ジェンダーフリーについては
しばしば思う所があるのでかく事に。
「性差からの開放」がジェンダーフリーにおいて
しばしば扱われる問題であるが、
「性差からの開放」という奴や「抑圧される女性」というのが
問題になったのは極めて近年になってからであったりする。
女性解放論者に言わせると
「女性は2000年の長きにわたって抑圧されてきた」
なのだが、これも歴史を調べていくと
必ずしもそうではない事が多い。
勿論、女性の地位が従属的なものであった事は
歴史的にみて、間違いないのだが
だからといって、それが男性による陰謀論的なモノと
解釈するのは、ちょっと無理がある。
どちらかというと父権制であったり、
近年のジェンダーフリーという流れは、
文化や権力者によって作られた流れというよりは、
僕には「歴史的必然」として生まれたものだと
解釈されている。
大塚史学という一つの歴史学、経済学的分野があるのだが、
大塚先生は著書「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」
の中で、プロテスタンティズムとは
ルターがローマ教皇に立ち向かって成立したという面だけでなく、
資本主義が発展してきた必然の結果として
カトリックからプロテスタントに変遷した、という、
論理をぶち上げた。
これは宗教は、実は経済、社会、文化に依存しているという点を
明確に指摘した名著で、その後の大塚史学なる分野を
生み出すことになった本なのである。
実は、これに関しては、家族観についても同じ事がいえると
常々思っている。
つまり、女性の地位という奴は、
極めて強く、経済的要因に依存する、ということである。
女性が、「抑圧されてきた」のは間違いないが、
歴史的にみると、女性が、パワフルであった時代というのも
間違いなく存在している。
特に階級別の社会史などを紐解くと、これが顕著で
イギリスの文化、社会史などを調べていくと
とても面白い発見があったりする。
現代のジェンダーフリーというのは、僕は、
「女性の再定義」だと感じている。
つまり、女性の居場所の再定義、と言い換えてもよい。
歴史的な話をするが、
過去の上流階級の女性史などを調べると
とんでもなくパワフルで驚かされる事が多い。
上流階級の女性というのは狩りにも行くし、狐狩りもする。
フランスであった流れとして、結婚したら愛人をもつのが
普通であった時代もあるし、女王もしばしば誕生するし
社交界などで強い力をもっていた女性というのも珍しくはない。
抑圧されていたか、というと、確かに
女性が制度の面で、不利だったのは確かだが、
上流階級の女性というのは総じてパワフルであり
彼女らには、社会的にみてちゃんとした仕事があり、
居場所があったのである。
日本でも、江戸時代なんてのは武士の家に嫁ぐ女性は
「持参金」を持って嫁に入った。
この持参金制度が肝で、結婚すれば、この持参金は
夫のものになってしまうわけだが
離婚した場合、持参金を嫁に返す義務が発生する為に
しばしば、嫁に頭があがらない夫というのが発生していた。
また夫婦生活において、夫が戦場で取ってきた首を
井戸で洗って、化粧するエピソードが結構残っており
随分とアレだったりするが、これは、当時の妻にとって、
敵の首が夫がとってきた財産なのであるから
こういう事をかいがいしくしていたわけである。
西洋でも東洋でも、上流階級の女性というのは
抑圧されていたとは、僕にはとても見えない。
彼女らは、十分パワフルであるし、
彼女らにあてがわれた仕事をしっかりとする働き者であったと
思う。
さて、もう一つ女性がパワフルなのは、下級階層で、
一般に農業を営む階層であり
ここでの女性、つまり妻は
家庭内で重要な仕事をしており、
抑圧された、というよりも女性がしなければならない
仕事があったというほうがいいと思う。
日本でも西洋でも、農業に関わる人間達にとって、
家族とは全員、同じ家にすむ、ともに農業を営む
労働者なのである。
妻は、夫とともに畑で働くのが普通だし、
夫の為に飯を作るだけでなく、他の沢山の仕事もしている。
力仕事や危険な仕事は、男がするが普通で
他の安全で生産性の高い仕事は大抵、女がしているので
農家には一家共同体として、女性には、合理的な
居場所があり、そうやって何世代も農家の生活は営まれてきたのである。
上流階級と下層階級に関しては、歴史的にみて
しばしば、合理的な女性の居場所というのが存在した。
だが、問題は、近年になって大量に出現した
「中流階級」の女性であったりする。
さて、この微妙な「中産階級の女性」であるが
19世紀イギリス史において、
面白い事がおこった。
それは、「家庭の天使」としての主婦の再定義である。
これは、当時、イギリスに大量に出現した
中流階級の家庭内において起こった主婦の再定義の結果
生み出された理想の主婦像であったりするのだが。
当時の中流階級の女性というのは
非常に微妙なポジションにおかれていた。
まず、農業労働から解き放たれたので
家庭内で女性がする仕事が殆どなくなってしまった。
それと同時に、上流階級の女性のように
社交界のようなものも、中流階級には存在しなかったので
中流階級の主婦という奴は家庭内で「無用の存在」となってしまったのである。
こういう状況におかれたら、すぐわかるが
想像を絶するくらい暇だ。どうしようもなく暇だ。
やることがない。居場所がない。
そういう女性の新たなる「位置付け」として
現れたのが、イギリスにおける家庭の天使としての
妻像なのである。
僕が思うのは、この中流階級の女性の再定義が
まだ続いているのではなかろうか、という事である。
今の日本の主婦なんてのは、
とにかく暇だ。やることがない。
100年前なら、主婦は、
針仕事から洗濯まで全部、手動でやらなければならなかったので
恐ろしく手間のかかる仕事があったのでまだ必要とされていたが
なんでもかんでもボタン一つでできる近代の自動化社会にはいって
彼女らの仕事はどんどん減っていっている。
つまり、機械によって仕事を延々と奪われつづけ、
家庭内に居場所がなくなってきている。
そういった女性の状況をみて、
新たな中流階級の女性の位置付けとして現れたのが
近年のジェンダーフリーという流れなのかもしれない、
なんて僕は思っているわけで。
結局、経済的、社会的要素の変化によって
「主婦」というものの相対的価値が低くなったために
起こった運動なのかもな、とも思えるのである。
ジェンダーフリーは変化しつづける社会と経済に対して
「旧来の中流階級の女性観」というのが適応できなくなってきた事から
生み出されたものなのかもしれない。