なんつーかなー。
分裂君勘違い劇場は、もともと、世で流布している原理を上手いことイデオロギーにはめ込んで煽りまくるのが芸風で、トップに
「当劇場では、偏見と矛盾と誤謬だらけの過激な極論とアジテーションを上映します。真に受けないでくださいね。」
の文字が輝かしく踊っているわけだから、真面目に突っ込むのもアレなんだけどさ。
頭は恐ろしくいい人で、アジも上手いんで、感心させられることが多い。
宗教でも始めれば、あっという間に教祖誕生!と思ってしまう。
で、無粋とは思いつつ簡単にいくつか突っ込むけども、
ITビジネスにおける独占は、人類がいままで経験したことのない爆発的な富の噴出源となるような、異質の独占となる
はい、まずこれ。独占には異質なんてものはない。第二次産業革命以後、経済においては、「規模の経済」が働くようになった。
第二次産業革命以後、規模が大きいほうが効率的となるセクターが幾つか出現したからだ。
機械化の進展によって1万個の製品を作る企業より、100万個作れる企業のほうが製品一つあたりのコストを劇的に下げれるようになった。
つまり、大規模化した企業は、コスト上の競争優位を作り出すことが可能になったわけである。
電気、化学、自動車、鉄鋼といった分野では、大規模化によるコストダウンが可能だったため、必然的に大きいものによる市場の独占が起こった。
そのほうが、コストを下げてイイモノを作れるからだ。これは合理的な選択の結果だった。
同時に、生産から販売までの様々なセクターを統合することによって、スピードアップが実現できるので、リードタイム(設計から市場に出すまでの時間)を短くでき、早く市場に製品を出してシェアを獲得できるので、この面でも大きい企業が有利だっだ。
独占は、ある時期までは、コストの削減や、製品リリースなどのスピードアップの点で極めて合理的な選択であり、それゆえに企業は大規模化していくのである。
規模の経済が働く場所では、そうしない企業は、多くの場合、大規模化した企業に食われるしかない。
ところが、ここには結局、落とし穴があった。
大きいほうが有利なはずなのに、何故、フォーブスやS&P500などの企業ランキングで、およそ20〜30年の間にトップ企業の10社中7社が姿を消しているのか?
ここで、アバナシ―という学者が唱えた「生産性ジレンマ」って話がある。
W・アバナシー他の著書「インダストリアル・ルネサンス」で、アバナシーは自動車産業の発展過程を詳細に分析した後,生産性の上昇と革新能力はトレードオフの関係にあり、生産性を上昇させるには、革新的能力が犠牲にならねばならないという「生産性ジレンマ」を明示した。
アバナシーがその結論に至った理由をいかに述べる。
まず、イノベーションには「製品イノベーション」と「製法イノベーション」の二つがあるとアバナシーは定義する。
市場が生まれて間もない頃は、その市場のニーズについて、多くの企業は無知であり、そのニーズをつかむための製品の形は定まっていない。この時期に必要とされるのが「製品イノベーション」である。
「製品イノベーション」は、「ドミナント・デザイン(支配的設計仕様)」が生み出されるまで、絶え間なく続けられる。
ドミナント・デザインとは、市場におけるユーザーニーズに完全にマッチした仕様であり、自動車であれば、T型フォードがこれにあたるとされる。
この場合のドミナントデザインとは、エンジンの前方搭載、水冷、V−8型エンジン、後輪駆動、自動変速機であり、これは今も自動車設計のドミナントデザインである。
こういった設計によって、軽量で耐久性のあるT型フォードは、大衆の支持をうけ、それまでの金持ちの遊び用から広汎な用途に用いられる存在へと昇華した。
「製品イノベーション」とは、製品の質が、市場に最適化されるまでの間に必要とされるイノベーションであり、質を追求するイノベーションといってもいい。「顧客の潜在的欲求」を新たなイノベーションによって叶えることが目的である。
であるが、ドミナント・デザインの出現は、製品性能の標準化をもたらす。
ユーザーニーズが明確になった場合、それさえ満たしてしまえばよいからだ。
ニーズさえはっきりすれば、そこからは、そのデザインにそって、人、物、金をつぎ込めばいい。
そして、それがはっきりすると、産業全体がドミナント・デザインに傾斜する。結果、品質が競争の軸とはならなくなる。テクノロジーが模倣可能なら、同じドミナント・デザインの複製が可能だからだ。
結果として重要になるのが「製法イノベーション」である。
製法イノベーションはコストを競争の焦点に据えて発展する。
つまり、ユーザーニーズがはっきりし、つくるべき製品がはっきりしたならば、あとは、製法を構成する要素の改善し、大規模化することで、コスト優位を作り出すことが競争優位の源泉となるのである。
フォードは、T型でユーザーニーズをつかみ、そして流れ作業や互換性生産方式による大量生産に舵をきった。これによって、今までより遥かに低コストで車を生産できるようになった。
製品イノベーションはドミナント・デザインを見つけること自体の競争である初期段階で重要な要因になるため,産業の発展過程において大きな影響力をもつ。
一方で、製法イノベーションは,ユーザーニーズがはっきりし、作るべき製品がはっきりした後、そういった製品をつくる競合他社との競争において打ち勝つために重要な「コスト競争力」を生み出すためのものである。
そのため、産業の成熟段階の前段階から重要になる。
最終的な勝者は、低コストの競争優位をもつことができた企業となる。
ただし、ここから落とし穴が始まる。
ドミナント・デザイン(支配的設計仕様)によって、「車」という限定的な答えを示してしまった場合、量産とコストが最重要視され、革新は軽視される。
革新を起こしても意味がないのだ。ニーズははっきりしてしまったのだから。一般に一つの市場のユーザーニーズは驚くほど変化がない。
結果,組織における柔軟性と革新能力を減少させながら,高い生産性と高利益を得るために組織は体系化されていく。
この力は、企業が合理的に動くならば、ほとんど避けようが無い。
つまりだが、工夫を抑制するから生産性が上がるのだ。
ひとつの工程を、マニュアル化、自動化していき、官僚化したほうがコスト的には優位で生産性はあがるのである。
沢山モノを作るときに、いちいち工夫して変化をつけていたら大量生産はできない。
同じモノを同じやり方で作ったほうが遥かに、笑ってしまうほど遥かに効率がいい。
大きな工夫や、革新は、マニュアル化や自動化と正反対のプロセスであり、それは、大規模生産には役に立たない。
スプーンを安く生産するのだったら、つまらない同じデザインのを1万個つくるのが一番安い。
何種類もの優れたデザインを1000個ずつに分けるとコストが高くつく。
工夫をせず、機械的に同じ物を作りつづけるからこそ、生産性があがるのである。
この革新性と生産性のトレードオフ現象を、W.アバナシーは生産性ジレンマと呼んだ。
そして、革新性を失った結果、小さい企業に、革新性を武器に攻撃するチャンスをあたえてしまう。
1960年代には、アメリカの繊維産業は、ドレイパーなどの少数の企業によって牛耳られていた。
ところが、海外メーカー(主に日本、ヨーロッパなど)がこれに新技術の応用をもって挑戦し、これを叩き潰してしまう。
アメリカの工作機械メーカーは、ドイツと日本のメーカーがアメリカのそれを叩き潰した。
アメリカは鉄鋼で、日本メーカーに出し抜かれ、、エレクトロニクスで日本メーカーに出し抜かれ、自動車で日本メーカーに出し抜かれた。
海外(日欧)からの挑戦の前に、永遠に市場から放逐されてしまったアメリカ企業は沢山ある。
そういった多くの大企業は、生産能力を高め、コスト優位を得る見返りに、革新性を失った企業だったのだ。
このあたりは、クリステンセン教授の「イノベーションのジレンマ」にも詳しい。
これは産業の「いつか来た道」であり、革新的な企業は、合理的である限りは典型的な大企業とならざるを得ない。そして、病んで地に落ちる方向に突き進まされる。
そして新たな企業に取って代わられる。
今ITで起こっているのは、過去に何度もあったことが又繰り返されている途上だと僕は考えている。
アメリカは、最初に鉄鋼、自動車などの独占的大資本が生まれた。が、生産性は上がったものの、そこからは革新性が失われた。
その後、日本の鉄鋼、自動車、エレクトロニクスは、革新性を武器にアメリカを打ち破った。
ところが、打ち破った後で日本の企業も同じように大企業化し、コスト競争力を追求していった。そのほうが儲かるし、そうしないと生き残れないからだ。
結果、日本企業からも同じように革新性が失われた。これは生産性を上げ。利益を求め、競争に勝ち残ることの代償だった。
その結果、他の新興国企業に革新性を武器に攻撃するチャンスが生まれてしまった。
今、鉄鋼で最も先進的なのは中国や韓国だし、自動車に関しては、1990年代、世界で、最も生産台数を伸ばしたのは、日本車でなく、韓国車。エレクトロニクス産業は、随分前から、韓国や台湾メーカーとの戦いでレッドオーシャンであっぷあっぷ。
日本の企業は、かつて自分達が滅ぼした多くのアメリカ企業と同じ運命をたどっている。
そして、アメリカで、今、一番元気なのが、IT企業。
MS、インテル、グーグルに至っては世界で暴れまわる独占資本状態だ。
ただ、過去の歴史を紐解けば、そういう企業が独占状態を維持できるのはせいぜい20年かそこらでその後は新興企業の攻撃を受けて衰退していくのだ。
これは生産性をあげるために革新性を犠牲にせねばならない大企業の宿命だ。
この意味で、現代のITビジネスの山師とは、富1.0の時代の山師より、はるかに質が悪い。
彼らは、(1)スケールメリットと(2)ネットワーク外部性の生み出し続ける富の上に、あぐらをかいて、腐敗し続けるのだ。
Web2.0は自殺し、ゾンビーになって徘徊する より
というわけで、これは腐敗というより、宿命なのである。大企業とは、生産性を追及する組織であって、革新性を追及する組織ではない。
大企業になれば、大量の従業員や資本を維持するために生産性を上げて、売上をのばさないといけないが、生産性と革新性はトレードオフなので、大企業になった企業からは革新性が確実に失われていく。
その結果、革新性を武器に、小企業や他国の資本が、そういった革新性を失った大資本を破壊するチャンスが生まれる。
それと、人材の話になるが、
ところで馬車馬のように働いていれば「価値創造能力」が増えていくかっていうと大いに疑問だ.駄目な会社で飼い殺され搾取されて気づいたときに手元に残っているのは,潰しのきかない業務知識と,数年前で止まってしまった技術と,連日の徹夜でガタのきはじめているメタボリック症候群なカラダだけかも知れず.まだ仕事がヌルくて履歴書の肥やしになった方が,本人の心掛けひとつで未来は明るい.
或るゾンビー人材の戯言 より
結論からいうと、人材において、小企業から大企業に移行していくにつれて、そこである事態が進展する。
最初、小さな企業で、ドミナント・デザイン(支配的設計仕様)を探して試行錯誤が続けられる間は、労働者の熟練、能力が生産活動において重要な要素となり、競争は、だれがいち早くドミナント・デザインを生み出せるかにある。
が、いったん、ドミナント・デザイン(支配的設計仕様)が生み出されると,あとはそれをどうやって上手く生産するかの問題になる。
ここでルールが変わる。
ルールが変わったら、そこからは革新性を排除して、生産性を重視し製法イノベーションを徹底的に推し進めて、全てひとつの機械として運営される「自動化の島」を形成した大企業が勝ち残る。
そうなると,労働者の熟練や能力よりもシステム自体をどれだけ上手く回せるかどうかが、重要視される時代がやってくる。
歯車をどれだけうまく回せるかが主題となるのである。
その結果、大企業では、しばしば、「人の内部化」がおこる。
その企業の生産ラインのなかの部品となって、決まった仕事を決まったプロセスでこなす人間が必要となり、「企業にマッチした能力」「企業の生産性を上げる能力」が重要視される。
結果、大企業の人材というのは、その企業特有の能力を育てていくことになり、他社に移るとあまり役に立たなかったりするので、そのことが、さらに企業間の移動を抑制し、「人の内部化」を進めてしまう。
そして、この二つは、企業の業績が悪くなると
「企業にマッチした能力」→「潰しのきかない業務知識」→転職で不利に
「企業の生産性を上げる能力」→「数年前で止まってしまった技術」→転職で不利に
というデススパイラルを労働者に課す。
転職で不利だから、会社が危なくても会社に残ることになる。
一方で、会社が危なくなったら、転職できるスキルをもつ奴(革新性のある奴や産業や職業に固有なスキルのある奴)は、さっさと転職してしまう。
その結果、会社の中には、「潰しのきかない業務知識」と,「数年前で止まってしまった技術」しか持っていない人材のみが残ることになり、会社からは、革新性のある知識、革新的な技術はさらに失われていく。
あるとき、市場に変化が起こって、製品が売れなくなると、生産性をあげるしかできない組織しか残っていないので、赤字をとめられなくなる。
生産性をいくら上げたところで、売れる製品がないと意味が無いからだ。
そして滅びる。バカバカしいほど、この繰り返しなんである。市場というのは。
あと、
回転が加速していく小さな歯車とサビついてきた大きな歯車
アニメ業界やゲーム業界の話を発熱地帯さんもしているので、こちらを例にしてみるけど、大量投下プロモーションの権化と言われるSCEは、要するに、生産性をあげるためにそうならざるを得なかったという話になる。
コストを削減し、より売上と利益をだす為にはそうせざるを得ない。
今までのゲームの世界、パッケージビジネスの世界は「規模の経済」が働く以上、1万本売るより、100万本売った方が一本あたりのコストが安くできるので儲かる。
だから、生産性をあげるための製法イノベーションの一つであるマスプロモーションを発展させてきたのは、完全に合理的な戦略だ。だからSCEは勝ち残った。
ただし、生産性をあげ、製法イノベーションを発展させる見返りとして、革新性や製品イノベーションを起こす力を失う。
理由は上記に書いたとおり。
大きな歯車は、生産性はあがるし、効率的だが、その資本としての大きさ故に、変化するためのコストが高い。
一方で、小さな歯車は、生産性は低いし、非効率だが、その小ささ故に、変化するためのコストが安い。
そういう意味で、ジブリが、革新性を失ったのも、ある意味では仕方のないことなのかもしれない。
あそこは、宮崎アニメを作るための製法を徹底的に追求したスタジオであって、そのための生産性をあげるためのノウハウが全てだ。
宮崎アニメをつくることに邁進し、大ヒットを目指し、生産性をあげようとする場所では、革新性は失われていく。
生産性と革新性のトレードオフがアニメスタジオでも働くとすると、宮崎アニメが後継者を見つけ出せないのも説明がつく。
これは、もう生産性を上げ、大ヒットを出すことを宿命としたビジネスには、ほとんど憑き物の病なのだろうと思う。
いつか来た道を行く。
飽きもせずに同じ間違いを繰り返す。
なぜなら、間違いを犯せば滅ぶ。正しいことをしても滅ぶ。
それが産業の宿命であり、避けられない破滅というのが歴史的にみた現状なんである。
だが、未来は誰にもわからない。
ひょっとしたら、誰かが、この問題に終止符をうつかもしれない。
それは、今後の課題だろう。
**これからしばらく、コラムで「web2.0といつか来た道」といったタイトルで、コンピューター業界を経営史で振り返ってみたいと思う。
1950年以降のコンピューター業界は、「いつか来た道」、「イノベーションのジレンマ」、「生産性ジレンマ」の縮図であり、非常に面白いのである。