痛ニュで、こんな記事出てたし、昨日はイギリスの子どもとかの話したんで、せっかくなんで、今日はイギリス近代の子ども観のお話。
先日の記事で扱ったように、西欧においては、「子供は無垢で愛すべき存在である」という伝統がそもそも無かった。無論、中には、今のような形で、子どもを愛す親もいただろう。だが、それは少数であったといわざるを得ない。中世における西欧の親達は、子どもを今とはまるで異なる視線で見ていたし、そういった視線は、社会内において、タブーでもなんでもなかった。
何故、西欧の、とくに中世においては、そういう感情を人間はもたなかったのか?そういう話について、簡単にうかがい知れるのが、
こちらの書籍になる。「子ども観の社会史」は近代イギリスの共同体、家族、子どもの変遷について扱った書籍である。他にも、この手の書籍はあるのだが、これが一番読みやすいと思うので、ご紹介。
さて、問題に戻るが、何故、中世の親達は、子どもを愛さなかったのだろうか?
本書に出ている話から言えば、その最大の問題は、当時の社会が「多産多死型社会」であった事に起因している。多産多死型の人口分布とは、高い出生率と高い死亡でまとめることができる。子どもは沢山生まれるが、一方で、乳幼児死亡率が高く、子どもの大半は5歳までに死んでしまう社会である。そのため、平均寿命は非常に短くなる。子どもが、しょっちゅう死ぬからだ。一方で、長生きする人は、結構長生きしたりもする。こういった時代で子ども時代を生き抜くことができた人というのは、大抵頑丈だからだ。
だが、そういった人が本当に少数だった。大人ですら、飢餓や疫病、そして戦争の脅威に絶えずさらされていた。大人も子どもも、今よりも遥かに死に近い存在だったのである。
「将来どうなるかなんてわからない」
それが、多産多死型社会の特徴のひとつでもある。人間の生は、とてもはかなく、そして将来の展望を描けない世界なんである。今のように10年、20年先の将来設計までするような世界とは違う。明日のパンの心配をせねばならない世界だったのである。そして、それが人類の歴史の大半だったのだ。
そういう世界では、大人は、子どもの死に幾度となく直面する。が、それでも産まないとならない。でないと、人口を一定の数に保てないからだ。
もし、そういう世界で、子どもを愛してしまったらどうなるだろうか?
この時期、一人の家庭では子どもを5〜10人作るのが一般的だった。が、その5〜6割は5歳までに死ぬのだ。医療技術が未発達で、農業生産性も低い世界では、子どものような弱い固体は、栄養失調と病気の的だった。
この状況では今のように、愛情深く子どもを育てていては、親が正気を保てない。子どもの死に何度も何度も直面せねばならない状況で、深く子どもを愛することは、できないのだ。そんなことをしていれば、心が壊れてしまうだろう。
そういう意味では、親が子どもを現在のように「愛する」事は、時代の状況が許さなかったとも言える。子どもとは、すぐ死んでしまう存在で、その将来を夢見ること、保証することはできなかったのだ。
さて、このような状況の中で、イギリスの子ども達はどのように扱われていたのだろうか?
これは、産業革命時代以前に、西欧で支配的だった乳幼児の扱いだが、
スウォッドリング
というのがある。リンク先にあるが、子どもを幅の狭い長い布でぐるぐる巻きにして両肩から足先までをぐるぐる巻きにしてしまうものだ。
こうした形で、きつく、ぐるぐる巻きにされて、両親や乳母に子どもは持ち運ばれた。こうすることで、子どもの泣き声を殺し、着替えなどの手間を少なくした。大人は鳴き声に邪魔されることなく、仕事に専念できた。
当時の経済状況からして、育児やしつけにかける手間を少なくさせるという意味では、合理的であったかもしれない。
ただ、スウォッドリングされた子どもは、自分の糞尿に使って声も出せない状況におかれるわけであり、(しかも布が高価であった頃は布の取り替えは少なかった)乳幼児死亡率を40〜70%という高い水準にしてしまう原因ともなったと言える。
また、当時は、子どもは生まれてしばらくすると、乳母の下に送られるのが一般的だった。当時の経済状況からして、女性であろうとも貴重な労働力である。貴重な労働力を割いてまで育児には時間をかけれない。そういった中では、ある種の合理性のあるシステムではあったが、乳母というのは、必ずしも良心的ではない。乳は不定期に与えられ、子どもを落ち着かせるためにアヘンやコニャックを子どもに与えることもあった。こういった医療の未発達とスウォッドリングのような子育て法のため、当時の子ども達は、病気と栄養失調の波状攻撃に晒されていたのである。
その結果が、乳幼児死亡率を40〜70%という高い水準だった。
さらに、このような状況を経て、離乳し、言葉を覚えて歩けるようになると、今度は里子制が待っていた。
里子制の中では7歳前後になると男の子であれ、女の子であれ、歩いて1〜2日程度の場所にある他人の家に奉公にだされる。大抵は、子どもの労働力を必要として家に引き取られ、そこで厳しい生活をせねばならなくなる。そこでは劣悪な栄養条件、労働収奪、そして虐待が待っているのだ。子どもを奉公にだす家にとっては、それは「口減らし」の意味をもっていた。そして、奉公先での子どもの死亡率は、非常に高かった。
本書では、歴史家クリストファー・ヒルの指摘を引用し、
「工場制度が児童労働を導入したからといってこれを攻撃するのは馬鹿げている」
としている。
残酷な話だ。だが、残酷な時代だったのだ。
この時期は、子どもとはこのように「親にとっての経済資本」だった。残酷な時代を生き抜くには、残酷にならねばならない。子どもとは愛すべき対象とはなりえなかった。大人ですら、その生存が危ぶまれる世界においては、子どもすら消耗品として見なされたのである。そして、場合によっては、そうしなければ生き残れなかったという面もあるのだろう。
現実的な話をする。産業革命以前でも、児童労働はあったどころか一般的ですらあった。それどころか、児童の死亡率、そして労働の苛酷さ、児童に対する虐待は、今とはまるで違うレベルで行なわれていたことは想像に難くない。場合によっては、産業革命前のほうが酷かった場所ですらあるのだ。それは家内工業によって隠蔽されていたに過ぎない。
ちょっと日本の話をするが、
http://www6.plala.or.jp/ebisunosato/nomugi.htm
こちらに有名な「ああ野麦峠」の話があるが、女工哀史とも言われるけれども、
女工哀史は粗悪な食事、長時間労働、低賃金が定説になっているが、飛騨関係の工女は食事が悪かった・低賃金だったと答えたものはいなかった。長時間労働についても苦しかったと答えたのはわずか3%だけで、後の大部分は「それでも家の仕事より楽だった」と答えている。それもそのはず、家にいたらもっと長時間、重労働をしなければ食っていけなかった。
という話もあるように、女性による工場労働以前から、日本でも女性は、長時間重労働にさらされていたのである。日本女性の大半がこのような長時間重労働から開放されるのは、やっと高度経済成長期に入ってからの話である。
話をもどすが、イギリスにおいて、こういった子ども観が変化しはじめるのは、家内工業が始まり、やがては産業革命が起こる時期である。この時期を通じて、イギリスの人口が増え、以前のような里親制度が廃れはじめる。
なぜなら、ここにいたり、子供の労働力は、親にとっての収入に結びつくようになったからである。家内工業の発達は、子供に死なれては困る状況を生み出した。理由は賃金の発生である。児童労働が禁止されていなかった時代においては、子供は経済的な資本、労働力であり、貴重な貨幣的収入をもたらす存在になったからだ。
児童が、こうした大人による搾取から保護されるようになるまでは1833年の工場法の制定まで待たれることになる。これにも長い歴史があるのだが、ここでは割愛。
そして、産業革命が進展し、イギリスでは家内工業から工場制手工業が主流になっていった。結果として、労働者階級と、資本を有する資本家層が誕生した。
労働者階級にとって、子どもとは経済的債務となる。もはや、子どもを労働者として使役することはできず、子どもの収入を当てにすることはできなくなると、労働者階級は子どもを育てる経済的インセンティブを失ってしまう。
子どもを育てることに、経済的なインセンティブを失った世界で、人口を一定にたもつために、使われたのが、「母性愛」であったのかもしれないとは思う。推測であるが。
推測はおいておくとして、この時期、母性愛と呼ばれる心象が女性に普遍的なものとして強制されることにもなった。女性による育児の専業化の時代の到来でもあり、それは中産階級で特に激しくおこった。
資本家階級、ブルジョワジーにとっては、子どもとは社会上昇の梯子であった。自分達の子どもを教育し、田園を買い、そして、やがては上流階級の仲間入りをすること。それこそが、金を蓄積した後のイギリスブルジョワジーの願いであったのである。
さらに、産業革命の結果、科学技術や医療技術も飛躍的な進歩を見せた。結果として、子どもの医療が真剣に研究されるようになり、そして食品技術や鉄道の発達によって加工乳の大量輸送が可能になった。
こうして、女性が家庭内に囲い込みをされ、育児専業の主婦という存在が中間層で一般化して、やっと乳母や里子制による過酷な虐待からは子どもは開放された
そして医療技術の進歩は、子どもを病気から救うようになる。劣悪な介護、迷信じみた医療から子どもが開放されたのである。
さらに加工乳の普及が、子どもを栄養失調から救った。それ以前であれば、女性の乳の出は、子どもの生存を分けるといってもいいほど、重要な問題でもあった。だが、加工乳の発達によって、子どもは安価で栄養価の高い食事を母乳以外から取ることができるようになったのである。
そして、最後の一撃が、おそらくであるが、ここ半世紀ほどで起こった避妊法と妊娠中絶法の一般化であろう。残念な話だが、人間は「望まれて生まれてこなかった子ども」を愛すことは難しい。
それは最初の記事にあるように、子捨てがある理由でもある。また、孤児院が存在する理由でもある。そして、場合によっては子殺しも。
妊娠中絶や避妊法を女性が手に入れる事が出来たことによって、初めて、女性は出産を人為的にコントロールすることが可能になった。産みたい子どもだけを産めるようになったのである。当時、望まなれないで生まれてきた子どもが生き残れる確率は、酷く低かった。それは、良心的な孤児院のような場所ですら、そこでの死亡率が40〜80%という高い死亡率を見せていたことからもよくわかる。しかし、それでも、望まれないで生まれてきた子どもの生存率としては悪くなかったのかもしれない。
(ぶっちゃけ、中絶禁止はモグリ中絶と捨て子、DVを増やすだけに終る可能性が高い。望まれずに生まれてきた子どもに、親は冷たいのだ。母性を過信してはいけない。)
こうした出来事が複合して、初めて近代的な子ども観である「無垢で愛すべき子ども」というのが確立される下地が整ったんである。
「子どもが大切にされる社会」とは、育児のエキスパートの存在(主婦でも乳母でもベビーシッターでもいいが))、医療技術の発達、加工乳のような乳幼児食の発達、そして避妊法の発達が起こって、ようやく達成されるものなのであると思われる。
タグ:歴史
平清盛はどうして源頼朝の首を斬らなかったのでしょう?
俺は恵まれてんなぁ・・・。
幸せは後から気づくもの?
私の出身地は「西国」なんで、昔から食うに困る環境ではありませんでした。したがって、子供は大切にされる状態が昔からあったようです。
子供を大切に扱うか、邪険に扱うかは、「食えるか」「食えないか」に掛かってるわけです。
食えさえすれば、母性愛は自然に発露され、子供は大切にされると思う。
食えない環境だから抵抗力も低下、病気にもなるってもんです。
日本の場合「南国」「西国」と、ヤマセが吹き、冬は雪に閉ざされれ飢饉になりやすい「東北」での幼児死亡率は、かなり違ったのではないか?
この件に関して、歴史的にはどう評価されてるのだろう。
西欧っていっても、子供の扱いが、地域によって全く違っていたのかも知れない。
出生率が高くても幼児死亡率が高ければ子供の数は少なかったはずであり、『一人っ子』も珍しくはなかったと思われます。それで、子供が数人もいれば発生する長幼の序列が、社会秩序として成立しなかったのでは、と思われます。