ちと分裂君のところで、「好きを貫く」ネタから始まって、おもしょい話がいっぱいでているので、せっかくなので尻馬。
まぁ、ゴッドランドの話をした時に、話そうと思っていた話でもあるんだけど、よくあるネタに引き合いにされる、退屈な「比較優位」の話から始めよう。
比較優位については、もともと、デビッド・リカードって人が提唱したものである。内容的には保護貿易の有害さ、自由貿易の有益さについて述べたものでもある。
そして、重要なのは、この「比較優位」に基づいて、基本的に経済学者のほぼ全員が、関税だったり極端な保護貿易を有害だと述べていることだ。無論、例外はいくつかあるけれども。
比較優位については、幾つか面白い例で説明することができるのだけれど、僕が一番好きなのはアインシュタインと秘書の例えだ。
アインシュタインは、タイプでも物理でも、秘書よりも上手にできる。一方で、秘書は、タイプも物理もアインシュタインよりできない。
この場合、アインシュタインは、秘書を雇わずに、全部一人でやったほうがいいだろか?
そんなことはない。
アインシュタインは、タイプや雑務などの仕事を秘書にまかせ、物理に専念したほうがいいだろう。そうしたほうが、遥かに、笑ってしまうほど遥かに、アインシュタインは多くの論文を書けるからだ。
この場合、アインシュタインはより論文をかき、秘書は仕事をうる。つまりは二人とも幸せになるということになる。
こうして、例え、片方の側がいずれの能力において劣っていたとしても、分業することで、全体として多くの富を生み出せるからだ。
もっと詳しい話は、wikipediaでも読んでもらうとして、だ。
比較優位
今、ある種類の職種は、製造工程が変わったことから来る変化に晒されている。
つまり、仕事がどんどん効率化され、生産性があがるにつれて、そこにかかる人手は少なくなっていく。そして、最終的には、技能がほとんどないような労働者でも可能になるようになる。
いい例が自動車だ。かつては、超がつくほどの熟練労働者しか作れなかったが、今では、熟練を擁する労働はごく一部で、それ以外は、半熟練から未熟練労働者によって製造されている。
そして、このことは、次のような効果を生み出していく。
製品を組み立てる技能や、農作物を育てるための技能、家畜を育てる技能が簡略化されるにつれて、そういった仕事の多くは、より低いコストで雇える人員のいる場所に流れていく。
このことは、現在、グローバリゼーションと呼ばれもし、産業の空洞化ともいわれる。
これは、悪評が高いのだけれど、その点については、もう随分語られてきたので、それはいいとして。
1990年代、アメリカと日本では、製造業の空洞化が問題視された。ある人々は、自国内から、製造業がなくなることの危険性を説いた。それは、「モノ作り」の保護を叫ぶものだった。
今でも、それは続いている。例えばアニメなどでもそうだ。仕事が海外にどんどん外注されるようになったりすると、「夢が奪われている」などとも言われた。技術的な危機なども問題にされた。
しばしば、これは、職が奪われているという言い方をされる。
だが、これは見方を変えれば、中国人や韓国人のアニメーターが、低賃金の仕事を肩代わりしてくれたとも言えるのだ。日本人のアニメーターがしなくてはならなかった、低賃金の仕事を彼らが肩代わりしてくれたのだ。
そして、日本人は、アニメを見つづけることが出来、アニメーターは、もっと良い仕事を、少なくとも、奴隷みたいな仕事でなく、ちゃんとした給料を貰えて、生産性の高い仕事につくチャンスを得たともいえる。
もし、中国や韓国のアニメーターがいなかったら、この先、永遠に、日本人の中から、アニメーターになる人を探し出して、低賃金で働かせつづけねばならなかっただろう。
常に、一定数のアニメーターが必要とされるならば、誰かが,それをせねばならなくなる。好きという理由で、それをしている人もいるからそれはいい。だが、低賃金で長時間労働がデフォの仕事を、この先も永遠にやりたがる人が出続けるだろうか?僕は、とてもそうは思えないのだ。
だが、国際間での分業が行われたことで、そうした人々を出さなくても、我々はアニメを楽しみつづけることができるようになったのだ。
分業は、それによって、ある特定の職種につく人の数を減らす。それは、しばしば、その職種についている人たちに失業という問題を生み出すが、同時に、他の産業が、今までより多くの人を雇いいれて、それを発展させることができるチャンスを意味する。
農業の仕事が技術革新によって効率化された時、余剰労働人口が生まれた。それは次に工業が発達させるための人員の確保を助けることとなった。
そして、工業が発達し、熟練労働が不要になり、効率化されるにつれて、工業に人手はかからなくなっていった。そして熟練も。
そして、余剰労働人口が生まれると、サービス業などが、人手をいれて、発達するための下地がととのうのだ。
もし、この段階のいずれかで、規制が行われると、又別の話となる。
たとえば、製造業を異常に保護してしまった場合などだ。
自給自足は最悪のシステムだ。なぜなら、それは貧困への第一歩となるからだ。ナニが何でも自分でしようとするなら、それは物凄く高くつく。
アインシュタインが、物理と家事とタイプと資産管理を全部自分でしたとする。そりゃ、普通の人より、美味くできるかもしれない。しかし、あっという間に論文の数は減るだろう。場合によっては、相対性理論は生まれなかったかもしれない。
アインシュタインが相対性理論を生み出せたのは、彼が物理に専念するために食料やタイプや資産管理をしてくれる人たちがいたからなのだ。そういう人たちが存在して初めて、彼のように物理に専念できる人がうまれる。
僕らが、好きを貫けるのは、このように分業が広く行われて職種が増え、そして様々な機会の中から、自分が好きな仕事をえる土台があるからなのだ。無論、それは機会に限った話であり、好きな仕事をするにはそれなりのコストを覚悟せねばならないのだが。
だが、それだけでは駄目なのだ。
相対性理論を生み出したのはアインシュタインだ。だが、同時に、それを複雑すぎるのだ。それを簡略化して、普通の人でもアインシュタインの仕事ができるようにしなければいけない。
不可能だろうか?
いや、僕はそんなことは信じない。農業も工業も、かつては熟練労働に頼っていたものが、今は機械化されて、未熟練労働者がするようになっている。
そして、そうなったことで、新たな機会がうまれたのだ。つまり、新しい職種が生まれる可能性だ。
アインシュタインが物理をやる必要がなくなったら、今度は、彼の最高の頭脳は他の分野に活かされることになる。彼がなる必要はないが、彼と同程度の頭脳をもつ人々が他の分野に進出してもよくなるのだ。物理に束縛させられていた優秀な人たち、あるいは、将来そうなるかもしれなかった人たちが、他の分野に出て行く可能性が生まれる。
無論、そこで何も生まれないかもしれないという漠然とした不安はあるかもしれない。
かつて、偉大な文明がいくつも崩壊した。そして、そこにいた人たちが丸ごと消えてしまったこともある。
だが、今残っている文明については、そうはならなかった。紆余曲折をへたけれども。
ある時、一つの文明、一つの産業が崩壊寸前まで追い込まれたことはある。例えば、敗戦直後の日本は、その格好の例といえるだろう。あの焼け野原の日本をみて、その国がその50年後には、世界有数の経済国家になるとは、誰も思わなかったろう。
一つの文明、一つの産業が衰退し、崩壊するとき、そこには無数の敗者が生まれる。だが、敗者の中にも常に優れた人がいて、そういった人たちは、貧困に苦しみながらも、どんな嘲笑を受けようと、最後まで頑張りとおす。
そして、時間はかかるけれども、最後には、新しい文明、新しい産業が生まれ、世界は復興し、やがては、元通りの世界に立ち返るのだ。
日本が復興できたのは、敗戦後、そういう優れた人たちがいたからだ。
敗戦後、戦前の夢、理想は何もかも壊れてしまった。だが、一部の人たちは、決してあきらめなかった。いつでも、そういう人たちがいるのだ。倒れたとしても、何度でも立ち上がるような人たちだ。彼らの多くは、世間からまず認められず、嘲笑され、無視される。だが、そういう人たちが常にいて、逆風にもめげずに最後まで頑張りとおすのだ。
戦後の総理大臣で、僕が好きな人物に池田勇人がいる。
まぁ、「貧乏人は麦をくえ」だとか「正常な経済原則によらぬことをやっている方がおられた場合において、それが倒産して、また倒産から思い余って自殺するようなことがあっても、お気の毒でございますが、止むを得ないということははっきり申し上げます」と言って、批判を受けたり、辞任に追い込まれたりした宰相だ。
批判は色々あるけれど、彼は優れた宰相だったと僕は評価している。彼は、経済原則というのをしっかり理解していた。wikipediaにあるが、私邸に新聞記者を集めては、経済政策、所得倍増を熱心に語っていたのは有名だ。その中で、彼と新聞記者がこんな問答をしたことがある。トヨタとフォード、三菱とクラスラーの外資提携、30万円500ccの国民車を生産しようとしていた時の話だ。
「総理、大リーグと草野球が試合するような話です。こっちはアメリカの下請け工場になってしまう」
他の記者がそういった所、池田はこういった。
「違う。そうではない。日本人は勤勉で教育水準が高い。一億国民が本気で頑張れば、欧米先進諸国に日本が負けることはないんだ。きみはいま、いくつだ」
「30です」
「君が定年になる頃にはねぇ、GM、フォード、クライスラーを相手にして、日本も必ず五分の勝負が出来るようになる」
と。
当時は誰も信じはしなかっただろう。新聞記者だってそうだった。
池田がそういった時から、50年がたった。今、自動車産業を見渡せば、池田が正しかった事がわかる。いや、それ以上の成果だといってもいい。トヨタは世界一の自動車会社になりつつあり、日本車は世界中で走り回っているからだ。そして、品質の点でも世界有数といっていいだろう。
無論、産業政策の全てが美味くいったわけではない。通産省が、ホンダの自動車産業への参入を拒み、ソニーが成功するための足をひっぱったのは有名な話だからだ。まぁ、このあたりは、通産省や産業政策がどの程度、日本の成功に影響を及ぼしたかという話になって、面倒な議論になるので省く。
とにかくも、日本は敗戦後の焼け野原から復興し、そして世界有数の経済国になったのだ。
さて、アメリカに目を移そう。アメリカのビッグスリーは、いまや黄昏の時代にある。だが、正直な話、アメリカの今の象徴といえる産業は、すでに自動車ではない。航空機であったり、薬であったり、それからITと金融といった産業が、圧倒的なパワーをもって世界に君臨しているのが実情だ。
僕は家にいて、この記事を書いている。そして、僕の周りにはアメリカ製品が沢山ある。ウィンドウズマシンを使い、PCにはインテルのCPUが入っている。そして、ipodが手元にあり、グーグルで検索している。
もし、アメリカが自動車などの製造業を不要なまでに優遇していれば、こうはなっていなかったかもしれない。もし、日本が存在せず、まだビッグスリーが栄華を極めていれば、ビル・ゲイツやスティーブン・ジョブスは、おそらく違う道を歩んだのだろう。
なぜなら、アメリカでは、自動車などのかつての大型産業が次々と威勢を失ったことで、そうした産業へと繋がる道が生まれたわけでもあるからだ。かつては、エリートはビッグスリーやIBMに勤めたがったかもしれない。
だが、今は、グーグルに勤めたがるエリートのほうが多いだろう。グーグルは博士号もちをガンガン捕まえれる。
日本がいい車を作れるようになったおかげで、アメリカのエリートは自動車を作る必要がなくなった。その結果として、新しい産業に優秀な人材が流れ込む下地が整ったのだ。
結局のところ、国際間での分業が行われたことによって、さらに多くの職が生み出され、そして我々は多くの機会を得る事になった。
無論、この流れは、非常に長い時間を擁したし、紆余曲折を経た。だが、そうした労働力の移動が終わったアメリカでは、そうした産業が絶大なものとなって世界に影響を与えている。
僕が好きな言葉があって、漫画「YAIBA!」で夢がもしかなわなかったら?という問いかけに対して主人公が
「また新しい夢でもみつけるさ」
と答えるシーンだ。
僕は、それでいいと思っている。人も産業も移り変わるものだ。好きだった仕事がガマンできないほど酷いものに変わることは、30年くらいのスパンでみれば、必ず起こる。
だが、そういう時にでも、もっと軽い気持ちで「また新しい夢でも見つけるさ」くらいの楽天さを持っていれば、自殺するほど酷い鬱になったりはしないだろう。
楽天家になるというのは、まぁ、そういう事なんだと思っている。僕にとっての好きを貫くとはそういうことだ。夢が叶わなかったら、新しい夢でも探せばいい。それだけのことだ。今の好きが嫌いになったら、次の好きを探せばいい。このあたりは、分裂君と同じなんだけども。
そのためには、沢山の機会があったほうがいい。
そして、その機会をもたらしてくれるのが、なんだかんだで、資本主義や自由貿易なのだ。これらは、古き良き夢を破壊するが、一方で新しい可能性を生む。
僕にとって、重要なのはそこなのだ。
江島健太郎さんが、この間のエントリーで、炭坑労働者の例えを使った。かつては50万人いた炭坑労働者が、今は0になってしまったという話だ。
山田洋次監督の作品に「家族」というのがある。高度経済成長のひずみの中で、炭坑夫の生活に見切りをつけた家族が北海道まで旅を続ける姿をドキュメンタリータッチで描いた作品だ。
これを山田洋次が炭坑労働者に見せた時、そのうち一人が「どこにいっても同じだ!」といったという。
悲しい話だ。
これの責任については、池田勇人による石炭から廉価な石油へのエネルギー源の転換政策があった。
池田は経済原則を理解している宰相だと述べた。彼は、冷酷であったかもしれない。だが、ずっと先を見ていた。
もし、この時、石炭労働者のために、エネルギー源の転換を行わなかったら、今の日本はなかったかもしれない。そして、今の日本人のうち、50万人ほどが炭坑で働いていたかもしれない。
それが今の我々にとって、幸せなことだったろうか?それは個人の考えによるかもしれないが、僕にとっては、炭坑なんて働きたくない所の一つだ。
結局のところ、犠牲は出た。当時の世代の中で、犠牲者がでた。炭坑夫は仕事を追われたのだ。今も、全く同じことが、幾つかの産業で起こっている。中には、好きな仕事をできなくなる人もいる。かつて日本にいた炭坑労働者の中には、それを好きでやっていた人もいる。だが、彼らは、好むと好まざるとに関わらず、その仕事を奪われたのだ。
だが、その産業政策のおかげで、子供達は、炭坑で働かなくても良くなったのだ。そして、今の我々は、違う仕事をする自由を得た。そして、職種が増えて、選ぶ自由を多く持てるようになった。だから、夢や好きなんて言葉が生まれたのだろうと思う。選択が増えて、我々は選ぶ権利を得た。
それがいい事なのか悪いことなのかは別として、我々が多くの機会を当時の人々より持っているのは確かだ。世襲は、今では少なくなる一方で、就職機会はずっと増えた。いろいろな産業で色んな職につける機会は増えた。それは、多くの人が、自分の得意分野で勝負できる可能性が増えたってことでもある。
アメリカでは、製造業が衰退したと言われる。実際、製造業で働く人は減ったのだが、一方で製造業の人たちがもらえる給料自体は増えたのだ。現在、製造業の労働者の平均的な給与は、他の職種より10%程度高いと言われる。
最近、はてBなどで、ときおり話題になっているが、アメリカの技術者の年収は、日本のそれと比べて、ずっと良い。なぜだろう?アメリカの製造業は衰退しているはずなのに?
アメリカの象徴とも言えるフォードとGMは、いまや火の車だ。そして、トヨタは、名実ともに世界一の自動車会社になりつつある。
無論、階層間の格差の問題や、都市のスラム化といった問題はある。が、一方で、平均的なアメリカ人の年収や福利厚生は、アメリカが工業を失ってからでも伸びているのが実情でもあるのだ。
アメリカの工業の多くは失われた。しかし、店にいけば、かつて、工業が盛んだった時代よりも多くのものがあり、そして人々は、それを選択する自由もある。
アメリカの人々は、結局、自分の得意分野で勝負することにしたのだ。医薬品や、IT,そして航空機のエンジンなどだ。自動車は日本に作ってもらって、そしてアメリカは医療品や、IT、航空機のエンジンなどと、それを交換する。
それだけだのことをしているに過ぎない。ただ、今、それがべらぼうに上手くいっているので、アメリカの技術者の給与が高い。製造業に携わる人が減って希少性が生まれ、そしてその内部では得意な分野に集中することによって、彼らは富を得たのだ。
人間、不得意なことを好きになるのは難しい。だから、まず得意分野で勝負して、自信がついてくれば、大抵のことは好きになる。
好きになれば、あとは結構美味くいくものだ。
駄目なら、又新しいことを習得して、そして得意になって好きになる。
この繰り返しなんだと思う。
人も産業も、それから国も。
産業や経営について、いろんな人と話すことに、少し疲れていたのですが、こちらを読んで、改めて希望を持ちました。
本当にありがとうございます。
何か、自分が救われたような気持ちになりました^^;
「また次の好きを探せばいい」と、本当にその通りだと思います。これは僕としては、というか誰でもそうだろうけど、特に恋愛でのベースかなぁと。ただ、結婚となると…。
好きだけで結婚するわけじゃないし、経済的な問題とか色々あるのはとりあえず置いとくにしても、グローバリゼーションというのはこの辺についてもだんだん価値観を変えていくんでしょうね。
藤沢数希さんという方が「金融日記」というblogでこの辺りの事で触れているんですけど、
(http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51160882.html)
良くも悪くも違った価値観が先にはあることは確かで、それが可能性そのものなのかと勝手に思っております。
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