と、そんなことをしている間にも世界はどんどん動いてまして、とうとう先日、
【ワシントン=大隅隆】米政府は19日、金融危機の拡大を防ぐための総合金融安定化対策の大枠を固めた。(1)公的資金を使った不良資産の買い取り機関を創設する(2)貯蓄性の高い投資信託MMF(マネー・マーケット・ファンド)の保護に政府基金最大500億ドル(約5兆4000億円)を使う(3)金融機関株式の空売りを全面禁止する――などが柱。投入する公的資金の規模は数千億ドル(数十兆円)にのぼる見込み。焦点の金融機関の不良資産買い取り策は来週中の決定に向け議会と最終調整を急ぐ。
米、金融安定へ総合対策 公的資金「数十兆円」、貯蓄型投信を保護
ってニュースが出て、衝撃的な展開と至ったわけです。
一方これまで投資銀行はFRBから独立し、その分より効率的な業務を行い、多少のリスクを物ともせず、資本市場を有効に機能させ、当然配当や、彼らの給料は商業銀行のそれをはるかに凌いできたのだ。
しかし棄損した資本の修復はもはや不可能で商業銀行としてFRBの足かせを受けることと引き換えにその資本とブランドの保護を優先した結果がこれだ、と言える。
100年に一度・・・・まさにこれも100年に一度の歴史的ムーヴメントと言っていいだろう。 日本の新聞ももう少しこのあたりをきちんと伝えてもらいたい。
いずれにせよ、純粋な投資銀行という業態は本日をもって消滅したことになる。
アメリカ金融帝国の終焉
で、まぁ、ぐっちーさんとこで、こんな記事も出てるわけですけど。
で、なんですけどね、今、苦境にあえいでいて、死にかけのアメリカの金融界なわけですけど、アメリカの金融において、本気で死にかけているのって、金融というより、むしろ銀行だと思っているんですよ、僕。
というか、銀行ってシステムが死にかけ始めたのは、今に始まったことじゃなく、大体、1970年代から始まった動きであり、それは、今回の金融危機のせいじゃないんです。今回の危機の直接の原因は、サブプライムに端を発した問題でしたが、それは直接の危機の原因であって、アメリカの銀行の苦境の背景ってわけじゃないんです。アメリカの銀行は、もうずーっと前から苦境に立たされており、その原因の背景は、サブプライム問題とは、全く別の場所にあるんです。
だから、今日は、そのあたりの問題について、話そうかな、と。本当は、もっと早めに書きたかったんですけど、結婚した妹が甥をつれて遊びにきてて、甥があんまりに可愛いので、そっちにかまけてて、何もできず、今日になってようやく書き始めたんですけどね。
序章 銀行を殺した蛮族
銀行はかつて、紛れもない独占体でした。独占企業という定義を探したければ、かつての銀行こそ、それを体現した存在だったんです。銀行は、政府からの手厚い保護をもらっており、新規参入は規制されており、それゆえ確実に利益をあげることができる存在でした。大恐慌から1960年代あたりまで、銀行の倒産は、主に詐欺などによる経営者側の怠慢によるものでした。
銀行とは、言ってみれば、高い城壁によって囲まれた白銀の塔だったわけです。しかし、銀行の繁栄は、永遠ではありませんでした。彼らは、独占企業が常にそうであるように傲慢になり、企業努力でなく、独占によって利益を引き出す存在になっていました。そして、彼らは、知ってから知らずか城塞のうちに蛮族を引き入れてしまったんです。
かつて、ゲルマン人を傭兵としてつかったローマが、その後ゲルマン人によって滅ぼされたように。
この物語は、ある意味で、現在進行中のメディアとインターネットの関係においても当てはまります。メディアは、かつては独占企業でした。
マスコミって一昔前の銀行業界みたいだよね
以前、R30さんがこんなエントリ書いていましたが、メディアは、初期において、インターネットを無邪気に礼賛していた時期もあります。それが、現在の苦況をもたらすとも知らず。ヤフーに格安でニュースを提供した新聞社のように。
しかし、ネットは、紛れもなく、メディアに対する蛮族でした。かつて、メディアは、その資本や政府からの規制によって市場を独占していました。日本では間違い無く、今でもそうです。しかし、ネットは、メディアを守っていた城壁を破壊してしまった。ネットとは、メディアの独占を守ってきた門に打ち込まれたくさびでした。
それは時来たらば、門を割って城壁の中に蛮族を招きいれ、略奪への道を拓くもの。
揶揄的な表現を使いましたが、アメリカのメディア、特に新聞の苦況が明らかになるにつれて、メディアはようやく自分たちを守っていた城壁がもはや存在しないことに気づいた節があります。彼らを守っていた城壁はもはやなく、蛮族が自分たちの塔の下に迫ってきたことをようやく知った、というのが今の状況でしょう。
銀行が知らず知らずに、自分の城壁の中に招き入れてしまった蛮族。
それは、コンピューターと言いました。眼鏡をかけた小太りのギーク達----コーラを飲んでハンバーガーを食べる文化の体現者−−−−のおもちゃだったコンピューターは、ムーアの法則の下、指数関数的な成長を遂げ、銀行の独占という門にくさびを打ち込んだのです。スーツを着てワイングラスを傾けるバンカーの文化とは相容れなかった二つの文化の衝突は、銀行という産業の変化の始まりでもありました。そして、銀行の凋落の。
銀行にとってのコンピューターとは、メディアにおけるインターネットに相当するものでした。諸刃の剣だったんです。自ら利用することができるが、自らを殺しもする便利な道具。
第一章 銀行のはじまり
現状の銀行の苦況を説明するために、そして、何故、コンピューターが銀行にとっての蛮族となったのかを理解するには、ニューディール時代のアメリカまでさかのぼる必要があります。
マーチン・メイヤーは、その著書「バンカーズ」でこんなエピソードを紹介しています。ある長年銀行につとめた職員が「貴方が銀行に勤めてから何が変わりましたか?」と問われた際に「クーラーがつきました」と答えた話です。銀行は、ある時期までは、ほとんど業務内容が変わりませんでした。
かつて、銀行は、9時から3時くらいまでしか営業していませんでした。これは彼らが怠慢であったからでなく、様々な引き出しや貸し付けなどの計算をしたり、数字の帳尻をあわせるためには、それなりの時間がかかったからです。そのためには人の手による強力な会計システムが必要であり、それを提供できる人員をもてたのは銀行くらいのものだったわけです。
これは、銀行を独占企業たらしめた原因の一つでした。彼らは、ある意味では、銀行を守る衛兵だったんです。他の企業がもってない強力な。銀行を守っていたのは、政府による規制、そして、こういった人々でした。
この二つの障壁こそが、銀行を守っていたものの正体であり、彼らのビジネスモデルが優れていたからではありません。銀行のビジネスモデルは単純なものでしたから。
これは、今のメディアとインターネットの関係にも当てはまります。メディア、特に新聞の独占は、政府からの規制と日本の優れた宅配制度によるものだからです。しかしネットは後者を破壊してしまった。誰でも世界にむけて発信できる力を与えてしまった。インターネットに接続できさえすれば。これは、誰にでも新聞がもてるということを意味します。門は開かれてしまったんです。
この話は後にまわすとして、銀行は、そのビジネスモデルの性質上、「短く借りて長く貸す」が宿命となります。
どういう事かというと、ちょっとした例え話をしますが、とある所に頑丈な金庫をもった金庫番がいたとします。その金庫番は、とても強くて、泥棒なんか簡単に撃退することができたとします。
ある時、金をもっていた人達は、自分達で金を保管しておくより、その金庫番に金を預けた方が安心だという事を発見しました。そして、金を金庫番に保管してもらう見返りに手数料を払うようになりました。
金庫番は、最初手数料をとるだけで満足でした。十分儲かったからです。しかし、そのうち、金庫番の真似をする人達が現れて、だんだん、もらえる手数料を下げないと、お客は金は預けてくれないようになりました。
困った金庫番ですが、金庫番は、ある顧客の金の引き出しは、他の顧客の金の預け入れによって相殺され、金庫の中の金の量は、ほとんど一定だということに気づきました。
そこで、金庫番は、一計を案じました。手数料をほとんどタダ同然に安くした上で、金を預けてくれたら、そこに金利をつけることにしたんです。もちろん、すぐさま、金庫番の金庫は金で一杯になりました。
そして、引き出しに応じるのに十分な金を金庫の中に保管した上で、残りの金を貸し出して所得を稼ぐことにしたんです。(主に長期で)
短く借りて長く貸す。これが銀行の宿命を説明できるのは、こういう理由からです。貸し出しに進出することによって、金庫番は、銀行と呼ばれるようになりました。これが銀行のはじまりです。
これこそが、かつての銀行業のビジネスモデルです。単純な説明ですが、ちょっと難しい言葉を使うと、貨幣的機能(預け入れと支払い)と貸し付け機能の二つをもった存在。金融仲介者。それが初期の銀行だったんです。
しかし、この二つの機能が結びついた時、最初の危機の芽が産まれました。預金者に金利をつけて支払わねばならない(支払いリスク)と貸した金を回収しなければならない(貸し出しリスク)を銀行は抱え込んでしまったんです
金を貸し付ける。それは、すなわち、いくつかのリスクを背負い込む事を意味しました。
もし、貸した金が返ってこなかったら、金庫の中から金が減って行きます。そして、いつかは、全ての預金者に金を返せなくなるかもしれないからです。
また一度に全ての預金者が、金庫の中から金を引き出そうとしたら、金庫番(銀行)は、その全てに応じることはできません。なぜなら、金庫の中の金の大部分は、貸し付けに回されているからです。
もし、預金者が金を引き出そうと一度に殺到したら、金庫番は、支払いができず、預金者から引き裂かれてしまうでしょう。もしくは、二度と金を預けてもらえなくなり、彼らは二度と旨みのある商売ができなくなる。
これは、のちに金庫番が「銀行」と呼ばれるようになってから、「銀行取り付け」と呼ばれるようになりました。この銀行取り付けは、銀行にとって最大の恐怖でした。
第二章 世界恐慌
人間は恐怖を感じるとその場から真っ先に逃げだそうとする性質があります。株の例えで説明するとわかりやすいのですが、株式市場では、暴落が起こると、全ての株が、良い悪いに関わらず下がります。悪い株は価値がないから、たたき売られます。しかし、悪い株には買い手はいません。そこで良い株が換金しやすいために、より一層売られることになるんです。自分の資産を守ろうと。そして全ての株が落ちるんです。みんなが出口に向かって一斉に逃げ出すために、こういう事がおこるわけです。
銀行取り付けも同じです。銀行が悪い経営状態になると、大抵の場合、倒産の前に預金を引き出そうと預金者が列をなしました。そして、不安は伝播します。他の銀行もやばいんじゃないか。そういう噂がたち、預金者が銀行業全体に信頼を失うと、経営が良い銀行にまで取り付けが伝播しました。少しでも自分の預金を守ろうと預金者が一斉に全ての銀行から預金を引き出そうとしたからです。これが銀行取り付けです。
いったん、預金者が銀行業全般への信頼を失うと、しばしばこれが起こりました。
そして、それが大規模におきたのが、世界恐慌が起きたアメリカにおいてでした。1930年、銀行倒産が増加したことが、銀行取り付けを引き起こしました。当時は金本位制であったので、急速に銀行から金が引き出されました。恐怖におびえた銀行は、急激に貸し付けを減らし、準備金を増やしていきました。
準備金が増えたので、一時的に取り付けは減ったものの、貸し付けが急激に減ったことにより、資金難に陥った企業がバタバタと倒産していきました。
そして、企業倒産は、貸し倒れを増やし、1931年、再び銀行倒産が増え始めると再び取り付け騒ぎが起こります。このことが、さらに銀行に貸し付けを削減させることになりました。結果として、資金難による企業倒産が起こり、景気は坂道を転がり落ちるように悪くなっていきました。
不況と金融危機。そして、1931年、耐えきれなくなったイギリスが金本位制を放棄しました。アメリカもそれに追随するという予測から、海外の投資家は、ドル資産を売って金を買いました。結果としてさらに、銀行からは金が消え失せ、アメリカの銀行は、金準備を失って、取り付けがおこった場合には、耐えきれない状況に追い込まれたんです。
追い込まれたのはアメリカの中央銀行であるFRBでした。取り付けに備える為の金をアメリカの銀行を戻すためには、金利を引き上げるしか手がなかったんです。
そして、FRBは、銀行が貸し渋りをしている最中に、金利をひきあげたんです。このことが、さらに企業に金を借りにくくしました。
また、金利の引き上げは、この場合、世界に向かってアメリカは金準備を急速に失っているとラッパを吹いて知らせるようなものでした。金喪失による金融不安から銀行取り付けが増え、銀行の倒産と企業の倒産を加速度的に増えました。世界恐慌は、こうしてフルスケールで進行することになりました。
現・FRB議長バーナンキは、「フリードマン生誕90年を記念して」という講演の最後で、この世界大恐慌が「FRBによって引き起こされたものだった」と語ってしめくくりました。
通常であれば、普通の規模の不況であったはずのものが、FRBの誤った金融政策、つまり、不況、デフレ時の金利の引き上げというプロセスを経て増幅され、世界規模で進行することになったからです。
この場合、正しい金融政策は、金本位制を放棄した上での金利の引き下げ、銀行からの不良債権の買い取りでした。そして、実際に、それを早期に行った国々は、早期に不況から脱出しましたが、アメリカのように金本位制度に固執した国では、それが不況とデフレを加速度的に早めることになったのです。
「金本位制度なくして金融はなりたたない」という誤った信念の下で、銀行はバタバタと倒産し、生き残った銀行も貸し付けをへらし、金準備を守るために資産の投げ売りを開始しました。それはデフレを加速させ、企業倒産と失業者を馬鹿げたほど増やしました。
そして、銀行間では、お互いが疑心暗鬼に陥りました。それ以前であれば、取り付け騒ぎにあった銀行を救済するため、他の銀行が融資を行って、取り付け騒ぎが起こっても、ある程度は対応することは可能でした。
しかし、今回の危機の最中では、銀行間ですら、「向こうの銀行は経営がやばいんじゃないか?」という疑心暗鬼から、そういった融資は滞ってしまい、銀行は八方ふさがりの状態におかれたんです。
1932年、議会とフーバー大統領は、銀行の危機的な情勢に対応し、ついに行動を起こしました。RFC(復興金融金庫)を設立し、危機的な状況に対応するため、銀行への流動性を提供して資金繰り難を緩和し、取り付けを沈静化させるのが目的でした。しかし、当時の実質国内総生産比で約一・五%にあたる10億ドル近い資金供給があったものの、金融危機は終わりませんでした。無論、改善はしましたが。
1933年、RFCの貸し付けが問題になりました。議会では、その貸し付けが政治的影響下にあるのではないかという批判がなされ、RFCは自らが貸し出している銀行の名前を公表しはじめたんです。
結果は最悪でした。なぜなら、それは黙示録の角笛だったからです。RFCから借り入れをしている銀行は危険な状態だとアメリカ中に大声で触れ回るようなものでした。同じような間違いをちょっと前にしてたのに、ここでも同じ間違いを繰り返したわけです。
結果として、取り付け騒ぎが起こり、RFCから借り入れを極度に銀行は嫌がるようになり、最後の貸し手、あるいは流動性供給の最後の手段であったはずのRFCは機能不全に追い込まれたんです。(なんか最近のどっかの国の流れと似てますね)
世界大恐慌はいくつかの事を我々に教えてくれます。
1、金融システムの崩壊は、実態経済に多大な負担をかけるため、金融システムの崩壊に直結する預金取り付けを防ぐシステムの必要性
2、金本位制度は、インフレを防いでくれる可能性はあるが、危機の発生時にはデフレを加速度的に進行させてしまう可能性をもつ
3、流動性の供給は役には立つが、金融危機の根治にはなり得ない
これが、1929〜1933年のアメリカからの教訓です。
第三章 ニューディール銀行改革
ここでは、金融政策のみに話を絞ります。そして、これが一番大事なんですが、何故か、日本の教科書じゃ公共事業ばっか取り上げててどうなってんだとか思うわけです。
世界不況からアメリカを立ち直らせたのは、金融システムの抜本的な見直しと再建に成功したからなんです。ニューディールの財政政策は大して役にたたなかったのですが、ニューディールの金融改革は、劇的な効果を発しました。
まぁ、僕の時代の教科書の話なんで、今はどうなっているのかはシランのですがね。
ルーズベルト政権は、第一の目的として、銀行への信頼を回復させることを目標としました。これは、緊急銀行法によって達成されました。これは、1933年の政権発足後、わずか5日後にルーズベルトが署名して法律となりました。
この法律の中で、最も重要な点はRFCが銀行の優先株を購入することが認められたことです。最終的に、その後の7年間でRFCは11億ドル相当の自己資本を銀行に供給しました。
この点は、現在の金融危機の中にあって、もっとも強調しておきたい点です。
なぜ、これが劇的な効果を発揮できたかというと、それは、銀行が自己資本を拡充することが可能だったからです。
フーバー政権の下では、10億ドルの流動性が銀行に供給されました。これで銀行の資金繰りは助かりますが、銀行にとっては負債が増えるだけのことで、財務体質はむしろ劣化します。そのため、預金者は一層、銀行から預金を引き出そうとし、銀行間の疑心暗鬼は解消されません。そのため、金融危機は終息しないわけです。(これは現在の金融危機に際しても極めて多くの教訓を含んでいます)
しかし、RFCによる優先株の購入は、即座に銀行の自己資本を増やし、財務体質を強化します。その結果、銀行のバランスシートは劇的に健全になるので、預金者は、銀行に対する信頼を回復するわけです。
また、銀行間の疑心暗鬼も取りのぞかれます。そうすれば、銀行間の融資が復活し、取り付け騒ぎがいくつか起こっても、銀行同士の短期融資で支え合うことが可能になります。金融システムは再び回り始めます。デフレへの連鎖は、ここで終わるわけです。
ここが肝で、大恐慌において、流動性供給が失敗し、優先株方式が成功した理由です。
取り付け騒ぎの根っこである、預金者の恐怖を和らげ、銀行への信頼を取り戻し、銀行間の疑心暗鬼を取り除くことこそが、重要なんです。
RFCは、いわば、S&L危機の時のRTC、サブプライム危機におけるアメリカ議会で審議されている不良債権の買い上げ機関の前身とも言える存在です。
公共事業も、流動性供給もきかなかった場合の最後の最後の手段、エース・イン・ザ・ホールと言えます。
多くの問題がありますが、しかしこれは、金融危機がにっちもさっちもいかなくなった場合にはやらざるを得ません。ためらわず行うべきだと僕は考えます。それが例え、納税者の負担になろうとも。大不況とデフレが吹き荒れる世界になるよりゃマシです。
金融危機から不況になったからといって、公共工事や流動性供給をするのでなく、すぐさまこれをやれればいいのですが・・・それは政治的に難しいです。本当に危機的な状況にあるというコンセンサスが出来るまでは、行えないのが難点です。現在のアメリカ金融危機においても、リーマンが倒産して、世界中に破滅の鐘を響き渡らせて、やっと、これが始まったわけですからね・・・
危機の初期で、これをやってれば75兆円もかからなかったのに・・・まぁ、10年前に、不良債権問題を先延ばしして、100兆円払った島国もありますが。景気のいい話です。
「第四章 銀行は何故規制されねばならなかったか」へ続く。(最近、こればっかりですが、いや、このエントリだけは最後まで書きます。まだ、何故PCが銀行を追い込んだのか書いてないし。絶対に。多分、うん、、多分・・・WoWをする予定はしばらくないし・・・・でも、全部で12章くらいになるかもしれないので、途中で力つきるかも・・・)
ニューディールの金融政策は知らなかったので大変勉強になりました。
次回も期待して待っています。
というか、ずっと放置されていたので、もう更新しないのかなーと・・・・・。
いや、良かった(笑)
ニューディールの金融政策は知らなかったので大変勉強になりました。
次回も期待して待っています。
というか、ずっと放置されていたので、もう更新しないのかなーと・・・・・。
いや、良かった(笑)
お手数ですが、始めのコメントを削除して頂けると助かります・・。
まず貸し付けありきで始まって、レバレッジを利かせるために人からお金を預かって貸し付けを行うようになったのが「預金」の始まりでしょう。
なので「お金を貸す」ことがリスクなのではなく「預かること」(信用取引を始めたこと)がリスク。
あと、銀行に対して貸し付けることを「流動性の供給」とは今も昔も呼ばないと思いますが…。
…いや、生存確認できただけでも良かったですこれからも頑張って下さい。
銀行券=兌換紙幣(金とか銀と交換できる証紙)という表現から、金貨の預かりが先にあったような感じがしますが、いかがでしょう。あと、和洋とも両替商や豪商が預金機能+為替決済機能を持つにいたり、貸出しも行う銀行に進化したように思っていました。
一方、信用が低い時代は、金貸しはあまり大規模には行われず、質屋形式だったのではないかと思います。
私も詳しいわけではなく、下記とかの受け売りですが、いかがでしょう。
http://www.tctv.ne.jp/koba-y/ooedo/ryougae.htm
http://video.google.com/videoplay?docid=-446781510928242771
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%82%BA%E6%9B%BF
質屋はまた別の商売ですね。
両替商の進化形態が銀行というのはその通りだと思います。
ただ、そもそも両替商というのは為替決済の商売でありますし、「預金」というのも、遠隔地にお金を送りたい人が送金相手の為に一時的に預けるのであって、現在の「預金」とは意味合いが異なります。
豪商による金貸しも現金勝負(自分のお金)に限られていました。
当然、両替商兼金貸し、という人もいましたがひとから預かった金を貸し付ける商売ではありません。
取り立て能力の増強と保険運営による債務の証券化をという経験を経て「人から預かったお金を貸し付ける」ことができるようになり、それによって初めて「お金を預かるだけ」という商売が始まったのです。
なかなか良いポインタが無いのですが、たとえば
http://www.boj.or.jp/type/press/koen/ko0401a.htm#0202
など参考になりますでしょうか?
貸し付け→両替(為替)→信用取引(ここに預金が含まれます) という流れの発展になります。
ありがとうございます。