「藤代裕之 裸の駄々っ子」からにじみ出るもの
で、「藤代裕之 裸の駄々っ子ーガ島通信研究」という
うちにもTBが来たブログの事を取り上げられている。
このエントリに関しては、少々ひどいと思った。
なので、こちらからはTB返しはしなかった。
ただ、こういうエントリを立てる人を僕が批判できるかというと
それはノーだ。
なぜなら、こういった一連の心理の深層にあるものこそ、
僕達のようなエンターテイナーに
飯を食わせてくれているものだから。
この心理は「優越」の原則と呼ばれる。
笑いという感情を巻き起こす3種類の原則のうちで
もっともよく使われる原則である。
我々が闘争にかっている時、笑いが生まれてくる。
ホッブスによれば、
それは「他人の弱点、あるいは以前の自分と比較することによって
自己のうちの何らかの卓越性を
何らかの形で認識することから生じる突然の大得意」
をあらわすものであった。
したがって、笑いと自画自賛である。
それは、万人の万人にたいする闘争の中で
他人よりも自分のほうが、また過去の自分よりも
今の自分のほうがより良い状態にあることを
発見するもことにもとずくものなのだ。
ホッブス、プラトン、アリストテレスは、
笑いが人の性格にとって有害であることを
気にかけた。
他人を見下すことによってのみ
自分のことを気分よく感じられるような人間には
どこか欠点があると彼らは感じた。
つまり、笑いとは
「自分自身にきわめてわずかしか能力のないことを
悟っている人々に最もありがちな出来事である。
彼らは他人の欠陥をみることによって、
自らを快しとせざるをえない。
したがって、他人の欠点をみて大笑いするのは、
小心さの証明である。」
この理論は、ここ3世紀の間、何度もその正しさを擁護されてきた。
この笑いの理論体系に属する一つ、「優越」の原則は
最も強く人をひきつけている。
何しろ、心理学者が、攻撃的ユーモアで笑う人についての
統計をとった時、40%の人がこの手の攻撃的ユーモアで
笑った。アルコール摂取時には、50%の人間を
笑わせることに成功したという。
近年の興味深い展開は、
笑いを初期人類にあった攻撃的な身振りから発生したものとして
進化論的に理解しようとする試みである。
アンソニー・ルドヴィッチは、
笑いの秘密の中で、
ホッブス理論の進化バージョンを示している。
彼よれば
「笑いとは全て、何かある特定の状況、
あるいは自己の環境全般にたいするひとの
「優越せる適応」感情の表現である。
笑いは固有の身体形式として歯を剥き出しにするという形をとるが、
それはもともと笑いが
敵にたいする身体的な挑戦あるいは威嚇だったからである。
笑うときに歯を見せるのは、犬の攻撃行動においてそうであるように
身体的力量を自己主張するための一方法である。
我々が歯を見せながら笑うのは、自分が強く、
誰よりも状況によく適応していることを敵に伝えるための方法である」
確かに、子供が最も笑うのは、
他人の身体的な不適応であるし、大きくなるにつれて、
我々は精神的、あるいは文化的な不適応をも笑いの対象にする
(機転、知性一般、富にいたるまで)
近時における笑いの進化の次の段階は嘲笑の発展である。
もともとは、打ち負かされた戦士の目の周りのクロ痣や
へし折られた腕を見て笑ったのだが、
後になると戦にかかわりのない状況にあっても
怪我の跡や、さらには身体的異形さえ、いつでも笑うようになった。
なぜなら、それらは、当該の人物が戦に破れたこと、
また、おそらく、身体的な異形が
戦に破れるこであろうことを意味するものだったからである。
こうして我々は、自分をこうげきした人ではなく、
何らかの不運に見舞われた人、
何らかの身体的異形をもつ人をみて笑うようになった。
弱さ、身体的異形、失敗は、
「かつて勝利の笑いを引き起こした敗北せる敵方の打ちひしがれた姿を
近時において代理するもの」
であるとラップはいう。
今現在、我々は、礼儀正しい交わりの中で
誰かの不運や身体的なハンディを笑うのは
許されていないが、
それでも我々はウィットに富んだ当意即妙の応答、
特に気の利いた文句による攻撃を楽しむ。
この種の笑いに対する、
我々の嗜好の最悪の表現は、
過去10年間多くのテレビ番組を占拠してきた
「ホームコメディ」やギャグ漫画。
その多くは筋らしい筋をもたず、
家族のメンバーあるいは友人仲間といった集団のあけすけで
愚にもつかない侮辱のやり取りをその内容としていた。
そして、これが、僕達の飯のタネである。
人間の40〜50%が、この性癖を抱えている。
「他人より強くありたい。弱い自分を否定したい。
自分自身にきわめてわずかしか能力のないことを
悟っているから、彼らは他人の欠陥をみることによって、
自らを快しとせざるを得ない」
我々のようなエンターテイナーの本質は
こういう人間の抱える闇といっていい部分を
擬似的に満足させてやる事にある。
極端な話、我々の仕事はガス抜きなんである。
というわけで
自分の仕事が、どういう人間心理に根ざしているかを
考えていくとこうなるわけです。
事実を並べると
批判される事も多いですが、反論する気にもなれない。
だって、実際に酷いんだもの。