メモの件のことがあって、歴史に注目が集まっているので需要あるかなーと思いまして。
で、なんだけど、本日は、日本歴史学の断絶の話ね。
まずなんだけど、日本歴史学は、戦前と戦後、つまり1945年を境に、凄い断絶がある。
(*前体制への批判から、以前の教育自体が丸ごと見直されて、価値観自体が極端に変わってしまった国家は、第二次大戦後の共産圏、そして敗戦国ドイツ・日本で見られるが、ここでは日本に限って話をすすめさせていただく)
まず、前回のエントリでも扱ったように、戦前の日本の歴史教育の基本は、「皇国史観」によるもので、これは国家主義的な思想教育の色彩を強く帯びていた。
GHQによって軍国主義的として廃止された、修身などが例として妥当だと考えるが、この手の歴史的な教育は、神話と歴史が混同されていた点で、戦後日本の歴史学からは抹消されていった。
また、戦後と戦前でまるで、歴史学の転換と共に、評価がまるで変わってしまった人物もいる。
いい例が楠木正成だ。
wikipediaからの引用になるが
死後の楠木正成
1559年(永禄2年)、正成の子孫と称した楠木正虎によって朝敵の赦免を嘆願され、正親町天皇の勅免を受け朝敵でなくなり、また江戸時代には水戸学の尊皇の史家によって、忠臣として美談化されはじめる。江戸時代後期には尊皇家によって頻繁に祭祀されるようになり、その動きはやがてのちの湊川神社の創建に結実し、他方で靖国神社などの招魂社成立に大きな影響を与えることとなる。明治になり南北朝正閏論を経て南朝が正統であるとされると大楠公と呼ばれ、講談などでは『三国志演義』の諸葛孔明の天才軍師的イメージを重ねて語られ、修身教育でも祀られる。戦後は価値観の転換と歴史学における中世史の研究が進むと悪党としての性格が強調されるようになり、吉川英治は『私本太平記』の中で戦前までのイメージとは異なる正成像を描いている。
ここまで人物評価が、時代時代で変わるんである。
ある時は悪党。ある時は悲劇の忠臣。
戦後を境に、楠木正成のイメージは変わってしまったのだ。
それは、研究によるものもあるが、戦後の歴史学では、戦前の英雄崇拝、道徳の権化のような人物のエピソードを交えた思想教育的な部分は、前体制への批判から削除されていったせいもある。
戦後歴史学は、マルクスなどの影響をうけた事から歴史教科書は、「唯物史観」により経済中心の事実を中心として歴史を解釈したり、奈良の大仏建造のくだりに「人民を酷使して作られたことを忘れてはならない」といった話がつくようになり、「英雄崇拝」や「道徳的人物の賞賛」は消え去り、人民主体の歴史が賞賛される向きも見られた。
これは、かなりの断絶だった。
戦前に歴史を学んだ人にとっては、日本の歴史とは神話と現実が一体になったものであって、冗談抜きで「日本は神の国」でもあったんである。そういう風に教えられたのだから。
また、当時の人々には、「天皇のためお国のためなら命も投げ出すべき」という風潮すらあったが、それを推奨するような話が教科書で真面目に教えられていたわけである。
いい悪いは別として、それが戦前生まれの人々にとっての日本史なのである。そういう風な教育体系だったのだから。
ところが、戦後になって、そういった記述は歴史教科書からは姿を消した。神話は神話として扱われるようになり、天皇は人になった。それまでは、賞賛されていた天皇の忠臣的人物が、突如としてスポットライトを浴びなくなった。
ここで断絶がおきた。
ちょっと前、「チビクロサンボ」が人種差別的だとして、廃刊になったとき、「なんでアレが?」と思った人は多かったみたいだが、そういう状況が戦後の歴史教育においてもあったのである。
1945年を境に歴史教育自体が見直された為に、日本人の世代間の歴史認識にズレが生じたわけである。
このズレは、今でも尾をいくらか引いていて、日本人の歴史観の中にいくつかのしこりを残している。今回のメモの件についても、そういったしこりによる部分がいくらか見られるので、ちょいと書いてみました。
実は、ドイツでも同じような歴史家による論争があったのだが、それは又の機会に。
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