Microsoft is Dead 日本語訳
きっかけは、こっちのポール・グラハムのエントリ読んだからで、「Microsoft is Dead」ってタイトルと共に、「IBM is Dead」って時期や、まぁ、そのうちに来るだろう「Google is Dead」って未来にも想いを馳せてみようという話。
まぁ、気が早い話かもしれないけど、IT業界はドッグイヤーな業界だしね。意外と、「Google is Dead」って時代は早くくるかもしんないけどさ。
ぼちぼち書いてたけど、随分かかったなー。
とりあえず、以下にロードマップ。かなり長いっす。
コンピューター真空管時代
この時代は、まだ完全に電子化されたコンピューターというのがまだ存在していなかった時代。IT業界前史くらいに位置付けるのがいいかもしんない。トランジスタが生まれて、集積回路が生み出され、ソフトを入れ替えれば、何でもできるような汎用コンピューターが存在せず、専門のことしかできないような専門のコンピューターしかなかったような時代ともいえる。
1904 フレミングが二極真空管を発明。
1906 リード・フォレストが三極真空管を発明。
1914 トーマス・J・ワトソン・シニア、IBMを設立。(ただし、これはIBMが創立の年としているもので、社名がIBMになったのは1924年のこと。それ以前はザ・コンピューター・タビュレーティング・レコーディング・カンパニー 、略してCTRと呼ばれていた)
ちなみに、タビュレーティングマシンとはハーマン・ホレリスの発明による機械。このマシンのおかげで、数千数万のデータから統計情報を迅速に集計する事が可能になった。
要は、自動分類装置なのだが、これが後の情報処理産業とIBMの基盤になっていく。
なお、IBMの創立者であるワトソン・シニアはセールスマンで機械の扱いは苦手だった。創立者であるワトソン・シニアがセールスマンであったため、二代目CEOとなったワトソン・ジュニア以降のCEOは、ルイス・ガ―スナ―がCEOに就任するまで全てセールス畑の出資者となっている。
IBM創立後、IBMは、分類機やタビュレーター(作表機)を売りつづけてきた。タビュレーターは、要するにエクセルのご先祖様である。
それが変化したのは、第二次大戦前後。米軍は、その巨大組織を運営するために、巨大な計算機械を必要としており、真空管を使った電子機械の使用に踏み切り始めていた。
1946 世界最初のコンピュータと言われる(異論もある)ENIACがペンシルバニア大学で公開される。17468本の真空管、総重量30トン、100万ドルのコンピューターだった。現在は、1キロ、1000ドルがノートPCの相場である。
1948 AT&Tベル研究所でトランジスタが発明される。(これが後のトランジスタ時代へ)
1951 世界初の商用コンピュータUNIVAC Iがレミントンランド社によって発売される。最終的に全世界で47台という驚異的な売り上げ!を記録する。初期のコンピューターなんてこんなものだったのである。はっきりしって計算機としてちゃソロバンのほうがはるかに役にたった。
50年代、米IBM社のために最初のコンピューターを設計したハワード・エイケン、「商業市場で売れるコンピューターは6台だけだろう」と発言。ちなみに2007年度におけるPC予想出荷台数は2億台。
ちなみに、50年代のコンピューターの代名詞は「ユニバック」だった。
1956 ワトソン・ジュニア、IBMのCEOに。彼は、ユニバックの発売を受けて、社内の反対に合いながらも(「商業市場で売れるコンピューターは6台だけだろう」発言など)、60年代に入り、「50億ドルのギャンブル」と呼ばれる戦略を打ち出す。ちなみに当時の50億ドルは現在の2000億ドルに相当する。まさにギャンブルであった。
これは「360」と呼ばれるプロジェクトであり、このプロジェクトがコンピューターに新時代をもたらした。
それ以前は、真空管がコンピューターの中心に使われていた。真空管は、壊れやすく、また場所をとった。これのせいでコンピューターはとてつもなく巨大なものとなってしまっていた。が、これを当時利用になったばかりのトランジスタを使った集積回路に置き換えることを決断したのである。
当時はまだ、真空管と比べてトランジスタの歩どまりや、信頼性が低く、社内ではトランジスタをコンピューターに使用するにあたって、懐疑的な見方も多かったが、ワトソン・ジュニアはそれを押し切ったと言われる。
もうひとつには、当時のコンピュータ各種には、同一メーカーのそれであっても、設計仕様が異なり、それぞれで専用のOSとアプリケーションを使っていたので、ある機種から他の機種にソフトを移植することが非常に困難だった。というか、ほぼ不可能だった上、命令セットが異なっていた。
360は、この二つを解決するプロジェクトだった。ここにおいて、初めて、コンピュータ・アーキテクチャと実装が明確に区別されたのである。
ちなみに、このOS/360メインフレーム用のオペレーティングシステム開発マネジャーを経験し、その経験を元に 「人月の神話」を著したのがフレデリック・P,Jr. ブルックス である。360の出現とともに、プログラマーと呼ばれる職種が生まれる下地が整ったといえる。
1957 IBMのジョン・バッカス、プログラミング言語FORTRANを公開。これによって、機械語を知らなくてもプログラミングが可能になる。(世界初のプログラミング言語はこれ?かな)
1959 ジョン・マッカシー、プログラミング言語LISPを公開。初期は人口知能の開発に使用される言語であった。特徴としては、非常にプログラミングの作成速度が早い言語であった。が、ポール・グラハムによると、「文法がおっかない」そうな。ただ、プログラムは早く書けるそうで、ポール・グラハムによれば「本当に真剣なハッカーはLispを学ぶことを熟慮すべきだ」。
同年、グレース・ホッパー、COBOLを公開。彼女は、バグという言葉を使った最初の人間でもあったようだ。事務処理用の共通言語として名を馳せることになる。ただし、現在、生産性もかなり低い言語・・・らしい。
1961 後のインテル創設者の一人、ロバート・ノイスが集積回路に関する特許を取得。
1964 IBMシステム/360リリースされる。ここに至り、真空管時代は終わりを告げ、トランジスタ時代が幕を開ける。
同年、ジョン・ケミーとトーマス・カルツ、プログラミング言語BASICを開発。初学者向けのプログミング言語として。脚光を浴びるのは、マイコンなどが世に出た1980年以降になる。
1965 後のUNIX OSに繋がることになるOS開発プロジェクト、「MULTICSプロジェクト」が始まる。
トランジスタ/メインフレーム時代
IBMシステム/360の出現とともに、コンピューター業界は様変わりした。これによって、ソフトを入れ替えさえすれば、多様な業務に対応できるという汎用大型コンピューター、つまりメインフレームビジネスが華を咲かせることになるのである。1950年代、「商業市場で売れるコンピューターは6台だけだろう」といわれていた市場は1970年代まで急成長を遂げ、IBMは、世界最大のコンピューター企業へとのし上っていく。IBMは、メインフレーム市場の7割を独占し、残りを7社が分け合う形となっていた。IBMの絶頂時代であり、「IBMと七人の小人達」と呼ばれる時代である。
コンピューター業界の「The Winner Takes All」の世界の始まりとも言えた。
1967 オブジェクト指向型言語としては初の言語、Simulaが開発される。
同年、エドガー・ダイクストラによって、「構造化プログラミング」が提唱される。大規模化したプログラムを効率よく記述するための方法が模索された時期でもあった。このあたりの時期から、IT産業ではソフトウェアプログラミングの重要性が増し始めたと思われる。
同年 ケン・トンプソンとデニス・リッチ―によってミニコンピューターPDP-7に UNIX が実装される。
1968 アンドルー・グローヴ、ゴードン・ムーア、ロバート・ノイスらがインテルを設立する。ただし、設立当初は半導体メモリの会社だった。
同年、プログラミング言語ALGOL68が公開される。
FORTRAN等の言語が米国で作られていたのに対抗して、ヨーロッパの研究者が、世界共通のプログラミング言語として開発した。
ALGOL - Wikipedia
1970 プログラミング言語Pascalが、ニクラウス。ヴィルトによって開発される。後にMacintoshのOSの記述に使われることになる。
1971 インテル、世界で最初のシングルチップの商用マイクロプロセッサ「Intel 4004」を発表。
日本のビジコン社が電卓用演算装置として、インテルに要請し、それからテッド・ホフ 、フェデリコ・ファジン、嶋正利などによって発明された。しかし、当時はまだ、用途がほとんどなく、ここに開発資源が集中されることはなかった。当初は電卓用演算装置として設計されたものだったが、そのチップが汎用性をもっていたことから、インテルがチップの販売権を買い取った。(ここで、このチップの汎用性にビジコンが気づいていればなぁ・・・・)
同年、アラン・ケイらによってオブジェクト指向言語Smalltalkが公開。肥大化しつつあったソフトウェア開発を軽減するための方法論としてオブジェクト指向のプログラミングの模索が始まる。
1972 デニス・リッチイ、C言語を開発。Unixの基本ソフトを作るために作られた言語。当時、肥大化したソフトウェアプログラミングが問題になってきていた時期で、プログラマの負担を減らすため、それを軽減可能な手続き型言語として開発された。
1973 IBM、テレックス社が起こした訴訟に敗れ、3億5000万ドルを失う。独占禁止法の問題とのつきあいは、以後のIBMに暗い影響を落とす。
同年、ゼロックスのパロアルト研究所でワークステーションAltoが制作される。GUI、オブジェクト指向のプログラミングなど、後のPCの方向性が打ち出される。スティーブ・ジョブスは、この機体に影響を強く受け、Lisaとmacintoshを開発することになる。
1973年 UNIXのカーネル部分(OSの中枢部分)がC言語で記述される。(それ以前のOSはアセンブリ言語で書かれるのが一般的)これによって、カーネル部分の可読性、移植性が高まった。
これは、UNIX発展の元にもなったが、同時に、UNIX戦争と呼ばれる戦争にも発展した。
**1970年代に入ると、IBMの研究陣は、パーソナルコンピューターの登場を予見する。チップの微細化が進む以上は、それは避け難いことであると考えていた。しかし、世界最初の個人向けコンピューターが発売されたのは、世界で最もコンピューターに通じたIBMからでなかった。
1974 Altair 8800が発売される。CPUはIntelの8080(2MHz)、メモリは256バイト。これが一般消費者向けに販売された世界初の個人向けコンピュータとされる。若きビル・ゲイツやポール・アレンを熱狂させたコンピューター。ここからPC産業へと続く道程が始まる。ちなみに、Intelの8080のロジックは嶋正利さんが担当している。
1975 スティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアック、Apple Iを完成させる。
同年、ビル・ゲイツとポール・アレン、BASICをAltair 8800で走らせることに成功。
ジョブズは自分達で売る事を考えていたが、ウォズはヒューレット・パッカードの社員であるが故に「開発した製品を見せなければならない」と上司にこの機械を見せたのだが、「個人でコンピュータを持つ必要が有ると思うのか?」と、半ば小馬鹿にした返事であっさり断られた。結果、ジョブズの思惑通りとなり、自分達で売り出す事を決意する。
アップルコンピュータ - Wikipediaより
メインフレームの時もそうだったが、頭の固い人は、どこの世界にもいるもんである。まぁ、しかたない。当初は売れ行きはよくなかった。しかし、後に好転する。
1975 ビル・ゲイツとポール・アレン、マイクロソフトを設立。当初は、Altair上で動くBASICインタープリタの開発・販売をする会社であった。
1977 二人のスティーブ、アップルコンピューターを設立。Apple IIを発表。世界初の大量生産・大量販売されたパーソナルコンピューターとなる。
1978 デニス・リッチ―、C言語を公開。
**時期は明確でないが、IBMにおいて、1970年代後半にRISCと呼ばれることになるマイクロプロセッサのアーキテクチャが生み出されている。
1980 アップルはIPO(株式公開)を果たす。ジョブス、20代にして億万長者になる。
同年、IBMは、こうして生まれたパソコン市場参入のため、マイクロソフトと接触。IBMとマイクロソフトの間で契約が取り交わされる。後に、この契約が自分自身を破滅させることになる。マイクロソフトは、この時からOS開発の企業としての道を歩みはじめる。
パソコンの時代
1980年代、IBMは引き続き絶頂にあり、コンピューターの世界を支配していたものの、そこにそれまでとは違うライバルが現れはじめた時代でもあった。
大型、強力で、高く法人向けであるメインフレームでなく、小型で非力で安く利幅のさほどない個人向けのパーソナルコンピューター市場が突如として現れたのである。
1981 コンパックが設立される。
1981 IBM,ドン・エストリッジの指揮の元で、IBM Personal Computer model 5150を発売。
性能としては凡庸であったものの、360ファミリーと同じく、拡張性を重視し、オープン戦略を取る。
結果、IBM-PC/ATは、パソコンのスタンダートとなり、IBMパソコンに接続できる周辺機器メーカーやソフトウェアメーカーの参入を促した。 しかし、オープン戦略は、他のメーカーのクローン製品の台頭を許し、以降、IBMはクローン製品に頭を悩ませることにもなった。
しかし、当初はIBMブランドとの相乗効果で、「PCといえばIBM PC」となり、1982年には、PCが全社の売上の25%を占めるまでになる。がOSは、マイクロソフトのDOSであった。これが後の最も大きな禍根となるのだが。
1982 サンマイクロシステムズが、創立される。ワークステーション分野で大きな成功をおさめる。ビル・ジョイが開発したUNIXオペレーションシステム「SunOS」やCPUにRISCアーキテクチャを使用し、その後、数年で大企業に成長する。
これ以降、ワークステーションやPCは、ライフサイクルが一年半という短期間でモデルチェンジが繰り返される事になる。(それ以前のメインフレームのライフサイクルは7年)
1983 ビャーネ・ストロヴストルップ、C言語の拡張としてプログラミング言語「C++」を開発。
1984 アップル、GUI搭載のMacintoshを発表。GUIデスクトップ市場が萌芽しはじめる。しかし、クリスマスシーズンに需要予測を誤り、過剰在庫に悩まされ赤字を計上。結果、ジョブスとジョン・スカリーの間に対立が起こる。
1985 ジョブス、取締役会によって会長職以外の業務から外される。ジョブスはアップルの株を一株だけ残し、残りを全て売却。NeXT社を創立する。
**時期は定かではないが、1984〜1985年の期間にMS-DOSの後継となるOSとして、OS/2の開発がIBMとマイクロソフトの間で始まる。
1985 Intel、80386プロセッサをリリース。
Microsoft、初のGUIを備えたOS、Windows 1.0(使えないOS第一弾)をリリース。
1986 Perlがラリー・ウォールによって開発される。モットーは「あることをするのにいくつものやり方がある」。自由に書ける言語である反面、他の人には読みにくい言語。
1987 Microsoft、Windows 2.0(別名使えないOS第二段)をリリース。この時期あたりから、ソフト専門会社が重要になり始める。
1987 OS/2 1.0がリリース。IBMとマイクロソフトの共同開発。さらに使えないOSであった。しかもGUI非搭載。ちなみに、この時期はまだ、マイクロソフトの優秀なプログラマーはOS/2の開発を行なっていたらしい。(バルマーは、1度、「マイクロソフトはウィンドウズを諦めるべきではないか」と語っている。真意は不明)
この時期と前後として、IBMとマイクロソフトの間がぎくしゃくし始める。IBMはNeXTと取引し、UNIXと関係を結びさえした。それがゲイツの怒りを買った。
ちなみにだが、この時期、プログラミングにおいて、IBMとマイクロソフトは対立している。IBMのPC部門を統括していたキャナビーノとビル・ゲイツのこんなやりとりがある。
IBM側がOS/2の開発に人員を1000人投入したのに対し、マイクロソフトは200人だった。そして、キャナビーノは、IBM側がソースコードをマイクロソフト側よりもずっと沢山書いてあると主張した。
実際問題として、マイクロソフト側は、IBM側が書いたソースコードを短く書き直してすらいた。
ソースコードは多ければいいもんじゃないというのがゲイツの信条だった。ここは今のプログラミングと同じだった。
最終的に、この問題は、両者が再調査を行い、書かれたコードがどちらの会社によるものかを教えない状態で、評価させた所、マイクロソフトに軍配があがることになった。
IBMのソフトウェア開発とは、その程度のものだった。
いや、それとも、この時期のマイクロソフトは、とても優秀だったといえるのかもしれない。どういうことなのかはよくわからない。
1987年は、他にも多くのことが起こった年でもある。最大の問題は、IBMはPC/ATの後継機種として開発していたPS/2とインテルの80386チップだった。この強力なチップは、近代的なオペレーティングシステムの開発・移植が容易にするパワーをもつチップだった。
コンパックは、いち早くこのチップの採用を決めたが、IBMは、このチップの採用に関して、あまりに遅きに逸した。インテルからIBMは、自社内で80386チップを製造する権利を与えられていたにも関わらず、それが出来なかったのである。そして出来たころには全てが遅すぎた。
コンパックによる互換機は、80386チップの採用によって、IBM PCよりもはるかによい性能をもつことできた。ここに至り、顧客はメインフレームやワークステーションでなく、PCで大半の業務ができることに気づき始める。
おそらく、ここが分水嶺だった。コンパック、インテル、そしてマイクロソフト陣営とIBM陣営の間には大きな溝がうまれた。最終的に勝利したのは前者であった。IBMの最強神話が終わり、そして敵としては大したことがないということをPC陣営は悟りつつあったのかもしれない。この時期あたりに。
今現在、マイクロソフトをスタートアップ企業が敵としてあまり意識していないように。
1988 俗にいう「9人のギャングの反乱」。IBMはPCをメインフレームの世界のような形で囲い込もうとし、マイクロバスという技術に焦点を当てつつあった。それに対してコンパックを始めとする大手互換機メーカーは、結束し、IBMから業界主導権を奪うという目論見をマンハッタンのホテルで発表。
88年末には、反逆者による勝利が明らかになっていった。ユーザーは、マイクロバスを使ったIBMマシンでなく、安価なATタイプのバスを積んだコンパックや他社のマシンを選んだ。
IBMによるクローン退治戦略は、ここに至り、完全に失敗した。PC
分野におけるIBMの主導権は、この時期までにほぼ失われた。
しかしながら、まだ、この時期、ビル・ゲイツは、IBMとの関係の悪化には頭を悩ませていた。
1989 IBMとマイクロソフト側で話し合いがもたれる。未来のOSは、OS/2になるのか、それともwindowsになるのか。最終的に、その席に居合わせたソフトウェア会社の経営者は、「ゲームが終ったとわかたのはその時だった」と述べている。(ポール・キャロル著 「ビッグ・ブルース」より)
ビル・ゲイツとWindowsが勝利した。IBMはOS/2を推奨しており、それにビル・ゲイツとマイクロソフトを従わせることができると考えていたが、ビル・ゲイツとマイクロソフトは、Windowsの開発を決してやめる意志はないことがはっきりしたのである。
そして、そのまま行けば、開発が遅れていたOS/2よりもwindowsが早く普及し、マイクロソフトのアプリケーションソフトが市場を席巻することは目に見ていたようだ。
そして、誰もOS/2のアプリケーションを作っていないということが明らかになっていた。デスクトップではマイクロソフトが完全に主導権を握っていた。
IBMとマイクロソフトの間は、冷え込みきった。ただし、まだビル・ゲイツは、IBMとの関係をなんとか改善しようと試みていた。いまだに、IBMは巨人であり、それとの協力関係を維持したかったようだった。
この前後の時期は、ようするに、今のMSをスタートアップ企業が見るような目でIBMが見られていた時期だと思われる。
要するに、IBMは、メインフレームでは最強かもしれないが、これから来るであろうPCの時代では、大した敵ではない、という感じで。最強神話が崩れ行く時代だった。
1990 ウィンドウズ3.0リリースさる。ようやく使えるOSになる。PCでのGUIと、マルチタスクが標準に。これが大ヒット。デスクトップにおけるマイクロソフトの勝利が、ほぼ確定された。
1991 ティム・バーナーズ・リー、、World Wide Webプロジェクトを発表。ウェブの基礎となるHTTP、URI、HTMLが生み出される
同年、Guido van Rossumがオブジェクト指向のプログラミング言語Pythonをリリース。「シンプル」で「習得が容易」という目標に重点がおかれたスクリプト言語。
同年、リーナス・トーパルズがLinux OSの開発を開始。この開発方式が極めて特徴的で「バザール方式」と呼ばれることになる。
1992 IBM、50億ドルの赤字を記録する。メインフレームは売れなくなり始め、顧客はPCを使うようになっていた。一方、マイクロソフトとインテルはあわせて20億ドルの収益を記録。しかも、株価は右上がりの状況だった。メインフレームの時代は終わり、PCの時代、ウィンテルの時代がはじまったのである。
1993 まつもとゆきひろによって、オブジェクト指向スクリプト言語として、「Ruby」が生み出される。モットーは「Enjoy programming」。
ウィンテルの時代
マイクロソフトとインテルは、IBMをIT業界の盟主の座から引きずり下ろしてしまった。以後、マイクロソフトは、主要な分野において、OSであるWindowsによる支配を進めていく。主要なアプリケーションソフトをも統合し、巨大な企業へと変貌を遂げていった。
であるが、同時に、この時代に生み出されたWorld Wide Webは、マイクロソフトに対して反旗を翻す企業の勃興を助けることにもなり、そういった企業群が生まれたのも、この時期だろう。
1994 ネットスケープがジム・クラークとマーク・アンド―センらによって設立される。Webブラウザ「Netscape Navigator」を制限つきで無償配布。以降、PCを使ったWorld Wide Webの利用が爆発的に増加していく。
同年、マイクロソフト、Windows NT 3.1をリリース。ハイエンドのクライアントサーバ分野に進出する。UNIX戦争で傷ついたベンダーやクライアントサーバーOS市場でシェアをもっていたノベルは、シェアをNTに持っていかれる羽目にもなった。
これによって、クライアントサーバ分野でもwindowsは成功をおさめることになる。
1995 Windows95リリースさる。ほとんどの作業がGUI環境上で可能になり、この年をもって、PCが大衆に使われるようになった年となる。そして、名実共に、ITの世界はマイクロソフトの支配下になった。
また、Internet Explorerを配布しはじめる。第一次ブラウザ戦争がはじまる。
と同時に、それまでPCなど使いもしなかった個人によるインターネットの利用が加速しはじめる。
この時期、マイクロソフトによる独占が問題となりはじめる。独禁法違反事件を始め、司法省とマイクロソフトとの対立が始まる。
同年、ヤフーがデビッド・ファイロとジェリー・ヤンによって設立される。
同年、マイクロソフト幹部Ben Slivka、「The Web is the Next Platform(ウェブが次世代プラットフォームになる)」というメモを残す。
また、この年、SunWorld Expoで、プログラミング言語「JAVA」が公開される。オブジェクト指向型言語であり、2007年現在、もっともよく使用されている言語でもある。
同年 命令型/オブジェクト指向プログラミング言語、PHPがラスマス・ラードフによって開発される。現在、動的なウェブページを実現することを主な目的としたプログラミング言語となっている。
1996 マイクロソフト、IE3.0を配布。ようやく使えるブラウザになる。
同年、マイクロソフト、Windows NT 4.0をリリース。クライアントサーバ市場での地位を確固たるものにする。
同年、インタプリタ方式のスクリプト言語JavaScriptがリリースされる。
1998 windows98リリース。同時にIEはWindowsに標準で搭載されることになる。圧倒的なシェアをもつWindowsにIEが標準搭載されたことにより、ブラウザ戦争はマイクロソフトの勝利に終る。おそらく、この時期がマイクロソフトの絶頂期である。
ブラウザ、デスクトップ、そしてクライアントサーバで、覇権を握り、名実ともにIT業界の盟主となった。
しかし、この年はラリー・ペイジとセルゲイ・ブリンによるグーグルが設立された年でもあった。絶頂の時期と同じくして、マイクロソフトの悪夢が生まれたわけである。
同年、「伽藍とバザール」の著者、エリック・レイモンド、「オープンソース」を提唱。マイクロソフトの悪夢が始まる。
インターネット時代
急速に拡大するWorld Wide Webは、業種を超えて、様々な産業に影響を与えはじめ、それまでにないサービスやプロダクトを生み出し始めた。マイクロソフトの利益の源泉であるWindowsを脅かす存在だと明確に意識されはじめ、マイクロソフトが主導権を失った時期でもあるだろう。
常時接続ブロードバンドはP2Pのようなソフトが存在できる余地を生み出し、skypeのようなサービスは電話に対して破壊的な意味をもつものと見られるようになる。
また、増大する回線速度は、動画サイトを生み出し、既存のメディアを脅かしている。ブログやSNS,Wikiの隆盛は、既存のペーパーメディアとの間で軋轢を生み始めた。
IT、メディア、広告といった情報をデジタル化可能な全ての領域において変化の兆しが現れ始めた時代でもある。
1999 P2Pを使用したファイ交換ソフト、Napster登場。
2000 windows2000リリースされる。
同年、アップルに復帰していたスティーブ・ジョブスがアップルCEOに返り咲く。
同年、グーグル、google adwordsをリリース。グーグルの急成長がはじまる。
同年、オブジェクト指向プログラミング言語C#がマイクロソフトによって開発される。
2001 アップル、ipodを発表。itunes、リリースされる。当初は、静かな船出だった。ぶっちゃけ、一部のコアなappleファン以外は買わなかった。
同年、Microsoft、 Windows XPをリリース。
2002 第2世代ipodがリリースされる。これ以降、ipodはwindowsに対応。
2003 iTunes Storeと第三世代ipodリリースさる。第4四半期の出荷台数,前年同期比235%増の73万3000台。ipodの爆発が始まる。合法音楽ダウンロード販売サービス市場が生まれるきっかけとなる。
(第三世代で成功をおさめるというのは、マイクロソフトみたいなジンクスだが)
同年、グーグル、google adsenseをリリース。グーグルの収益柱の一本となる。
PSPサービス、BitTorrentがアメリカで公開される。一方、日本ではWinnyが公開される。
同年、P2Pを利用した無料電話サービスSkype、リリースされる。2003年は、ブロードバンドの進展に伴い、P2Pサービスが次々とリリースされた月でもあった。
2004 グーグルIPO。Google Earth公開。(個人的には、Google Earthを使ったとき、グーグルって何てとんでもない会社なんだと思った。あんな凄いのをただでばらまくなんて・・・・と。)
2005 グーグル、Gmailリリース。ポール・グラハムによれば、これでグーグルは一線を超えたそうな。
2006 グーグル、動画サイト「youtube」を16億5000万ドルで買収。
2007 マイクロソフト、Windows Vistaをリリース。
2007以降の主要なイベント↓
appleによるiphoneリリース。
ビル・ゲイツの引退。
くらいか、わかっているのは。主要なイベントだけ抜き出そうと思ったけど、意外と絡み合っていて難しかった。書き残しとか書き間違いもあるかもなんて、随時書き直しをするかもしれません。どうぞご了承ください。まぁ、メモ的なものなんで。
歴史面でいうと、とにかく1980年以降が、恐ろしく色んな出来事が起こっていると思う。ワークステーションやPCの発達によって、IBMとメインフレームが衰退してから、色んなことが起きすぎ。
まとめると・・・
IBMは、最初のほうにあるとおり、世界最初の商用コンピューターであるユニバックを擁するレミントンランドとの激戦を経て、「50億ドルのギャンブル」に勝って「IBMシステム/360」をリリース。
おそらく、これが最初のコンピューター戦争で、IBMの覇権が確立したのは、1964年だといえるだろう。
そして、IBMシステム/360によって、ソフトを入れ替えさえすれば、多様な業務に対応できるというコンピューターの基本が出来上がった時代だった。
それと前後して、FORTON、COBOL、LISPが生まれて、コンピュータープログラマーやソフトウェア工学が生まれていくことになったわけだ。
FORTRAN,COBOL,LISPが生み出され、こういった初期プログラミング言語によるプログラミングが広がる時期である。
これを支えたのは、IBMのコンピュータービジネスが華開いたおかげだったんだーと思う。IBM、ビッグブルーの全盛期は1964年に始まり、大体1980年代まで続いた。
上記で書いたように、初期のコンピューターは使い物にならなかったし、市場もないと思われていたけど、IBMは、ニーズの先取りと50億のギャンブルに勝った。
で、それに変化の兆しが現れたのが1970年代。
ハード面では、インテルでマイクロプロセッサが開発されたことや、RISCのようなアーキテクチャが生まれて、やがてはワークステーションやPCのような小さくても強力な計算機を作ることが可能になるブレイクスルーが生まれてからだった。
当時は、家庭にコンピューターなんてあってもしょうがないと思われていたけど、一部のギーグ、二人のスティーブや、ポール・アレン、ビル・ゲイツらが、PCに魅せられて起業した時期だ。
ソフトウェア面では、プログラミングの肥大化が問題になってきていた時期で、構造化プログラミングやオブジェクト指向のプログラミングが生み出された時期でもある。
1980年代は、IBM受難の年代と言える。IBMは、それ以前の敵、つまりレミントンランドであったり、GEであったり、日本のメーカーであったりするようなメインフレームを作っていた企業でなく、ワークステーションを作る会社や、PCを作る企業群との闘いに身を投じなくてはならなくなった時期。
彼らは、物凄く早い企業だった。PCやワークステーションは、製品ライフサイクルがとても早かったので、意思決定や製品化スピードが速かったんである。
新しい敵と対峙したIBMは、今までは全く違うルールで敵と戦わざるをえなくなった。最終的に、IBMは、PC分野でもワークステーションの分野でも、決定的な勝利をおさめることはできなかった。
最終的な勝利は、Windowsとビル・ゲイツがおさめることになった。
この時期、プログラミング分野では、メインフレームからPCへとプログラミングの中心が移るにつれて、言語そのものも移り変わっていったようにも見える。
C言語、Perl,C++といった言語が生み出され、それが新たなるPCの世界での主要言語として根付いていく。
IBMがいつ死んだのかは、色々な分類ができると思うけど、個人的には、インテルの80386チップの採用を見送ったことが決定的だったと思う。
このチップの採用を見送った結果、マイクロソフトとの確執、コンパックとインテルの勃興を助けることになってしまったのだから。
そして1990年代。
IBMとメインフレームは凋落した。ウィンテルの時代がはじまった。マイクロソフトは、1990年代半ばまでに、デスクトップ、クライアントサーバー、そしてWebブラウザの分野で勝利をおさめ、名実共にIT業界の覇者となった。もはや、IBMは過去の存在となった。
一方で、World Wide Webの発達は、ハードとソフトの両方に決定的な影響を与えつつあった。
マイクロソフトの内部では、それに関して議論がおこったが、最終的にマイクロソフトが選んだのは、OSを強化していく方向だった。
これが、多分、マイクロソフトが犯したケチの始まりだったと思われる。IBMが80386チップの採用を見送ったのと同様に、全てのケチのつき始めだと思う。取り返しのつかない戦略上のミスだったのかもしれない。
2000年代に入ると、そうしたミスの権化がいくつも頭角をあらわし始めた。1990年代からすでに始まっていたのだけれど、急速に拡大するweb、オープンソース、回線速度の増加、サーバー価格の下落、そして急成長するグーグルやネットサービス企業によって、「Web is the next platform」という概念が、現実味を帯び始めた。
デスクトップ市場においては、アプリケーションはwebとブラウザを通して実行されるようになる下地が整いはじめた。そうなると、デスクトップアプリケーションの価値が低下する。それはwindowsの価値低下に繋がる。
またオープンソースとlinuxの登場によって、クライアントサーバの市場でも明確な変化が起きてはじめ、ソフトウェアプログラミングにも変化が起きているように。
明らかに、ソフトウェアプログラミングのおいては、1991年にティム・バーナーズ・リーがWorld Wide Webプロジェクトを発表し、ウェブの基礎となるHTTP、URI、HTMLが生み出されてから変化の兆しが現れている。
1991年Python、1993年Ruby、1995年Java,PHP、1996年JavaScript、2000年C#と。
プログラミング分野では、
メインフレーム時代(1964〜1992?)
FORTRAN,COBOL,LISP
PC/ワークステーション時代(1978〜1998?)
C言語、Perl,C++
インターネット時代(1991〜?)
Python、Ruby、Java,PHP、JavaScript、C#
といった形で。もっとも、どの言語にも一長一短があって、古い世代の言語が新しい時代になるとすぐ死に絶えるというものでもないらしい。
最近の言語は、とにかく習得が容易になっているのかなとも思う。Pythonは、もともと初学者に優しいことに主眼をおいた言語だし、Rubyもシンプルで習得が容易なようだ。JavaScriptもそうだけど。
ハード面では、グリッドコンピューティングのようなシステム、そしてソフト面ではオープンソース、バザール方式のような開発手法。
ブログ、SNS、動画サイトの隆盛による既存メディアとの対立。
このあたりが、現在進行中の出来事だと思うけども。
これから、どうなるかは別の問題なんだけど、インターネット時代の特徴は、ITが、一つの業界の枠を越えて、メディア/広告産業との競合の時代になったのが一つの特徴と言えるのかもしれない。
今のところ、巨人になったグーグルを脅かす存在は見えていない。あとから振り返れば、IBMを脅かすことになるMSはIBM絶頂期の1975年に生まれ、MSを脅かすことになるグーグルは、MSの絶頂期である1998年あたりに生まれていたのだけれど、グーグルが絶頂期になると思われる2010〜15年あたりに、グーグルを脅かすことになる企業が産声をあげることになるのかもしれないとも思う。
1987年のIBMとMicrosoftの対立の話は知りませんでした。
IBM側が書いたソースコードを短く書き直すってところが偉いですね。
日本製のOS世界中にほぼ99.99%の普及率
(これでは普及率の意味無いけれど)の無料
TRONの位置が見えません、ほぼ全ての機械に
使われているので、逆に見えてないとも言えますが。
それとの関係も、決して無縁ではありません
それからLINUXについても、一切ないのではねえ
コンピューターを語るなら、固定観念は一切
捨ててかかるべし。
出来た割に、自分も知らないことばっかです。
別にそれで、枝は的な問題でケチつける意志は
ございません。
MSとの対立と言う点では、CP/Mも抜きには
出来ない話です。
自分は、FORTRANプログラムも経験してますし
友人は、ここにでているOSほぼ全て経験してます
当然です、プロのプログラマーだから。
自分は、分野が違うのでたまたま知識として
知っているだけの事。
世の中上には上があるのもこれまた事実。