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2006年09月21日

この道は破滅に至る道@web2.0といつかきた道

ちと、弾さんとこと、最近、ちょっと話題になっている「セガがwiiの8年先を行っていた」なんて件について、本日は言及。


1.0の受難


いや、まぁ、色々あるのだが、弾さんの行っているように、






1.0の受難とは、「既存の常識への最初の挑戦者には罪が与えられ、次の挑戦者は賞が与えられる」ことを意味する。



という話についてなんだけども。セガの例を引き合いに出せば、これはまさにその通りになる。


ソニック・ザ・ヘッジホッグ』の作者が振り返る「ゲームこの10年」――プロペ・中裕司社長(1)



セガ「Wiiのいる場所は我々はすでに8年前に通過している」



なんて話もでているけど、セガの方針は間違っていなかった。ただ、早すぎた。


同じように速すぎて失敗した例をPC産業で出すなら、最も名高い失敗例(世紀の失敗とも言われる)は、ゼロックスのパロアルト研究所の研究結果だろう。


パロアルト研究所が1970年代に行なった研究は、PC産業上、もっとも偉大な分岐点ともいえるものだった。

最近、パロアルト研究所の創設者の一人アラン・ケイのインタビューがITproに掲載されたので、そちらも紹介。

第一回●ITの将来の展望・本当の革命はまだ起こっていない

第2回:PARCがイノベーションを実現した理由



パロアルトが、コンピューター産業で最も画期的だったのは、アルトというコンピュータ史上画期的なコンピュータを開発したことだ。

このあたりの歴史は、こちらのページでまとめられているので、そちらもどうぞ。

 「PC年代記」〜1983年。



アルトからスターと名をかえて出された一連の製品の画期的だった点を列挙していくが、まず、マウスを搭載したGUI(グラフィカルユーザーインタフェース)を備えていたことがある。

現在のPCのような、アイコンをクリックして、アプリケーションを起動させるインターフェース(これをGUIともいう)の場合、マウスというポインティング・デバイスは必要不可欠だった。これが無ければ、GUIは普及しなかっただろうというくらいだ。

マウスなしで、パソコンを使うのはものすごく不便なのは、PCをやっている人ならわかると思う。(このような、一つのインターフェースの改良は、その後のコンピューターの発展に凄い影響を与えてしまうことがある。これと同じ例として、任天堂がファミリーコンピューターで成し遂げた「十字キーインタフェース」があげられる。これについては後で言及する)

ただ、当時は、あまりに画期的すぎて、一部のギーグ以外には理解されなかった。PCを家庭で使うなんて用途は、まだなかったし、インターネットもなかった。


PCを一般の人々に使わせるために、このGUIというシステムが果たした役割は大きい。ただ、当時は、多くの人に理解されず、このスターは失敗に終わった。

(最近のTVとPCの融合的流れでは、このポインティングデバイスをどうするかという点が問題になると思う。ネットのコンテンツは、ほとんどポインティング・デバイスがあることを前提に作られているためだ。そして、はっきりしていることだが、リモコンは、ポインティングデバイスの代用にはならない。)



次に画期的だったのが、オブジェクト指向のプログラミングになる。

これについては、wikipediaにあるので、そちらへのリンクを貼っておく。


Smalltalk


オブジェクト指向プログラミング



僕は、プログラマーではないし、プログラミングの基礎の基礎もわからないが、何故、このようなシステムが作られるに至ったかの経緯に興味があるので、wikiにある「背景」の項目が一番面白かった。

引用させていただくが、



オブジェクト指向プログラミングという考え方が生まれた背景には計算機の性能向上によって従来より大規模なソフトウェアが書かれるようになってきたという ことが挙げられる。大規模なソフトウェアが書かれコードも複雑化してゆくにつれ、ソフトウェア開発コストが上昇し、1960年代には「ソフトウェア危機 (software crisis)」といったようなことも危惧されるようになってきた。



まずは、ここ。当時、計算機の性能向上によって、ソフトウェアのプログラミングが長大化し、コードも複雑になっていったようだ。そして、それによって開発コストが高騰していたという話。



産業というのは、コストが高騰するときに、それへの対応として、コスト削減のための画期的なイノベーションが生まれるのは、時々あることである。


オブジェクト指向のプログラミングも、そういう時代を反映したものだったのだろうと推論する。



この背景を読む限りでは、それに対して、いくつかのアプローチが試みられていたようだ。


エドガー・ダイクストラ らによってまとめあげられた 構造化プログラミング、モジュールと呼ばれる概念を導入して作られたModula-2 など。

こういったトライアンドエラーの後、オブジェクト指向のプログラミングが台頭したようだ。そして、上述のアラン・ケイは、そのオブジェクト指向のプログラミングという言葉生みの親でありSmalltalkというオブジェクト指向のプログラミング言語の開発者だった。


プログラムのことはよくわからないので、専門的なことはわからないのだけれど、やはりオブジェクト指向も、他者の様々なトライアンドエラーの末に生み出されたようだ。


ただ、オブジェクト指向のプログラミングの生みの親、アラン・ケイが生み出したSmalltalkは広く普及しなかったようだ。当時のオブジェクト指向のプログラミングは、C++ で実装されていたようなのだけれど、C++ は、その複雑さが問題とされていたようで、文法面でシンプルで、かつオブジェクト指向のプログラミングの思想を取り入れたJava が生み出されることになったようである。

そして、Javaの登場によって1990年代後半からオブジェクト指向は爆発的普及を遂げることになったそうな。

アラン・ケイや、パロアルト研究所、エドガー・ダイクストラ、そして、C++といったトライアンドエラーの末、つまり、ある意味ではオブジェクト指向のプログラミングの先行者の失敗と教訓の上に作られたのがJavaだったというわけだ。


Java言語



WikipediaのJavaの項目にあるように



Javaは、従来のさまざまな言語の良い部分を引き継ぎ、欠点を克服するよう設計された。



という話になるわけである。


1960年代に始まった、ソフトウェア開発のコスト高騰が、ある意味ではJavaの生みの親とも言えるのかもしれない。



必要は発明の母とは、よくいったものである。



そして、この他にも、インターネットの基幹となるイーサーネット、電子メール、レーザープリンタ、全てパロアルト研究所の発明なのである。


だが、パロアルトとゼロックスは、その全てにおいて、商業面では失敗してしまった。これは、ゼロックスの大失敗であり、今から考えると、これによってゼロックスが失った利益は数十億ドルにも上るだろう。

これらを完全に排除してしまった同社上層部は、ある意味では無能そのものだが、大企業で最初に画期的なイノベーションが生まれて、それが排除され、それを小さな企業が利用して巨利を上げるようになり、その後、大企業化していくのは、よくあることなのである。


そしてゼロックスのアルトとスターの失敗の後、アップルがリサを出した。これはGUIを組み込んでいた製品だったが、失敗に終わった。

次にマッキントッシュで成功したものの、最終的に、GUIで全てを手に入れたのは、ウィンドウズとビル・ゲイツだった。



アラン・ケイやパロアルト研究所の設立者、ロバート・テイラー、スティーブ・ジョブスではなかった。



スティーブ・ジョブズはこう言っている。

「ゼロックスは今日のコンピュータ産業を丸ごと手に入れることができた。会社の規模は、そう、十倍にもなっただろう。IBMになることが――90年代のIBMになることができた。90年代のマイクロソフトになることもできたのだ」。



そう、彼らは、未来を丸ごと手に入れることも出来たはずだった。


だが、歴史が示すと通り、結局は、

「パロアルトがつき、アップルがこねた天下餅、すわりて食うはマイクロソフト」

という形に落ち着くことになった。




最後に、最初に後で述べるといったゲーム機とファミコンの歴史になるのだけれど、ファミコンには前史がある。

当時、14社におよぶ家庭内ゲーム機戦争(第一次コンソールウォーズ)が勃発していた。だが、勝利者が一番 後から出たのが任天堂「ファミリーコンピュータ」 であるのは有名な話だ。


要するに後発だったのだ。任天堂は。しかも、当時は、まだ中小企業だった。

この激しい競争で任天堂が勝ち残った理由は、個人的に単純化してしまうと


ゲーム機の標準デザインとなる十字キーインターフェース、価格の安さ、強力なソフトコンテンツ(これは伝説のゲームクリエイター宮本さんのおかげでもあるだろう)だろう。

任天堂はハードもソフトも自社で出していたが、そこにサードも巻き込んで、ゲームハードのプラットフォームになった。

ハドソンは「ロードランナー」で、ナムコは「ゼビウス」、エニックスは「ドラゴンクエスト」スクエアは「FF」で爆発的ヒットを飛ばし、ソフトメーカーとして大手へとひた走っていく。


そして、このサードの成功が、さらにサードを呼び込み、任天堂にとんでもないロイヤリティ収入をもたらすことになる。「サードの成功なくしてプラットフォームの成功なし」とはよく言ったものである。


当時のファミコンを僕が遊んだときに忘れられないのは、ものすごく簡単にキャラを操作できたことだ。十字キーで動かして、ABボタンで敵を倒すというゲームは、小学生だった僕でも簡単に飲み込めた。ゲームセンターのようなスティックによる操作は、ちょっと僕には難しく(今でもゲームセンターのスティック操作は苦手)、好きではなかったのだが、十字キーによる操作の快適さといったならなかった。

ただ、任天堂によるメーカーへの厳しいライセンス条件は後の問題となった。

ゲーム内容について任天堂の審査を受ける点や、 年間の製作本数が三本までという制限、ROMカセットはすべて任天堂で作りその際にロイヤリティを支払う点。


ゲーム市場が大きくなるにつれて、この部分は、問題になった。

また、ファミコンの後継機であるスーパーファミコンの技術の多くがソニーのものであったことも見逃せない。コア技術のいくつかを外注してしまい、後の競争者を生み出してしまうという歴史は、IBMが育てしまったも同然のMSやインテルと同じでもある。

ただ、ソニーも最初からうまくやれたわけではない。

任天堂は、「スーパーファミコン」開発時、提携相手として「ソニー」を選んだ。

そして、88年、 任天堂はソニーに、次期CD-ROM機開発協力のかわりに、CD互換の一体型を開発販売して良いとする。1990年にはCD-ROM機開発の提携を結ぶ。

ただ、CD-ROMソフトのライセンス権をソニーが持ってしまうということは、任天堂に莫大な報酬をもたらしているライセンス料がソニーに流れることになる。


結果、任天堂は、これを危険と判断し、市場の独占を守るために、この契約を破棄するという決断を行なった。

1992年、両者の交渉が再び行われ、任天堂がCD-ROM互換機に於けるCD-ROMソフトのライセンス権を手中にすることで、交渉がまとまったが、スーパーファミコン用CD-ROM機は、皆さんご承知のように失敗におわったわけである。


ソニーは、この件で大きな損失を受けたが、 最近、ネットでも話題の多良木社長及びソニーゲーム部門は、この屈辱を忘れず、打倒任天堂のためのゲーム機開発を進めることになる。

そして出来上がったのがPSである。

そして、64、サターン、PSによる第二次コンソールウォーズ(第一次コンソールウォーズはファミコン、アタリ、セガで繰り広げられた戦争)が始まる。

ここで、任天堂は、ミスをしてしまう。任天堂による参入メーカーへの厳しいライセンス条件、スーファミから64に乗り換える時期においてソフトウェアの互換性を無視した事などから、サードにそっぽ向かれた上、ドラゴンクエスト、FFといったキラーコンテンツをPSにもっていかれてしまい、ソニーのPS1に家庭用ゲーム機のプラットフォームの座を奪われてしまう。(そしてソフトの質と量がハードを決めるという、プラットフォームとしてのゲーム機という形が明確化する)

ソニーとクタタンは、ついに任天堂に復讐を果たすことになるわけである。PSによって、任天堂の支配から解き放たれたサードとゲーム産業は、PSで大きな発展を遂げる。任天堂は、プラットフォームの地位から滑り落ち、セガは、家庭用ハードから脱落し、MSがその後で参入する。



このように、IT産業では、上記に述べたような後発者、ぽっと出の中小企業、後発参入者が、勝ち残る経緯は結構あるんである。(先行者が市場を独占しようとした末に、致命的な失敗をしてしまう、あるいは、画期的な技術を生み出しても、それが旧来の製品群と食い合いをしてしまうことから、社内での意見がまとまらず、リリースが遅れる、あるいは、製品が上層部に理解されないままついえる、市場化の時期が早すぎるなどといった特徴がある)



ココから先は、皮肉な話になる。大塚史学 の辺境革新説にあるように


「ある社会構成内部の中心地域では、次の段階を特徴ずけるような新しい生産関係が確かにいち早く生み出されるけども、他面において、そこでは古い生産関係 の基盤が何としても根強いために、そうした新しい生産関係の展開は当然に阻害され、あるいは著しく歪曲されるほかない。その結果、新しい生産様式は、おの ずからそうした中心地域を去って、旧来の生産諸関係の形成が比較的弱かったか、あるいはほとんど見られなかったような辺境ないし隣接の地域に移動(または 伝播)し、そこでかえって順調かつ正常な成長をとげることになる」


という話とあまりに類似性があるのである。



次の段階を特徴ずけるような新しい生産関係は、確かに、中心領域に近い場所で生み出される。


ゲーム機にしろ、PCにしろ、プログラミングにしろ、そういう状況が歴史的に多く垣間見れる。だが、そういうのの多くは、中心領域では採用されず、むしろ、辺境ともいえる場所で採用され、そこでかえって順調な発展を遂げていく。




IBMは、PC産業の発展に関して、いくつもの画期的な技術が内部にはあった。


ゼロックスは、丸ごとPC産業を手に入れることもできた。

MSでは、95年当時から、ウェブがプラットフォームになるという点が指摘されていたし、それに向けたプロジェクトもあった。


アタリは、ゲームで最初に成功した会社だったが、その後、全世界的なゲームハードになったのは、任天堂だった。そして、ゲームの中心となった任天堂もまた、競争上でヘマをやらかして、ソニーに家庭用ゲーム機ハードのプラットフォームの座を奪われることになる。

そして、今、第三次家庭用ゲーム機戦争で、ゲームの中心となったソニーがヘマやら貸そうとしている。




革新は、中心領域で生み出され、そこでは古い生産体系が根強いために、発展しない、あるいは出来ない。結果として辺境地域で生み出されるか、そこに伝播することにより、そこで発展していく。


こういった法則性は、産業や歴史で、しばしば確認される法則性であり、今後もかわることのない傾向なのかもしれない。


イノベーションジレンマ、産業版の「勝者の呪い」、辺境で成長した革新が、しばしばプラットフォームになった企業をその座から引きずりおろす。


これは、「いつか来た道」という言葉が存在する背景となっている。

1.0の受難は、新しい生産体系が、古い生産体系(中心領域)の下では、発展しにくいところに起因している。それゆえに、中心領域で生み出された、革新性は、辺境地域などに伝播し、そこでかえって順調な成長を遂げていく。


犠牲になりやすいのは、古い生産体系の中で、革新を行なおうとする人々だと言えるかもしれない。残酷な話だが、我々の多くは、変化を嫌う。


革新を行なうためには、新しい生産体系、新しい場所、新しい市場が必要なのだ。古い生産体系に邪魔されない場所、新しいものを喜んで受け入れてくれる人々がいるマーケットが。

そういう意味で、弾さんの

結局「おいしい」のは、二番煎じの茶、ということになる。


という点については、二番煎じのお茶を美味しくしてしまっているのは、既存のマーケット、我々なのだとも言える。


既存のマーケットから追放された技術(我々が追放したといってもいい)が、別の場所では採用され、そしてそこでかえって順調に成長し、やがては既存市場を侵食していく。

その過程で、混乱がおき、いくつかの大型プレーヤーが退場を喰らうこともある。失業や倒産にいたる場合も多い。

既存のプレーヤーが、他のプレーヤーの二番煎じのお茶を美味しくした上に、マーケットから追放されてしまう。

そういう形で産業は発展してきた面があるからだ。

そろそろ学んでもいい頃なのだが、改善されるようには見えていない。

このゲームでは、追放した側がやがては、追放される側になりえるのだ。この力は、常に産業に働いている。

1.0の受難とは、それを迫害したプレーヤーがいたという事を意味する。だが、迫害したプレーヤーは、その後の革新による破滅に追い込まれる事も少なくない。

偏見と無知、狭量に対する復讐の刃は、回りまわって貴方の背中に刺さる。

そのことを忘れてはいけないと思う。




この記事へのコメント
good!
Posted by at 2006年09月21日 23:07
読み応えのある記事でした
Posted by ねこ at 2006年09月22日 00:17
面白く読ませて戴きました.
気づいたところ一点.
宮元 -> 宮本 ですね.
Posted by kei at 2006年09月22日 11:50
s/オブジェクト志向/オブジェクト指向/g
Posted by hujikojp at 2006年09月22日 12:22
補足になりますが、ファミコンにおける任天堂の過酷なロイヤリティおよび規制は、ATARI製ハードVCSにおけるソフトの粗製濫造の二の轍を踏むまいとする防衛策の面も強いですね。
PSに敗北したのもこの戦略が時代に合致しなかった為であると思われます。
「アタリショック」がwikiにもあるんで有名とは思われますが^^
Posted by eviano at 2006年09月24日 11:04
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