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2008年11月06日

日本の不良債権処理の歴史を書いてみる

民主党候補バラク・オバマ上院議員が、大統領選挙に勝ち、アメリカのほうの話題で持ちきりなんですけど、日本の方も見逃せない動きが出てます。




金融機能強化法改正案、衆院委で可決




以下、コピペですが、



 公的資金で金融機関の予防的な資本増強を可能にする金融機能強化法改正案は5日の衆院財務金融委員会で、自民、公明両党が一部修正を加えた上で賛成多数で可決した。6日の衆院本会議で可決、参院に送付され、7日の本会議で審議入りする。民主党は野党が多数を占める参院で再修正する構えを示している。

 参院で再修正法案が可決されれば、与党は再修正前の法案を衆院で再可決することも視野に入れる。ただ、再可決の時期などは二次補正予算や国会の会期延長の動向などとも絡み、不透明感が強い。



正直、うさんくさい動きなんですけどね。なんか、日本もそこらでキナ臭い政治的な状況が出てきてて、不安きわまりないんですが、今日は、日本の不良債権処理の話でもしようかと。


いずれ、オバマ大統領の下で、アメリカは抜本的な不良債権処理をしなきゃいけません。そんなわけで、日本の不良債権処理の話を、今更ですが、振り返ってみるのもいいんじゃないかと。まぁ、そういうわけです。

1990年台の話から始めてもいいんですけど、今日は、そこらはすっ飛ばして、2000年台に起こった不良債権の最終処理の話をしようかと思います。


1,バブルの発生と初期の不良債権への対策の失敗


簡単に1990年台の流れをおさらいしますが、1980年台を境に、大企業が資金の調達を直接、金融市場から行うようになると、銀行はそれまでの優良大口融資先を失っていきました。ここで注意して欲しいのは、これは全世界的な流れであり、不可逆的なものであったという点です。


その結果、多くの銀行は、伝統的な銀行業務から以前のような収入を得ることが難しくなりました。そのため、銀行は、以前であったら手を出さなかったような幾つかの業務に進出していかざるを得なかったんです。


一つは、非利子収入です。これには、トレーディング業務、デリバティブ、手数料を稼げる業務などが含まれます。主要先進国の銀行における非利子収入が1980年台、増え続けたのはこういう理由です。1980年台を通じて、銀行が変化したのは、構造からみても明らかです。伝統的な銀行業の衰退が、この時始まっていました。しかし、伝統的な役割が必要とされなくなりつつあるのに、銀行は本当に社会的機関として必要され続けるのか、という議論については、ずっと置き去りにされたままでした。


そしてもう一つが、信用力の低い借り手に対する融資です。これも主要先進国で増えていきました。優良な大口の借り手は銀行の前を通り過ぎて、直接、市場から資金を集める事ができるようになった為、銀行は、より信用度の低い借り手に対する融資に生き残りを賭けざるを得なかったんです。そして、それは、銀行がよりリスクを取らざるを得なくなるという事です。


これは、金融システムそのものが不安定になる、という事でした。よりリスクを取らざるをえないのであれば、これは必ず起こることでした。銀行が、1980年台において、よりリスクを取る方向で動いていったのは、先進国における貸倒引き当て金の額からもわかります。これは、1980年台を通じて、増加していました。


しかし、1980年台を通じて起こった金融システムの変化が何をもたらすのか、それを実際に理解している人は少数でした。これは、コンピューターと金融技術の進歩によって引き起こされた流れであり、不可逆的なものでしたが、その結果がどのような形を世界に引き起こすのか。それを世界が現実に目のあたりにするのは、2007年、今世紀最悪の金融危機が起こるまで、関心を集めませんでした。


最初に悲劇が起こったのは、1980年台、ノルウェー、フィンランド、スウェーデンです。金融の自由化と共に、銀行が放埒な融資をしたこと、それに伴って資産バブルが起こり、これらの国は不良債権の山に沈みこんだんです。


そして、その次に金融危機が起こったのが、日本でした。


1980年代、大企業が、銀行の前を素通りして、直接金融の世界にいってしまって以来、日本の銀行は、ノンバンク向けの貸し付け、不動産貸し付けの世界にのめりこんで行きました。それが破滅への道の始まりでした。


おりしも、日米貿易摩擦の中、日本はプラザ合意を受け入れ、円高、内需型経済へと柁を切っていきます。


しかし、円高アレルギー、円高不況を恐れた政府は、ここで財政政策を発動。日銀も世論に押される形で、利下げに踏み切ります。さらに悪いことに1987年、ブラックマンデーが起こり、日銀は、公定歩合を2.5%まで下げざるを得ない自体に追い込まれました。


歴史的な低金利、内需拡大のための財政政策、リスクテイクにひた走る金融機関。この三つが組み合わさって、バブルへの鐘が鳴り始めました。


円高にも関わらず、1987年、日本の景気は回復しはじめます。円高でも景気は回復できるんです。ちゃんとね。しかし、円高不況を恐れる政府と日銀、そして民間セクターの思惑もあったんでしょう。日本の円高アレルギーは信じられないほど高いものでしたから。


日銀は、景気が回復しているにも関わらず、低金利を維持。そして、アメリカからの内需拡大の圧力もあっての財政政策。リスクテイクに走る銀行。


この三つの要因が組み合わさり、マネーサプライが急増しました。おりしも円高の中で商品やサービスの価格は抑えられていたため、荒れ狂うマネーサプライは、株と不動産に集中的にむかい、物価が落ち着いているのに、株と不動産の価格が急上昇する自体が起きました。そうバブルの発生です。


日本の六大都市における市街地の平均価格指数は1985〜1990年までに3倍に高騰。株価も1985年から1989年までに三倍に高騰しました。


当然のことながら、バブルは弾けました。一つには、日銀の急激な利上げ。もう一つは不動産の総量規制によって。


不動産バブルの崩壊、そして株式バブルの崩壊は、リスクテイクに走った銀行の経営を直撃しました。


さらに日本の銀行にとって悪いことがありました。バーゼル合意です。


バーゼル合意は、銀行の自己資本比率の最低水準を8%以上とした国際統一基準でした。国際銀行システムの安定性のために作られたものでしたが、これを達成することが、バブルの崩壊によって日本の銀行は難しくなったんです。


株式の含み益と不動産の含み益が、バブル崩壊後の不動産価格の下落、株式の下落、不良債権の増加によって消えて行く中で、日本の銀行の格付けは下がっていきました。


抜本的な対策は、取られることなく時がすぎていきました。バブルが崩壊した1991年ジュリアナ東京で、踊ってたおねーちゃんがその象徴とも言えますが。


最近、どっかの国の首相(たしかルーマニア)が言ったように、「船底では浸水が始まっているのに甲板でダンスパーティを踊っていた」わけです。日本はね。


政治的空白は許されないはずでした。しかし、公的資金の注入をおそらく気づいていた政治家、財政金融に関しては右にでるものがいなかった男、宮沢喜一は、結局、それができなかった。





こちらの本から、引用させてもらいますが、1992年のことです。公的資金を注入、不良債権処理を行い、資産デフレになる前に金融システムを再建させる最初のチャンスと言えた時期でした。当時、首相の座にあった宮沢は軽井沢での講演で、


「銀行の貸し出し能力が、不良債権などできわめて弱っているのは事実だ。これが株式市場にも反映している。これが、今度の不況の、今まで経験したことのない要因だ。市場経済が正常に機能しない時にしかるべき方途を考えることは、政府、中央銀行の当然の責務だ」

「必要なら公的援助をすることにやぶさかではない。ただし、これは銀行を救済するのではない。国民経済の血液たる金融がうまく動かなければ迷惑するのはお互いだ。国民経済全体のためならば、あえて(公的援助)辞するものではない」


「そのためには、銀行で十分に公的使命を考えてもらわなければいけないし、どれだけ不良資産を抱えているのか、ディスクロージャー(公開)もしてもらわないといけない」



今から見ると、どれも至極当然で、やらなければならないことでした。しかし、彼にはそのどれも出来なかった。すでに、金融ジャーナリストの間では、山一の飛ばし、兵庫銀行の危険性、信金、ノンバンク、住専問題が認識されていたようです。


しかし、現実的には、経団連からエコノミストにいたるまで、「公的支援反対」の大合唱でした。宮沢は、こうして、無能な英雄として、記憶されることになります・・・・最近、池田先生に批判されまくってるリチャード・クーはただ一人、この危険性を指摘しつづけましたが。リチャード・クーは1990年代の、ある意味では、嫌な言葉かもしれませんが、荒野の英雄と言えるかもしれません。彼は嵐の中で警告を叫んでいるようなものでした。


宮沢は、この危険性に気づいていた。ただ、どちらも、最後まで抜本策を打たなかった。彼は天才でした。経団連の人々も、グリーンスパンも、彼が傑出した知性の持ち主だったことを認めています。しかし、彼は財政と金融に関してはプロ中のプロだった。しかし、政治家としての力量に著しく欠けていた。それが、1990年初期の悲劇でした。


あと忘れちゃいけないのが、日銀の金利政策なんですがね。バブル崩壊の後の金利政策は、今、そこいらで攻められてますが、金利下げるの遅すぎ。


バブル前には上げるの遅すぎ。バブル後は下げるの遅すぎ。


2,金融危機と進まない不良債権処理

日本の銀行がノンバンク向けの融資と不動産融資にのめり込んでいった話はすでにしました。特に問題だったのは、住専です。



特定住宅金融専門会社の破綻問題

バブルは崩壊、地価が下落、不動産業者の担保価値の目減りは大きく、土地は売るに売れない状況となり、融資先は元金返済どころか金利の支払いすら滞る事態となった。融資は固定化、塩漬けとなり、不良債権化していった。結果的に1社を除き破綻した。

破綻した住専には農林系金融機関(農林中央金庫、各県の信用農業組合連合会(信連)、全国共済農業協同組合連合会)を中心とした金融機関が貸し込んでおり、これらが貸し倒れ、処理が遅れる事による金融システムの破綻を避けることを目的に住専法が作られた。本来は、特定住専に乱脈融資を行った金融機関が貸し手責任を負うべき物で、実際に破綻処理ではほぼ9割弱について債権放棄に応じたが、それでも住管機構に対し預金保険機構の子会社として7000億円弱の公的資金が投入されることになったため多くの批判があった。

なお、破綻した特定住専は清算され、経営者および親会社である金融機関は民事および刑事で、住管機構及びその後身である整理回収機構によって経営責任や融資紹介責任を追及されている。


住宅金融専門会社Comments



バブル後、不動産価格が下落していきました。農林系を中心とした金融機関は特に住専に貸しこんでおり、農林系の金融機関が破綻される可能性がでてきました。これが1994年あたりのことです。宮沢が懸念していた事態が、2年後に本格化してきたんです。


1994年、金融危機が始まります。まずこの年、東京協和、安全信金が破綻。日銀が主導し、受け皿銀行が作られますが、これは金融危機の序章でしかありませんでした。

1995年、コスモ信組、木津信、兵庫銀行が取り付け騒ぎを起こして破綻。バブル期の放埒な融資が原因でした。


1996年、金融危機を抑えるため、ついに住専法が施行され、6800億円の公的資金が投入されました。しかし、焼け石に水でした。足りるわけがなかったんです。アメリカは、S&L危機で、最初に5000億ドル(1ドル100円として5兆円)を投入して消化を図ったのに対して、日本は戦力の逐次投入という愚策をとったんです。また、この時期あたりから、ヘッジファンドは日本の銀行株の空売りを始めます。もっとも、この空売りは、本格的に日本の株式の下落が始まる1998年には、やめちゃうんですけど。ロシアがデフォルトしたせいで。


後手後手に回り続けた金融行政は、1997年、本物の金融危機を始まらせてしまいました。


1997年、以前から懸念されていた三洋証券、山一証券、北海道拓殖銀行が破綻。また、日本の銀行システムの不良債権への不信感からジャパンプレミアムが発生。さらに、アジア通貨危機の発生によって、日本の金融危機は乾いた薪に火がついたかのように燃え広がっていきました。


山一証券の破綻によって、ようやく、日本人に金融危機の深刻さ、不良債権の深刻さを知らしめました。まぁ、リーマン破綻によって、ようやく動き始めたアメリカ議会と同じようなもんですが。


1998年、2兆円が大手21行に注入され、金融ビッグバンが開始されます。まぁ、これはこれでいいんですが、何で一気にカタをつけないのかと小一時間問い詰めたい。額が少なすぎる。この年、日長銀が破綻、日債銀も破綻に追い込まれます。足りるわけがない。もっとも、この年、預金保険法が改正され、金融機能安定化緊急措置法が制定されます。やっと動きはじめた年でもあります。山一がやばいのは1991年あたりからわかってたはずなのに。とにかく、ここで30兆円の公的資金が危機管理用として預金保険機構に準備されました。


1998年10月、金融再生8法と金融機能早期健全化緊急措置法が制定され、預金保険機構に準備される額が60兆円まで増額されました。


1999年、ついに政治と金融の足並みがそろいます。日銀はゼロ金利政策に移行。大手15行に対して、7兆4000億円が投入されました。


これらの措置によって、破綻の連鎖という事態は回避されました。最悪の事態だけは免れたんです。しかし、時すでに遅く、その後、取り返しのつかないデフレが始まったのは、皆さん、記憶に新しいと思います。そして、2000年には、残った大手銀行の合併が始まり、4つのメガバンク、三菱東京、三井住友、みずほ、UFJが誕生しました。


しかし、アメリカのような抜本的な不良債権対策はなされないままでした。大手の合併は進んだものの、抱える不良債権の額がでかくなっただけ・・・とも言えます。


3、小泉と竹中による最終的不良債権処理

不良債権問題は、ここにいたるまで、解決不能の問題でした。しかし、やっとのことで、この問題に踏み込める政治家が登場します。2001年2月、森総理が退陣。

2001年4月の総裁選は、橋本龍太郎、麻生太郎、亀井静香、小泉純一郎の四人で争われることになります。このあたりは、まだよく覚えている人が多いと思います。本命と思われていた橋本龍太郎を小泉純一郎が破り、第87代内閣総理大臣に就任します。


「自民党をぶっ壊す!」「私の政策を批判する者はすべて抵抗勢力」とかなつかしーですね。


さて、ここで、小泉内閣になってからの、平成13年度年次経済財政報告をちょっとご紹介します。


「改革なくして成長なし」で有名なやつです。


年次経済財政報告


第2節 デフレの進行と金融政策

 日本経済は、緩やかなデフレの状態にある。デフレの要因は、?安い輸入品の増大などの供給面の構造要因、?景気の弱さからくる需要要因、?銀行の金融仲介機能低下による金融要因、の3つがあげられる。現在、我が国では、企業は過剰債務、銀行は多額の不良債権を抱えているため、程度が緩やかであっても、デフレは日本経済に悪い影響を与えている。デフレは、主に次の2つの経路を通じて、企業の設備投資を抑制させるなど日本経済を下押ししている。?過剰債務を抱えた企業の債務負担を増加させる。?実質金利や実質賃金の上昇が企業の収益を圧迫する。

 金融政策は、現在の経済を全快させる万能薬ではあり得ないが、日本銀行はデフレ圧力を和らげるためのさらなる施策を積極的に検討すべき段階にあると考えられる。




? 金融要因
 長期的には、インフレやインフレの逆であるデフレは、マネーサプライの動きによって決まることは知られており、マネーサプライが十分供給されれば、デフレは回避しうる。日本銀行ではこれまでになかった大幅な金融緩和策を講じているにもかかわらず、後述するとおり、十分な銀行貸出、マネーサプライの増加につながっていない。これは、物価を下げる構造要因と需要要因の力が強い中で、企業の過剰債務やそれと密接に関係する不良債権問題を背景に、企業の資金調達意欲が高まらないうえ、銀行の金融仲介機能が低下していることによるものである。



このあたりから、不良債権を問題視しているのがわかりますね。


しかし、実際に、不良債権処理が本格化したのは、2002年の小泉内閣改造からです。覚えている人も多いと思いますが、金融相、柳沢伯夫が更迭され、竹中平蔵が経済財政政策担当大臣と金融相を兼任することになってからです。


内閣改造後、小泉は2004年度までに不良債権処理を集結させることを課題と宣言します。これが、不良債権の最終処理の始まりでした。


この時期の竹中の考えは簡明です。日銀がベースマネーを前年比で30%増やしているのに、マネーサプライが3〜3.5%しか増えていないし、銀行貸し出しも減っている。つまり、銀行の信用創造機能が機能していない。その原因は不良債権問題であり、これを解決しないことには日本経済は回復しない、というものです。まぁ、批判もありますが、これが小泉改革の目玉の一つであり、平成13年度年次経済財政報告にも、似たようなことがかいてあります。


要は、やっと本気で不良債権処理を進める腹づもりの政治家が出てきたってことなんです。ただ、この問題については、小泉は全部、竹中にぶん投げて、電話で「竹中さん自分の考えを絶対に曲げちゃいけない。自分の信念を貫き通すんだ」って励ましてたくらいだったそうですが。。よく言えば信頼して任せたともいえますが、何ともいえないエピソードが残ってます。


こうして、竹中平蔵による不良債権処理が始まります。ただ、その途は最初から前途多難でした。


竹中は、まず、不良債権処理のためのプロジェクトチームを作り、メンバーとして、木村剛香西泰奥山章雄吉田和男池尾和人に白羽の矢をたてて、結集します。


これにはびっくりのエピソードが残っていて、最初の席上、池田和人が、


「不良債権問題は解決不能ですよ。解決できないことに関与するのは学者の良心が許さないので、私はメンバーからおろさせていただきます」


といって、メンバーから外れた経緯が残ってます。まぁ、そんだけデリケートで難しい問題でした。といっても、これを放置することもできない。


何度も繰り返すようですが、最初から、これは前途多難でした。そもそも、メンバーの一人である、木村剛といえば、「30社リスト」と呼ばれる不良債権問題の実態を問題視するリストを作った人。ブロガーとしても有名な人ですが、この人がメンバーにいたことで、いきなり株価が急落。まぁ、いわゆる「竹中ショック」が起きたくらいです。


柳沢が金融相を外され、竹中が金融相を兼任し、木村が竹中チームに入った。これは、柳沢と金融庁がそれまで述べていた「不良債権処理は終わりつつあり、日本の金融機関は健全化しつつある」ってのを真っ向から否定するものに他ならなかったんですね。


だもんだから「不良債権処理は片づいていない。これから断固とした態度でやる」ってメッセージを市場に送っちゃったんです。それで、銀行株が凄まじい下落。もともと、バブルの傷が浅かった東京三菱は、それほど下落しませんでしたが、不良債権問題を引きずっていた、みずほ、りそな、三井住友は酷い下落、UFJに関しては、株価が半額まで売り込まれました。


でも、これで明らかになったことがあるんです。つまり、メガバンクで最大の下落幅を記録したUFJは不良債権が多いと市場から見られているって事です。そして、UFJは、その後、問題を起こしたのは、知っておられる方も多いと思います。


2002年10月、ペイオフの全面解禁が二年延期されました。これは、竹中ショックで、株価が急落した銀行に対する飴と思われ、メディアで散々たたかれました。が、現実的な意味では、その後に控えている不良債権処理に伴う外科手術中に取り付け騒ぎが起きないようにするため、と解釈するのが無難です。そして実際にそうなったわけですから。まぁ、好意的な解釈ですが。


今後、欧米でも同じような外科手術が行われることになると思いますが、一時的にですが、この手の措置を必要とする国は出てくると思います。


だって、不良債権処置って、要するに、「銀行に損失全部吐き出せ」ってことなんですから。そうなりゃ赤字がでまくって、取り付けが起きてもおかしくない。そうなったら、それこそ金融危機です。日本は不良債権処理で運良く起きませんでしたが。



4,竹中プラン


竹中チームのメンバーであった吉田和男は、元大蔵官僚で、銀行局に勤務していた時期があります。その彼から、竹中は印象的な話を聞いていました。


「銀行局は威張っていても、銀行の本当のところはわからない。だから結局は行政指導といっても銀行のいいようにやってきた。それが金融行政の正体です。まるで、銀行局が銀行の箸の上げ下ろしまで管理していたかのような言われ方をしたが、それは銀行側にとって利益があるようにやっていただけなんです。」



これ、アメリカのほうでも一緒なんですよね。最近の規制緩和だってそうですが。S&Lの崩壊なんて、もう滅茶苦茶で、S&Lを無理矢理生き延びさせるために行った規制緩和とか特に。結局、そんなもんなんです。というか、銀行のことは銀行が一番よく知っていて、外からじゃ、なかなか内部のことなんてわからないんです。特に銀行は。






このあたりのことは、木村剛著の、「竹中プランのすべて」が良いんで、興味のある方はどうぞ。


そんな経緯で、不良債権処理のための本格的な動きが始まります。繰り延べ税金資産の自己資本への参入上限を10%以下にするってのが目玉だったんですが、これは結局ぽしゃりました。なんせ、これをやると、大手行ですら、自己資本が8%を切ってしまう。そうなれば、バーゼル規制にひっかかってしまい、また公的資金をいれないといけなくなる。


公的資金。


これをやれば、間違い無く、また国民から総すかんをくらうのは確実でした。そのため、与党からも銀行側かも反発がでました。そのため、結局、妥協せざるを得ない所まで追い込まれたんですね。


最終的に、これはぽしゃったんですが、そのかわり、



(ウ)繰延税金資産の合理性の確認

 主要行の経営を取り巻く不確実性が大きいことを認識し、翌年度を超える将来時点の課税所得を見積もることが非常に難しいことを理解した上で、外部監査人に厳正な監査を求めるとともに、主要行の繰延税金資産が厳正に計上されているかを厳しく検査する。



という項目が書き加えられました。


これは、その後、成立した「金融再生プログラム」で読めます。


これは、竹中平蔵が仕組んだトラップでした。「繰り延べ税金資産の自己資本への参入上限10%以下」は一気に問題を解決させるものでしたが、竹中は違う方法を使って、公的資金、そして不良債権処理を加速させる罠をしかけたんです。



「外部監査人に厳正な監査を求めるとともに、主要行の繰延税金資産が厳正に計上されているかを厳しく検査する。」



これが、肝でした。正直、竹中って人はギャンブラーです。持ち札が弱いのに勝負に出たとしか言えません。


竹中プランによって銀行は、貸倒引当金を積み増さざるを得ない方向に追い込まれ、赤字を計上せざるを得ませんでした。しかし、それでも、自己資本比率が基準を切って、公的資金の投入なんてことはないと、与党政治家も銀行も思ってたんです。


ところが、竹中プランに付け加えられた「外部監査人に厳正な監査を求めるとともに、主要行の繰延税金資産が厳正に計上されているかを厳しく検査する。」という条項が問題でした。


これは、とりもなおさず、銀行と監査人の間の、なぁなぁの関係を終わらせるためのものだったからです。


5,りそなに仕掛けられた罠


竹中チームの一人であった、日本公認会計士協会会長の奥山章雄は、『会長通牒 「主要行の監査に対する監査人の厳正な対応について」』を公表します。



将来の課税所得の合理的な見積可能期間(おおむね5年)は、個々の会社の業績予測期間、業績予測能力、会社の置かれている経営環境等を勘案した結果、5年以内のより短い期間となる場合がある点に留意する。



これ、わかりにくいですけど、要は「赤字だらけの銀行には、繰延税金資産を5年分認めたりしたら駄目だぞ。経営状態が悪いなら3年とか妥当な範囲にしろよ」って事です。


企業の粉飾決算に荷担した監査法人は、無限責任を負わされます。だから、粉飾決算と思われる行為は、そうそうできない。そして、会長通牒で、繰延税金資産を厳格に監査しないと粉飾決算になるよ、というメッセージを送ったんです。


ここが肝でした。


繰り延べ税金資産を外して資産と負債を比較すると、負債超過になるメガバンクが存在したんです。これは、みなさん、知っておられるでしょうが、りそなグループ、でした。竹中は、ここをほとんど狙い打ちにしたんです。まぁ、うまいこと三味線ひいて、自分の意図を隠し続けたもんだと思いますよ。


一旦、債務超過だと判断されれば、嫌でも公的資金いれるしかなくなりますからね。


しかし、これは二つの難関があります。一つは、りそなの監査人が厳格に繰延税金資産を査定すること。もう一つは、りそなが債務超過だと判断された場合に、公的資金の注入が必要になるわけで、それには小泉の支持がいる。


後者は驚くほど簡単に言質が取れたそうです。本当に、事態の深刻さが小泉にわかっていたかはわかりません。ただ、首相の言質をとったことで、あとは監査法人の出方次第になった。


これは本当のギャンブルです。もし、ここで、監査法人が寝返って、りそなにつけば、全てがご破算になる可能性があった。


しかし、ここで勝ったのは竹中でした。りそなの監査を請け負っていた新日本監査法人は、りそなの繰延税金資産を3年しかみとめない方向に柁を切ったんです。

「繰延税金資産計上前で債務超過の会社は、繰延税金資産の計上を3年分しか認めない」


それが新日本監査の答えでした。これで、りそなの運命が決まりました。自己資本比率が4%を割り込むのは確実で、公的資金をいれるしかなくなったんです。


小泉の言質はすでに取ってあり、公的資金の投入して一気にりそなの不良債権問題にケリをつける道筋をここでつけたわけです。公的資金投入となったら、なんとかそうならずに済むように、工作するのも当然で、このあたりも相当駆け引きあったみたいですが。


一方で、対象的といえたのが、みずほグループです。

これはもう自分で書かなくても、wikipediaに大体書いてあるので、そのままコピペします。



現みずほフィナンシャルグループ社長の前田晃伸の項目ですね。



前田晃伸



社長就任とシステム障害


2002年、みずほホールディングス社長に就任するも、その直後、傘下行の合併に伴うシステム統合に当たって、連結の不具合から決済に二重引き落としなどの混乱に見舞われる。入社式で「上の言うことは聞くな、上司に責任は取らせろ」と挨拶した矢先であった。

この問題で国会に招致された際、「直接に御利用者の方に実害が出たというようなことではございませんが、クレームが大量に来たということで、そういう意味で大変申しわけないと思っております。」と発言。その後すぐに「不適切な説明だった」と釈明したものの、マスコミに取り上げられ大いに物議を醸した[2]。

当時の金融担当大臣だった柳澤伯夫はみずほのシステム障害について、「事実と異なる報告を受けていた」と発言、内部管理の不徹底を露呈したため、さらにみずほは非難されることになった[3]。

みずほホールディングスはこの問題の責任として、前田をはじめとする経営陣給与を半年間50%カットする形で対応した。



最初、この人が社長になったときは、そりゃ酷いバッシングくらったんですよ。特に、国会での質疑がいけなかった。しかし、この人は、竹中プランを正確に理解してたんです。不良債権処理を急がないと、潰されるって事をね。大規模増資をするしか生き延びる方法がないと理解していた。りそなはそれがわかってなかった。最近のリーマンみたいですが。



財務再建

2002年には竹中平蔵金融担当大臣が策定した金融再生プログラム、通称「竹中プラン」の方針に従って(当初は難色を示したが)不良債権の処理を行った。しかしメインバンクを務めている企業に多くの倒産(2002年〜2003年の間に佐藤工業、壽屋、ハウステンボスなど)が出たため、貸しはがしの代表格的に扱われ世間の批判を浴びることも多かった。

2003年は前年に引き続き株安で始まり、日経平均株価は4月28日にはバブル後最安値の7603円をつける。これに伴い、みなし5万円額面のみずほ株も、一時5万8300円の安値を付け、倒産や公的資金の注入が噂されることも多かった。ただし、みずほグループは2003年3月期の決算こそ2兆3700億円の赤字であったが、1兆円規模の大規模な増資を行い財務的には資金繰りができる状態だった。しかし、この増資は同時に潜在的な株式希薄の要因でもあった。また、2003年6月の株主総会でもいわゆる「シャンシャン総会」を行ったため、これもまたみずほの既存の株主の批判の対象となった。

特に、ネット上の株式関連の掲示板では前田の悪評、酷評、罵詈雑言が絶えず、株価が安値を更新していたころには1日に10回以上も槍玉にあがることも多かった。

同時期、みずほグループ社員バッジを考案し連帯感を高める策を打ったが、これは同郷大分出身の財界人であるキヤノンの御手洗冨士夫のアドバイスによるもの。



こちらの記述にもありますが、大規模増資と貸しはがし。それが前田のやったことです。でも、厳しい言い方ですが、こういう企業は10年前に潰れていてしかるべきだった。だから土下座外交で増資し、引当金をつみ、不良債権を処理した。


しかし、生き残るためとはいえ、株主価値の希薄化、貸しはがしだったわけで、まぁ、もう最悪の経営者の称号を奉られたのも当然といえば当然。



現在

財務危機の後も資産の売却と劣後債などの増資をすすめて資本を積みまし、2004年3月期には黒字に転換、株式の配当も復配。続く2005年3月期、2006年3 月期も、特殊要因があったものの黒字決算を実現。多くの批判を集めた1兆円増資の決断も、結果としては成功に終わった。株価も上昇を続けたため、最近は就任当初のイメージは遠のき、経営手腕が優秀であるという評価に転換されていくことになった。堅実でぶれず隙のない経営者としてのイメージを確立しつつある。株価も100万円を超えた値がつき、底値から17〜18倍の大幅上昇を記録した。

また、メガバンクと消費者金融との提携については、かねてから否定的な見解を示している。全銀協会見では、消費者金融のテレビCMや広告について「個人的には、ちょっと目に付く」と他のメガバンクを暗に批判。グレーゾーン金利は「明らかに正常ではない」とし、「(みずほに開設された)2,600万口座の既存顧客へのより良いサービス提供が最優先」とコメントしている[4]。

その一方、銀行ATMなどの手数料が依然として高額であることについては、「何でもタダが良いというのはやりすぎ」と値下げ慎重の方針を持っており、こうした態度へは反発もある。本人曰く、無差別にいい格好をするのは顧客全体への負担となるのだから、対価に納得して選ばれる銀行を目指すべき、という独自の考え方があるようだ[5]。

2006年11月8日、みずほフィナンシャルグループがニューヨーク証券取引所に上場し、現地時間9時30分に取引開始の鐘(オープニングベル)を鳴らした[6]。




まぁ、色々ありますが、最近では、「最近は就任当初のイメージは遠のき、経営手腕が優秀であるという評価に転換されていくことになった。」って感じになりました。まぁ、この人も相当なギャンブラーですが、賭けに勝ったんです。



6、UFJの暴走

これは、まぁ、大問題になったので、僕が書かなくても知ってる人の方が多いと思うんですが、メガバンクの一角、竹中プラン後、UFJは最低最悪の行為をここで働きました。


竹中プランによって監査が異常に厳しくなった事で、完全に暴走しちまったのがUFJでした。最近も暴走気味といえば暴走気味ですが。ここもやばい銀行だったんで、最悪、公的資金の投入、国有化されるって焦りがあったんでしょう。




 「UFJ銀行東京本部の3階の会議室に、金融庁に説明したものとは別の資料が隠されています」

 昨年10月9日朝、金融庁に1本の匿名の電話がかかってきた。4大金融グループの一角であるUFJホールディングスを、三菱東京フィナンシャル・グループとの統合にまで追い詰める契機となった検査忌避が、発覚した瞬間だった。

 金融庁は当時、UFJ銀行に対し、大口融資先を重点とする特別検査を行っていた。情報の確認を求める検査官に、UFJ銀行の担当者は否定したが、指定された会議室に入った検査官が見たのは、約100箱にも上る段ボール箱の山だった。

 箱には、大手スーパーのダイエーをはじめ、UFJ銀行の大口融資先に関する資料が詰められており、UFJ銀行が特別検査で金融庁に示したデータに比べ、経営状況に対し厳しい見方が示されていた。

 UFJ銀行は「これは単なるシミュレーション」と説明したが、その後、大口融資先に関する重要なデータを、すでに廃止された部署のコンピューターに移して存在をわからないようにしたり、経営陣が審査した議事録を改ざんするなど、さまざまな検査忌避行為が明らかになった。

検査妨害 UFJ、焦って“暴走” 不良債権処理で後れ





 「UFJ銀行東京本部の3階の会議室に、金融庁に説明したものとは別の資料が隠されています」って電話での内部告発が発端でした。4年前の話ですけど、まぁ、凄い話ですよね。


検査官が踏み込んだ時には、UFJの担当者の一人がパニックになって、資料を破りだしたそうですが。まったく世も末です。こういう昔話を書いているとアルゼンチンの年金ファンドの差し押さえを笑えない。


しかもUFJは、ダイエーのメインバンクでしたから、ここに経済産業省が絡んできた。UFJは経済産業省をつかって、ダイエーの件は煙にまきたかったんでしょう。まー、ここで金融庁と経済産業省の間で一悶着あったみたいです。


馬鹿げた話ですけど、りそなにしろ、UFJにしろ、ここで、みずほ型の大型増資に踏み切っていれば生き残れたかもしれなかった。しかし、なんでかしなかったんです。メガバンクとしての誇りがそれを許さなかったのか。それとも金融庁とやりあって、逃げ切れる気でいたのか。それはよく知りませんが。


監査が厳格に行われた結果、UFJの実質的な自己資本比率は4%と判定されました。そうなると、バーゼル合意にひっかかります。国際業務を行う銀行には、最低8%の自己資本比率が求められるわけで。UFJは、ここで追い詰められたんです。


こういう形で2003年の決算を金融庁に訂正された以上、UFJは2004年の決算で、なんとかしないといけなくなった。しかし、竹中はここでさらに検査を厳格化。大口与信管理体制検査。UFJの逃げ道を塞ぐ方向で動きます。


2004年、ついにUFJと金融庁の対立に終止符が打たれました。UFJは、東京三菱と合併することを選択。検査忌避問題では、岡崎和美、早川潜、稲葉誠之の三人が逮捕され、不良債権の最終的な処理がここで終わりを告げたわけです。


2005年。大手行の不良債権は半額となり、長く続いたバブルの戦後処理は、15年の時を経て終わりました。


正直疲れたんで最後やっつけですが、まぁ、こんなとこで。
posted by pal at 12:25 | Comment(2) | TrackBack(6) | コラム このエントリーを含むはてなブックマーク | 編集

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