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2006年04月21日

ポスト構造主義と女性のコード

NaokiTakahashiの日記 -- コミュニケーション能力と恋愛

naokiさんの記事を読んで、ちとポスト構造主義と女性の問題について書こうと思った。


ちなみに、ポスト構造主義的批評について簡単に説明しておくと、文学における研究の焦点を、作家やテキストでなく、意味体系へと移行した批評体系という事になる。

これは、構造主義とよばれる文学理論が、テキストや作家に厳密な意味でのオリジナリティが存在しないことを主張した流れを組んだものであり、それゆえに、ポスト構造主義ではテキストや作家の重要性が薄れ、その背後にある、文化活動に組み入れられた規則やコード自体を批評することに意味を見出すこととなった。


さて、ここで、ロマンスとホラーという二つのジャンルがある。この二つをポスト構造主義的に説明するとこうなる。


ロマンスとは、「客観的障害によって引き裂かれた男女が、障害を乗り越えて結ばれる」という規則にのっとった物語であり、観客の快楽は、障害によってもたらされた無秩序状態(ヒーロー・ヒロインの別離)が秩序(ヒーロー・ヒロインの同一化、つまり結婚)へと回帰することによって生み出されるとされる。


一方で、ホラーとは、「恐怖を与える存在が、最終的に破壊される」という規則にのっとった物語であり、無秩序の具現化である怪物が、少数の秩序側によって打ち破られ、再び、世界に秩序がもたらされる事によって、観客の快楽を引き出す物語とされる。


一方で、コードだが、ここで、この二つのジャンルでは女性のコードが分裂しているというんが、本日の主題である。

昨今のロマンスにおいては、女性のコードは自立が柱の一つであり、客観的障害とは、家父長制社会の具現となる。

つまりだが、男中心の社会における主要概念である「女性は家にいて子供を育てる」系のイデオロギーと女性の自立というイデオロギーとの対立が、客観的障害を生む。

そのため、自立しようとするヒロインにとっての障害の克服を手伝うのが、主にヒーローとなるのであり、アリー・マイラブやブリジットジョーンズの日記のようなキャリアウーマンものドラマ・小説の規則となって現れた。


これが、今のロマンスのトレンドの一つである。

一方で、これと新逆になるのが、ホラーであり、ポスト構造主義の批評家によれば、ホラーとは「家父長制に代表される男性の権威を脅かすものとしての恐怖の象徴として女性が描かれるジャンル」となる。


性的に積極的な女性を屈服させる事や、社会における女性の進出という恐怖の具現化された存在を破壊することで、家父長制に代表されるイデオロギーの支持者を満足させるものとする。

それゆえ、ホラーはロマンスの裏側といわれる場合もある。

ホラーとは、女性への恐怖と憎悪のテキストであるいう風に批評される。


こういった、完全に構造化された物語とは、ポスト構造主義批評家にとっては、同じイデオロギーの再生産に他ならず、脱構築を目指すべきとされた。


ただ、この種の批評は、歴史的な背景を無視することが多く、又、こういったメタ批評は、意識、無意識に関わる問題であるため、真偽を確かめるのが難しかった。


こうして、ポスト構造主義も又、袋小路に陥ったと考えられている。


そういった中で現れたのが、ジェームス・ドナルドによる精神分析的修正論ともよぶべきものであり、「カーニヴァル」とも呼ぶべき構造を支持した。

つまりは、イデオロギーを多分に含み、完全に予期された方向で物語が進む「閉じたテキスト」から、葛藤や対立をさらけ出し、解決策を示さない交渉、議論、対話に基づいた「開かれたテキスト」へと。


ブログは、開かれた空間であり、読者もまた、その空間に積極的に関われる。


naokiさんのエントリを呼んで、そういう開かれたテキストとしてのブログというものを感じ、それは、葛藤や対立をさらけ出し、交渉や議論、対話に基づいた空間としてのネットが、ポスト構造主義批評が望んだ文学的空間なんかもしれないな、なんて思った次第である。

閉じたテキストの空間は、ドラマや、小説、漫画で繰り返されてきたが、その方向の進化は限界にきており、袋小路に陥っている。

だから、ネットみたいな開かれたテキスト空間のほうが、遥かに、読者にとっては魅力的なのかもしれない。


なんて、専門的な話もしてみましたが、ま、そういうことデ。

ブログ空間では、解決策を指し示すよりも、論争・対話によってさらけ出された葛藤や対立が好まれるのも、このあたりが原因なのかもしんないなと思った。

エヴァあたりは、そのあたり、先駆的で、葛藤や対立をさらけ出すだけさらけ出して、解決策は示さないみたいな人間ドラマが延々と描かれたわけで、前衛的な作品だったかもなーと思います。








posted by pal at 21:44 | Comment(0) | TrackBack(2) | 小説 このエントリーを含むはてなブックマーク | 編集
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