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ちと、関連して述べておきたいのだが、
虐殺という行動において、人間の行動にはある種の普遍性があるように
見うけられる。前回の記事で述べたことの補足になるんだけど
簡単にまとめてしまうと、
「虐殺を行う側が、虐殺する事を正義だと思っている」
点にある。
ユダヤ人迫害史において、これは延々と続いてきた事であり
中世のユダヤ人迫害でも、前回のエントリで述べたポグロムでも
ナチスのユダヤ人迫害でも、これは共通項で、虐殺における
問題をややこしくしている。
我々の感覚からすると、虐殺は許すべからざる罪だが、
虐殺を行っている当人達は、自分の行為を虐殺だとは思っておらず
自分が正義を行っていると思っているケースが多い。
つまりなのだが、当時の人々の意識と我々の意識の間にズレがあるのだ。
「○○を殺して●●を救え/守れ!!」系のスローガンに代表されるわけだけど
何らかの正当性が、そこに付加されることによって、
「正義という名の暴力」が行使されるパターンがよく見られる。
これの最も有名な例が戦争となる。
関東大震災時の朝鮮人虐殺に関しても、この例に当てはまっていて、
虐殺をおこなった人々が、異常者というわけではなく、ただの民間人だったケースが
あり、そして、彼らは、自らが「虐殺」を行っているという自覚はなく、
正義を行っていると考えていたようだ。
つまりだが、井戸に毒を放り込んだ朝鮮人を殺すことで
祖国を守る、親族を守るといった正当性が自警団に虐殺を行わせた一因なのである。
我々の先祖は、過去、幾度か虐殺を行ったかもしれない。
だが、それは、彼らが異常だったという理由からではないし
日本人がそういう民族だったという理由でもないと僕は考える。
あまりに基本的な人間の行動原理である「正義を行う」という指針に
基づいて行動を起こした事が一因ではないかと思う。
問題は、その「正義」の基準事態が狂ってしまった事である。
あまりに積極的善意を僕が恐れるのは、こういった歴史が繰り返されてきたからで、
二元論を恐れるのも、歴史的に、正義という名の暴力が繰り返されてきたからでもある。
人は、二元論的な考えを行う。これは僕もそうだし、多分、多くの人がそうだろう。
そして、人は、自らが正義を行っていると確信している時、
場合によっては、虐殺すら行う生き物だということである。
広島に原爆を落したパイロットは、自らが史上最悪のテロ行為の一つを
働いたと思ってはいないようだ。
原爆を投下した時は、最高の気分だったそうなので。
つまり、彼は、あくまで正義を行ったと思っている。
あるいは、命令に従っただけかもしれないが。
別に戦争に限らず、自らが正しいと絶対の確信を持っている場合の
人間の攻撃性は、時として過度なものとなる。ネットでもそういう行動が
いくつか確認できるし、自分の過去の行為にも、そういうものがある。
誰もが「自らが正しい」と信じながら業が業を作る連鎖から抜け出せない
といったナウシカのヒドラや、
れきし【歴史】
もう一回間違えるために大勢からお墨付きを貰った教科書。
認めたくないものだな
自分自身の若さ故の
過ちというものを 《シャア=アズナブル》
といったシニシズムに陥りそうなほど、繰り返されてきた事である。
歴史というのは、
「誰もが「自らが正しい」と信じながら業が業を作る連鎖から抜け出せない」
という証明をただ繰り返すものなのかもしれない。
(場違いで申し訳ありません)
Saint Bernard of Clairvaux (1091-1153)
http://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2005/11/post_23e0.html
難しいですね。
人間が有限の命であり、その知識も視野も限定されるために不完全情報状態であり続け、それゆえに業を積み上げ続ける。富野が小説で「人は間違いを犯し、それを償うために生き続けるのかもしれない」とか書いていたと思うのですが、、
認識が有限であるために、ポートフォリオを組んでリスクヘッジしなければならないし、決して合理的なシステムとはいえない民主主義を採用する理由も「政権担当者の首を挿げ替えやすい」という理由からだったりします。権力の集中は功利的ですが、リスクヘッジが厳しいがために決して望ましいものではないわけです。
善意を真摯に信奉するがゆえに、たとえばハムレットは英雄的なんですね。
(ギリシャ悲劇における定義上の)
"正義"への情熱、過度な賢しさと真摯さゆえの、信じる"正義"への強い懐疑、潔癖症ゆえの現実への絶望的な嫌悪感。
与件すべてを業として受け入れざるを得ない性質の人の葛藤、相克の果てのカタストロフィー。スィーパーとして業を背負い込み自らの身とともに清算する"英雄"。
なんでシャアがかっこいいのかというと強くてかっこよくて頭いいからですが、加えて、「大きい物語」として富野がそれを宿命として背負わせようとしたからだと。そうじゃなきゃあの作品が半ば神格化されるほどの深みは得られなかったと思います。
一方で、小説版で顕著なのですが、アムロは結局、引き立て役だったんですね。宿命がない分、つまり正義への考察が浅くて視野が狭いゆえに葛藤が浅く、ナイーブなままむき出しの才能でシャリア・ブルを討ち、「情緒不安なパイロットが!」と罵倒され、その後シャアに撃たれてようやくにして真意を知る。
ただ、シャアは生き残り、カイは祭りの後のむなしさとともにその復讐劇に醜さを見るわけですが。シャアは善意への懐疑を自己欺瞞して手を汚したのだから。
こうして考えてみると、1stガンダムとアリオンの構図は非常に相似的ですね。