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2006年08月15日

コンピュータービジネスの巨人IBMを作った男@連載コラム「web2.0といつか来た道」

今、何が起こっているかについて、なにがしかの教訓や示唆を与えてくれるのが歴史である。

というわけで、本日は、コンピューター業界の巨人、IBMという巨大企業がどのように誕生したのか、そしてどのような経緯を経て大企業となったのかを歴史的な面から簡単にまとめてご紹介。


まず、IBMについては、


IBM


wikipediaのこちらの項目で大体網羅できる。

まずは、IBMの経営史を語る上で欠かせない初代社長にして「世界一偉大なセールスマン」と呼ばれたトーマス・J・ワトソンの生い立ちについて。



wikipediaのだけだと、記述が少々、少ないので補足もかねて。


まず、IBMの基礎を築いた男、ワトソンシニア(後のIBMCEO、ワトソンジュニアと区別するためにこう呼ばせていただくが)は、技術者ではなく、営業マンだった。



このことが、IBMでは営業畑の発言力を強めることになる。IBMは技術の会社だと思われることもあるが、創業者ともいえるワトソンシニアが営業マンだったので、後の生え抜きCEOは世襲のワトソンジュニアを除き、フランク・ケアリー、ジョン・オペル、ジョン・エイカーズとセールス畑出身である。


彼は、IBM入社前に、NCR(ナショナルキャッシュレジスター)に勤めていたが、そこで


「商品をどう売るかでなく、なぜ売れないのか、なぜ顧客は買わないのかが重要」

「製造だけでなく、販売・広告も大事。販売員は単に顧客のご機嫌伺いだけでなく、プロとして顧客のニーズに答えるサービスを提供する」

「販売員の風体が企業イメージや売上に影響する」
(当時は、セールスマンがうさんくさいものと見られていたのでIBMセールスマンのきちんとした服装は多いに役にたった)

といった後のIBMの基本となる営業・経営方法を学ぶ。

ワトソンは、NCRで非常に優れた営業成績を残した。

ただ、よくある話だが、そのことが当時の会長だったパターソンに煙たがられ、彼はNCRから追放されてしまう。(後に大企業になったIBMでも同様のことがおきるのが悲しいもんである。それについては後で。)


その結果、彼はCTR(ザ・コンピューター・タビュレーティング・レコーディング・カンパニー)という会社に移ることになる。

CTRは、三つの会社が合併して出来た会社だったが、そのうちの一つ、タビューレーティング部門、タビュレーティングマシンにワトソンは可能性を見出す。

ちなみに、タビュレーティングマシンとはハーマン・ホレリスの発明による機械であり、このマシンのおかげで、数千数万のデータから統計情報を迅速に集計する事が可能になった。

要は、自動分類装置なのだが、これが後の情報処理産業の基盤なっていく。



さて、ワトソンは、このタビュレーティングマシンが、大企業や政府機関に一定のニーズがあることを見抜く。


ここからが彼、つまり「世界一のセールスマン」と言われたワトソンシニアの腕の見せ所だった。

彼は、事務機器の販売に特化した上で、リース契約による機器の貸し出しビジネス、保守・点検などを通じた顧客へのサービスを実施する。

彼の戦略は、極めて効果的だった。

まず、リース契約と保守・点検をサービスにつける事によって営業は販売しやすいし、顧客は購入しやすくなる。次に、リース期間中、常に資金が入ってくる。いったん、契約をとりさえすれば不況であっても一定の資金流入を望めるわけである。

減価償却が終わるまでは、機器自体のコストを回収できないが、一方で、これは他の企業の参入障壁にもなった。

後から競合が参入しようとしても、リース契約のために、初期にわずかな入金だけでやっていかねばならないからだ。一方で、先に大量の顧客と契約しているCTRは優位にたてる。


また、タビュレーティングマシンは、パンチカードにデータを格納するシステムなのだが、IBMのタビュレーティングマシンを購入する企業が多くなればなるほど、カードの需要も増えていき、それは、IBMの収益をささえるまでになっていったのである。


事務機器の販売に特化していた上、リース契約や保守点検サービスで、顧客をロックインし、その上で、カードの販売やリース料を使い、少しづつ回収するといった形で、IBMは強力な財務基盤を築いた。競合相手だった、レミントンランドと比べ、1940年台、売上では同程度だったが、利益率では五倍以上だった。

レミントンランドは、当時、多角的な経営をしており、事務機器販売に資源資源集中をしていたIBMほどの利益率は出せなかった。


そしてIBMはとワトソンは、第二次大戦後までに売上高を一億四千万ドルまで伸ばす。(大戦当時は、銃なども生産した)

余談だが、この時期、ワトソンとIBMは、戦地に送られたIBM社員の家族に、社員の給料に匹敵する額を払いつづけていた。「国のために奉仕している社員の家族が苦しむことがあってはならない」という考えの下である。(これは、非常に立派なのだが、この考えが後のIBMの終身雇用的なシステムに繋がっていく。後述するが、このシステムによって、後のひずみが生まれる。日本で終身雇用が崩れたように、大企業の人の内部化は企業にある病を生み出す)



IBMに最初の転機が訪れたのは、第二次世界大戦後、ワトソンジュニアが経営にかかわり初めてからである。彼がいなければ、今日のコンピューターメーカーとしてIBMはなかったといっても過言ではない。


あらかじめ、ワトソンジュニアの気性について述べておくが、彼は、よくいる「お馬鹿な二代目」だった。どうしようもなく反抗的な子供時代をすごし、青年期も、遊んでまわり、飛行機大好きの放蕩息子だった。

が、戦争で空軍勤務をしたことが、彼に自信をつけさせたらしい。偉大な父親の幻影を振り払い、人を管理する術を学ぶ。


といっても、これらは、彼の自伝によるものだし、ワトソンシニアのもう一人の息子ディック(なんと四ヶ国語を操れた)もIBMの国際事業で非凡な経営をしたので、ワトソンシニアは父親として言われるほど酷くはなかったのではないかと思われる。

そんな父親と彼との違いが垣間見えるのが、1950年代に、レミントン・ランドがリリースした「ユニバックT」という電子式事務用コンピューターからである。


ワトソンシニアは、こういった当時としては新進のコンピューターが、市場に受け入れられるとは考えていなかった。また、調査を命じたものの、その結果は、見込みなしというものだった。大抵のイノベーションと同じく、初期の市場の有無を市場調査に頼ると、ろくなことがないという典型例なのだが、それはさておき。(といっても、後からだからこんな事いえるわけだが)



一方で、ワトソンシニアは、新しいコンピューターは従来のものとを遥かに超えたものとなると信じ、顧客がいずれはそれを使うようになると主張した。そして、ニーズの先取りを主張したわけである。

1956年、ワトソンシニアの死によって、会社の支配権をえたワトソンジュニア、父親譲りのかんしゃくをもち、向こう見ずで、リスクを好んだ男は、IBMを事務機器のメーカーから、一台コンピューターメーカーへと大転進させる賭けを始める。


当時の金額で50億ドル近い金をレイズすることになるゲームを。

と、本日はここまで。続きは次回。



参考資料としては

IBMの息子―トーマス・J.ワトソン・ジュニア自伝〈上巻〉〈下巻〉

コンピューター200年史―情報マシーン開発物語

ビッグブルース





タグ:Web2.0
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