり、
特に、他人に対して優越感を抱いた時に起こる笑いというのの
多くは、他人の欠点を見つけた時や他人と自分を
比べて、自分の中に何かの卓越性を覚えた時に起こる
一種の優越感と定義される。
だけど、そういう状況下というのは、視点を変えれば
他人が何らかの状況下で打ちひしがれている状況という
のを指すのであり、それは、悲劇的な状況なのである。
なんだから、喜劇と悲劇は、非常に紙一重の作品なのであり
喜劇作家であったり、ユーモリストの多くは、
とんでもない悲劇作家でもあるのであって、
そういった形で、他人を泣かす作品を作ることにも
長けていたりする。
有名なのがディッケンズで、ディッケンズが
その名をイギリス中に知らしめたのは
「ピクウィックペーパーズ」という
ユーモア小説だった。
で、次の作品が、「オリバー・ツイスト」であり
これは、最初の作品と180度違う悲劇的色彩を
色濃くもつ小説である。
こういう悲劇作家と喜劇作家の両面をもつ作家というのは
他にもいるのだけど、やはり、両者は非常に近しい性質を
もつので、こういうことが可能になるのだろう。
「泣き」という感情も、ある程度、定義可能で
定義していくといくつかに分類可能なんだけれど
それは又の機会にでも。