えー、たった今、NHKでも大体的にニュースで取り上げていた奴です。画家の盗作問題ですね。まぁ、有名画家の盗作なんて、今までも何度も起こっているわけですし、たけくまさんも書いてますが
「盗作」と「合法的盗作」
ピカソが「パクリ画家」だったのも有名です。彼のタッチは、確かに革新的なものでしたが、絵自体の構想とかは、よくパクリしてたのは有名な話です。
文学界じゃ、三銃士で有名なアレクサンドル・デュマが盗作疑惑をかけられた時にいった言葉が有名です。
「確かに盗作したが、俺のほうが面白い」
はい、ここまで言えたら、天才だと思います。別の意味で。なんつーか、こういう人が大作家と呼ばれ、今でも愛される作品を書いているわけです。「パクリ作家逝ってヨシ」というのは、著作権的には確かにそうかもしれないですが、残念ながら、創作とパクリというのは、手法としては、ほぼ一緒のプロセスをたどるので、いつの時代も絶えないし、そして又、これから先も出つづけるでしょう。著作権がある限りは。現在、生きている作家は全員、パクリ作家といえないこともありません。同じように、過去の作家も、そしてこれから生まれる未来の作家も同様です。
で、創作とパクリの問題に入るわけですが、僕も、高校生の頃まではパクリが大嫌いで、そんな事をする作家は「全員逝ってよし」くらいに思ってました。
ただ、その後、大学で文学関係について学んだりして考え方を変えました。
理由。
過去の天才作家は「オリジナリティ」があったから天才と呼ばれたのではなく、「ばれないようなパクリをする」のが上手だったから天才と呼ばれたのだという事実を学んだからです。
実は、創作とパクリって、紙一重なんです。
有名なSF作家、星新一は、アイデア発生のメカニズムを以下のように述べています。これは、アイザック・アシモフの影響もあって述べた事でもあるのですが、この二人の天才的SF作家の創作方法というのは、非常に似ていました。
一言でいうなら、こういうことです。
「アイデアとは、公式でないもの、既存の秩序にないものの組み合わせ、そして組み合わせるものの間の距離がはなれていれればいるほどいい」
です。
そういうことである。ズレによって信じられない状況を生み出すのがアイデアの本質という事です。物語には、斬新なアイデアが必要とされるのですが、それは0から生まれてくるものではありません。
人間は0から何かを生み出す能力を一つたりとて持っていません。完全なオリジナルを生み出す能力というのは、人間にはないのです。
あるのは、既存のモノの組み合わせを変える能力だけです。
そして、これは、創作にもあてはまります。
星新一やアシモフの創作方法は、まさにその証明でして、彼らは、創作には欠かせない「斬新なアイデア」を作り出すのに、「既存の秩序にない、かけ離れた二つの断片を組み合わせる」事によって、沢山のSFやショートショートを作り出したわけなんですね。
そして、これが、パクリと創作を隔てる部分でもあります。
パクリとは、「既存の秩序の中でありふれた断片同士を組み合わせた粗悪な集合」に近いものです。
和田義彦氏の作品は、正直な話、同じ構図、同じデッサンで色と背景をちょっと変えて、アルベルト・スギ氏の作品に組み合わせただけです。
これじゃ、ダメなんですね。
一方で、ピカソになると、他の画家の構図だけパクったとしても、そこにあの、基地外じみたピカソタッチを組み合わせると、ほとんど別種の絵になるわけです。要するに、組み合わせる要素同志がかけ離れているわけですよ。
だから、オリジナルなんていわれてしまう。
同じパクリでも、組み合わせる要素が、かけ離れていれば、それはオリジナルになってことです。まぁ、現状は、ですが。
作家に厳密な意味でのオリジナリティがなく、あるのはパターンの組み合わせを変える能力だけだと知った時から、僕は「オリジナリティ」を主張する作家をかなり胡散臭い目で見るようになっています。
「オリジナリティ」は、人間はもっていません。それは人の手に余るものです。それを追い求めようとしても無駄だと思っています。
だから、「斬新なアイデア」を出したかったら、既存の秩序の中では使われていない組み合わせを探す事。
それが人間にできる限界だと思っています。そして、それでいいんです。
そして、それが出来なくなったら、その時が終わりの時なんでしょう。
タグ:創作
キュビスムと言う様々な面から物体を描くと言う手法を試みたので、
ピカソは、評価されているのです。誰もやらなかった手法だし、
思いつきもしなかった手法です。
組み合わせ以外にもアイディアの手法は、あります。
創作と言うのは、そんなに浅い世界では、ありません。
アフリカ芸術のぱくりでしょう..