まずなんだけど、歴史学については、wilipediaのコレを読んでもらえばいいのだけれど、これだと、日本人の歴史観について、網羅的にはわからないので、そこらへんの補足もかねて。
まずなんだけど、日本の近代化と共にあった歴史観として、「皇国史観」がある。
19世紀末から1945年の終戦(第二次世界大戦敗北)まで、学校で用いる歴史教科書は日本神話に始まり天皇家を中心にした出来事を述べ、歴史上の人物や民衆を天皇に順うか逆らうかで評価する皇国史観によっていた。
とあるように、歴史的価値の基準が一種宗教と結びついていたのである。
こういった、宗教と歴史の基準の同一化傾向は、日本に限ったことでなく、西洋からイスラームにまで広くみられた現象で(一部ではまだ見られる)、西洋においては、キリスト教史観がある。
聖書の記述が、そのまま歴史とされ、最後の審判を経てミレニアムが到来するとした歴史観であり、神の意志によって世界の出来事は決められているとしたもの。
このように、神々の歴史と人間の歴史が混同され、しばしば、権力、正義は神的力によって正当化される傾向が過去の歴史で確認される。
十字軍、ジハードのような神の名を借りた宗教戦争は、宗教によって与えられた正当性に準拠している。
もう一つ、日本でよく使われるのが道徳的史観で、道徳の権化のような人々を規範とし、そういった人々に近い人間になることを目指すもの。
「史記」であったり、昔の日本の教科書にあったような天皇への忠義を最も価値があるとする歴史的記述は、こういった一種の道徳史観の産物といえる。
道徳自体は、何も問題ないのだが、その道徳規範自体、何らかの目的のために生み出されたものであることを免れえないため、しばしば、その大儀は歪んで理解され、利用されることがある。
道徳や大儀自体は、いいことなのだが、大義名分の下で戦争がしばしば起こされてきた。
最後に、唯物史観になるのだが、下部構造(経済活動)によって、上部構造(法律、政治)が規定されるとし、その経済活動は、最終形態である共産制へと移行し、現在の社会をそこに向かう途中の一時的な段階であると解釈する
しばしば、何故、戦後日本歴史学において、こうまで、強く唯物史観が入り込んだろうと思うのだが、自分なりの仮説をたてるとなるとこうなる。
戦前の日本において、主流だったのは「皇国史観」であった。
それは、「歴史上の人物や民衆を天皇に順うか逆らうかで評価する皇国史観によっていた」のだが、戦後、日本の敗戦によって、天皇は人間宣言を行った。
だが、問題は残った。天皇の戦争責任だ。
当時の日本人の国民感情、文化的に、天皇を戦犯として処刑などできるわけがない。それは、当時のGHQが天皇の戦争責任を問わなかったことからもわかる。
だが、歴史的に、天皇の戦争責任について、どう扱うかは潜在的に問題となって残る。
国民感情的に、天皇の戦争責任は問いたくない。学問的にどうしたらいいか?
その場合、唯物史観は、役に立つのである。
唯物史観では「下部構造(経済活動)によって、上部構造(法律、政治)が規定される」とされるため、天皇の戦争責任を「下部構想」、つまり経済的状況に責任転嫁することができなくもない。
そういうわけで、戦後、唯物史観などが日本の歴史学に強く入り込んだのかもしれない。
これで、仮説を終わるが、その後、この唯物史観も、又、戦争に結びついてしまった。東西イデオロギー対立による冷戦。
紹介した、三つの歴史観の全てが戦争に何らかの形でコミットしてしまった過去がある。
歴史観にふくまれる法則性というのは厄介なもので、歴史を記述する際には、その説明・解釈のために、ある一定の単純化された法則が必要になる。
その法則自体が何らかの危険性があるのは常なのだが、それでもやっぱり必要になるのである。
現在では、歴史的法則には普遍的なものは一つもないと考えられており、それ自体は、過去にあった何かを説明する場合に的確に説明できる場合においてのみ、正しいものと考えられるものであるということになっている。
歴史観や、歴史の法則性というものは、そういうものだということは、知っておいて欲しいとは思ったのが今回のエントリの趣旨。
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