自分の分野のお話。
二項対立という概念が、文学ではあります。
わかりやすく、どういう概念か、という事を述べると
二つの事柄を対立させて提示する、というモノです。
二項対立で一番、わかりやすいのは
善と悪という二つの概念の対立です。
多くの文学で、この単純な対立が提示されて
ストーリーが展開されますし、マスメディアも
善と悪の単純な提示を好みます。
何故、このようなスタイルが使われるのか、というと
二項対立という概念は、ほぼ、全ての人間が
もっている価値把握概念の一つだから、なんです。
全ての情報は、なんであれ、読者の中に取り込まれて
初めて意味をもちます。ですから、情報自体というものは
読者の中に存在する認識機能に依存するわけです。
そのため、ほぼ、全ての読者がもっている認識機能に
そった形での情報構造が、最も好まれるのです。
そして、その誰もが持っている認識機能というのが
二項対立という構造なんです。
isologueさんがこの記事で扱われてますけど
「テレビって、”3つ”になるともうキツいんですよ。
『ホリエモンvsフジテレビ』というように
2つの対決だと絵としてまだイケるんですが、
北尾さんが出て来た時点でもうアウトですね。(笑)」
ってのが普通なんです。
2つのモノの対立までなら、大抵の人は理解できますが
三つの物事の対立となると、それを処理できる人は
極端に減ってしまう。その為に、マスメディアみたいに
沢山の人に受ける事を目的としてニュースを
流すなら、二つが限界なんです。
二項対立の代表的なものとしては
善⇔悪
若者⇔老人
金持ち⇔貧乏人
秩序⇔混沌
こんなトコでしょうか。マスメディアであれば
この構図を鮮明にした上で、情報を流すのが
基本となります。別に上記にあげた構図でなくても
わかりやすい二つの立場の対立を鮮明にした上で
情報をながせば、それでいいんですが。
ただ、二項対立ってのは限界があります。
そもそも、善悪なんて概念は
「善とは悪の唯一の存在理由である」
なんて言われるように、不可分な存在であり
二つに割り切って考えることなんてのは
突き詰めて考えていけば出来ない存在です。
だから、どうしても情報として限界があり
問題のある認識機能なんです。
だから、色んな矛盾も出てくるんですよ。
ホリエモン騒動にしろ、今回の中国のデモ騒動にしろね。
突き詰めていけば、色んな見方ができて
単純な対立に還元していいものではない。
でも、情報を流す側は、単純な対立に仕立てあげて
読者、視聴者に伝えてるんです。
そうじゃないと売れないから。
中国のデモ報道にしろ、
単純な対立に仕立てあげて、国民を煽ってるわけです。
中国にしろ、日本のメディアにしろね。
最初に取り上げた毎日の試みは素晴らしいものと思いますが
マーケ的には、あんまし賛同できない試みであります。
マスメディアとしてやっていける報道の仕組みとしては
限界がある。あれはニッチ向けの情報の流し方です。
メディアリテラシーってのは、メディアが仕立てあげた
ニ項対立の構図以外の見方をする事が一つです。
単純な対立に仕立てあげたメディアの意図を
見抜く事がリテラシーの一部といえます。
この先、そういう情報の与えられ方が
主流になるか、どうかはわかりませんが、
人類文化には、二項対立的な判断基準が
ほぼ普遍的に存在している所をみると
かなり難しいといわざるをえません。
ゆっくりとやるしかないんでしょう。
いきなり変えれるもんじゃないですから。
こういう人間の基本認識機能は。
僕だって、結局、善悪といった概念にとらわれている部分はありますし。