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2008年08月05日

チョークで汚れた手@教育と所得格差の話

没落エリートの出現―ビジネス社会から疎外される高学歴就職難民たちー

って記事から、はてなブックマークじゃ、昨日あたりまで、学歴の話が一杯でてたわけですが、そんなわけで、僕も一枚噛んでみようかと思います。


というわけなんですが、その話をする前の枕として、ちょっとした話を紹介してから。






フライパンで焼かれた赤ん坊


運命のめぐりあい

これはある一人の少女の物語である。一歳のとき、どこにでもあるようなフライパンで生きたまま焼かれ、その後人間らしい扱いを拒まれて、うち捨てられたも同然だった赤ん坊の話である。彼女は十四年以上しゃべることができなかった。

これは真実の話である(登場人物の名前は変えてある)。児童虐待としては特異なものであるが、現代社会においてもこうした問題はしばしば起こっていることなのである。育児病院や育児保護施設の諸記録は、それが事実であることを証明している。

この少女をローラと呼ぼう。

アメリカでは、精神病が他のあらゆる身体的、情緒的な疾病よりはるかに多く、病院のベッドを占めている。また、児童虐待は、いまでは市長がこれに対処するための「特別機動隊」を組織するほど、大きな社会問題の一つになっている。

ローラを救った「特別機動隊」は、けっして失敗を甘受しない女性たちのグループであった。彼女らは大都会の真ん中で、いまなお信仰という名の下に活動を続けている。ローラは、どの宗派にも属さないシスターたちのグループによって救われた。したがって、この物語はローラの話であると同時に、彼女達の話でもある。そして何よりも、一つの生命が胎児の段階から「人間」であることの意味を語る小史である。


(中略)


ローラは私にとって、ある意味をもっていた。背骨は曲がり、顔には傷跡があり、いつも何かにおびえて、なによりまったく口がきけない彼女に初めて接して以来、十数年の歳月が流れた。にもかかわらず、彼女のことを思うたびに、私の内で、ある特殊な感情がわいてくるのである。

そもそも私たちの出会いは、あまり褒められたものではなかった。

そのころ私は開業医になったばかり、腕は冴え、評判も広がりつつあり、私は自分の天職に自信を持ちはじめていた。長年の研究の成果を刈り取ろうと願っていた矢先だった。許される時間は限られており、貴重だった。

私もほかの精神分析医と同様、自分が与えうる治療で、もっとも利益が上がりそうなことに生きがいを感じる向きがあった。貧困や失業の苦しみから身体的、精神的に傷ついた人々は、われわれの職業的関心の対象とはなりえないまま、放っておかれることが多かった。当時、貧困にあえる人々、都会のスラム街に住む人々の精神病の治療とは、心理療法や精神分析よりも、むしろショック療法、薬物治療、病院収容を意味していた。

ローラはこれを変えたのである。

自分自身を分析するのは分析医の仕事ではない。だが、これからお話しする物語をふりかえってみるとき、私としてはこの出会いに、不思議な運命のめぐりあわせを感じないではいられない。陰鬱な施設をおざなりに訪問していた私を、傷ついた子どもの魂のもっとも暗い奥底に、徹底的に関わりあわせたきっかけと推進力は、おそらく私自身の内にある隠れたエネルギーだったのだろう。それについては読者の判断におまかせする。いずれにしても人間は意識的にせよ無意識的にせよ、なんらかの形で自分の過去と真っ向から対決を迫られることがある。こうしたことは、ローラの物語やシスターたちの話の局外、あるいは周辺にとどめておかねばならない。しかし、ここにつづる極貧家庭の知的障害者や無力な子どもの話は、私たちにとって決して他人事ではない。貧しい人々にとって、金は夢を実現させる魔術となり、悪夢を生じる蛇ともなる。

この物語の施設と初めて接触をもったとき、私はもはや貧乏ではなかった。私は幸運な人間、勝者の一人だった。その私が、最初から盲目的な感情で施設で働くことになったのは、事実、ある種の忠誠心から、としか考えようがない。それはおかしな忠誠心だ。だが、人は自分自身から逃れることはできないし、ローラやシスターたちとの対決に背を向ければ、それは私にとって義務の放棄でしかない。私はそのことをいやというほど知っていた。

我が身にながされた仕打ちを、どうして他人にくりかえすことができよう?

施設の子どもたちの頭をなでるとき、私はいつもこの感情をぐっとかき立てて思い出すことにしていた。この感情は、金でどうにかなるものではなかった。自分の怒りの源泉を直視し、自らの誠実さを問いただし、人が自分に与えるよりも多くを他の人々にあたえられるかどうかをしっかりと見定めねばならなかったのだ。


特殊学級に私はいた


具体的に言おう。私がローラの病歴記録を閉じて手に抱え、座って考えたとき、あの瞬間がよみがえってきた。私自身の幼いころに、同じようなことがあったのを思い出したのだ。あのとき、銀縁のメガネをかけた若い算数の教師が、文字通り私の一生を握っていた。彼は私の人生と関わりをもとうと心を決めるやいなや、即時その決意を実行に移した。

ある木曜日の午後、私が彼の教室にぶらりと入っていくと、その働き過ぎの安月給の青年・スコット先生は、放課後の補習で算数を教えていた。そして以来三ヶ月のあいだ、私は毎週火曜と木曜の同じ時間に、彼のクラスに出席するようになった。

私はまじめに興味をもって勉強に励み、スコット先生にいわれたことならなんでもやった。ところがある日、廊下をならんで歩いていると、先生が私にほかの教科の平均点を聞いてきた。いじわるで聞いているのではない。しかし私は、少しむきになって、そういうことは両親にだけ答えたい、とつっぱねた。

その日、スコット先生の質問にきちんと答えなかったのは、ただ私がきまり悪かったにすぎない。そのかわり、私はチョークに汚れた先生の上着をつかんで、数歩先の自分の教室まで案内した。

「これが君の教室?」先生は驚いてもう一度聞いた。「本当にそうなの?」

私はうなずいたが、何も言わなかった。先生は信じられないというように私を見た。私がつっついたので、側に立っている教師にたずねた。

「そうですわ」スターク女史が冷ややかにいった。「この子は私が担当です」

スコット先生が私にはっきり聞いたのは、私たちが次に会ったときだった。

「どうして君は、あのクラスにいるの?」

先生の言っている意味はわかったが、私は口ごもっていた。

「それは・・・障害児のクラスにってこと?」

いつかはいわなければならなかった。私は「特殊学級」、つまり知的障害児のクラスにおかれていたのだ。



私の災難は、三年生のとき、私が字を覚えられないのを教師が怒ったことから始まった。彼女は両親あてに、私の勉強をみるようにと手紙を出し始めた。その手紙には、やがて好調の手紙も添えられるようになった。問題は、その何通もの手紙が、両親のところでそれっきりになったことである。彼らは英語が読めなかったから、誰か翻訳してくれる人が必要だった。

私の両親は貧しく、七人の子どもを抱え、養っていかねばならなかった。家族のほとんどが13才を過ぎてからアメリカに渡ってきたのだが、なんとか食いつなぐために、みな一生懸命働いていた。祖国では誇り高かった一家にとって、それは容易なことではなかった。私たちは現在のスラム街の標準からいっても、やはりスラム街としかいいようのないところにすんでいたのである。

結局、私は混乱し怒りで胸をいっぱいにしながらも、おとなしく「知的障害児」のクラスで、凍りついたように座ることになったのである。私は二種類の連中---つまり「健康な連中」と「障害のある」連中の両方から仲間はずれにされたりからかわれたりした。そのあげく、何度も彼らと激しい喧嘩をし、たいていの場合は、私は学校から一目散に逃げ帰った。

クラスが変わったと両親に告げたときのことをどんなにはっきりと覚えているだろうか。ああ、あのとき両親の顔に浮かんだ”受け入れるしかない”という表情---もし私たちが貧乏でなかったら?貧乏人がいったいそれにどう対処できるというのだ?

スコット先生は、私を手伝ってくれると約束した。が、彼は教師である。彼を信用する理由など何もなかった。しかし私は先生が好きだった。先生はただ、「君には手伝ってやる者が必要だ。だからぼくが手伝ってやろう」としか言わなかった。

彼は六ヶ月以上にわたって自分の時間を犠牲にし、辛抱強く四年生、五年生の科目を見てくれた。そればかりか、私の信頼できる友達になってくれたのだ。のちに私がローラに試みたのも、まずは私を信頼してもらうことだった。

ある日、私は校長室に呼ばれた。部屋に入るとそこにスコット先生がいて、彼はあきらかに私の知能の発育ぶりについて懸命に彼女にわからせようとしていた。校長は学校の校則についの指導書を読み上げた。彼女は一言も前置きせず、いきなりそれを私の手において、読んでみるように命じた。びっくりした私は、ただのどがつまり、そこに書かれた文章は少しも声にならなかった。すると彼女は勝ち誇ったように、先生のほうに向き直っていった。

「ごらんなさい、スコットさん、あなたは時間をむだにしているんですよ」

光った眼鏡をかけた、おどおどした内気な青年は、突然私のそばによって、見たままを読んでみるようにといった。そして私は読み始めたのである。ことばは流れるように出てきた。そのあと、先生は私たちが勉強した科目について質問したが、私の頭は明快で、答えも正確だった。

こうして私は「特殊学級」から出され、”試験的に”五年生に編入された。その次にあったことは、私が市内一斉の算数のテストで最高点をとり、校長を驚嘆させたことだった。

スコット先生は、なおも無報酬で私に幾何を教えてくれた。その後、私は市内にある三つの化学専門の高校を受験する許可を申請した。先生は私に、そんなことをすれば校長は怒るだろうと忠告してくれたのだが、事実その通りだった。彼女にしてみれば、私は以前「知的障害児」だったのだ。

しかし、とうとう私は学校中で受験を認められた三人のうち一人となり、みごと二人が合格。私はその一人だった。

多くの歳月が過ぎ、私が博士号を認められる研究まで進んだとき、スコット先生は私の人生から消え去った。彼がいまどこで何をしているのか私は知らない。しかしどこにいようと、私は彼に敬意を表したい。彼は私を絶望から救ってくれたのだ。もし彼が、当時、チョークで汚れた手をさしのべてくれなかったら、おそらく私は単なることばのハンディによって、欠陥人間として永久に運命づけられたことだろう。

私の人生とローラのそれとの違いは、あきらかに私が逃げ切ったのに対し、ローラが以前罠にはまったままだったことだ。私が勝者であるのに対し、ローラは敗者だった。


しかし、私がほとんど自分の理性を裏切ってまで、ことばをはなせない見知らぬ娘のために戦いを挑み、「社会」という名の権力機構のなかで無知と偏見という共通の敵と闘ったのは、私自身の怒りの感情と願望からであった。



「ローラ、叫んでごらん」 リチャード・ダンブロジオ 関口英男・訳 
序章 フライパンで焼かれた赤ん坊 より






**横書きに直すときに読みやすいように、改行などは僕が入れてます。


この話は、僕が好きなノンフィクションの一つ「ローラ、叫んでごらん」のものだ。このお話は、ローラ、両親に虐待され、フライパンで焼かれた少女を施療した精神科医リチャード・ダンブロジオの幼い頃の話だ。


児童虐待の本にのっている話を枕にして、教育とか学歴の話を始めるのは、ちょっと奇妙に思われるかもしれない。ただ、この話は、この後していく話と密接に関連しているのだ。ミクロなレベルとマクロなレベルでの教育とか学歴の話の接点であり、重要なことがいくつも書かれている。


僕らの生きている国、つまりは日本は、学歴社会と言われる。学歴によって序列が作られ、そして、最終的に、学歴がいい子達が、良い企業に就職して、よいお給料をもらう、というのが一般的だと受け取られているような社会だ。


それが本当に子ども達にとって幸せか、それから僕らの社会を運営する上で、一番効率の良い方法かは別として、今まではそうやって教育や学歴は形作られてきた。


そして、今、時々、メディアで取り上げられる問題がある。「教育と所得格差」の問題だ。





 戦後の日本で最も賞賛に値する成果の一つに、高い社会的流動性を持った能力主義国家の建設がある。貧困層や中間層の子供でも、能力と野心さえあれば社会的に上昇することができた。これは子供たちだけでなく、国家にも大きな恩恵をもたらした。誰もが等しく教育の機会を得ただけでなく、教育に投じられた資源が平等に配分された。その結果、両親の資産や社会的地位によって聡明な子供たちの可能性が制約されるということはなかった。

 だが日本は“機会が平等な国”の地位を失おうとしている。私は最近、経済産業省で働く50代の2人の友人と話をする機会があった。彼らはいずれも東京の郊外に生まれ、両親はごく普通の勤労者である。彼らは、自分たちの時代とは状況が変わってしまったと言っていた。多くの省庁で新規に採用された官僚の大半は、両親のいずれかが同じ省庁の官僚の子弟だというのだ。同じような変化がビジネス社会でも浸透しつつある、と彼らは言う。

ドイツマスコミスキャン〜所得格差と教育機会不均等



これは、日本の話だけれど、日本においても、所得と教育格差の問題は時々問題にされるようになってきた。両親の所得と子ども達の学力には、相関性があるのだ。そのため、


 公的資金の貧弱さと公立学校の教育の質の低下に対する懸念、能力に応じた教育を妨げている偽りの“平等主義”が、中産階級の親に大きな負担をかける結果となっている。子供たちに十分な教育の機会を与えたければ、私立学校に頼らざるをえず、予備校に通うためにおカネを使わなければならない。2005年の時点で高校生の30%が私立高校に通っている。子供の人生は親の資金力によって制約されているのである。

 南ミズーリ大学の納見智昭准教授の調査では、日本の中学1年生で私立中学に通っている比率は00年には5・8%であったが、05年には7・0%に増えている。東京では、この比率は25・6%である。02年には塾に通っている生徒の数は小学校で39%、中学校で75%に達している。1976年には、その比率はそれぞれ12%と38%であった。75年には東京大学の入学者の26%は私立高校の出身者であったが、93年には50%に達している。



このような問題がとりだたされるようにもなってきた。貧しい家庭では、親がろくな教育を施せないために、学歴社会日本においては、貧乏な子ども達の未来は閉ざされたものになってしまう・・・というアレだ。

実は、これは日本だけの問題ではない。アメリカでも、全く同じ問題が起こっている。アメリカのエリートは、ほとんどが中上流階級の出身なのだ。アメリカンドリームは過去の話。現実にエリートをみれば、移民から身を起こして大成功なんて例はほとんど全くなく、金持ちは中上流階層の出身者・・・というのが現状なのだ。


そして、もう一つ。ドイツの話になるが、


◆進学率に大きな差◆

 論議の的となっているのは、15歳の生徒を対象とした調査で、親の所得によって子供の学歴に顕著な差が見られることが明らかになったためである。

 調査によれば、管理職者や研究者などを親に持つ子供は、ブルーカラー労働者を親に持つ子供よりも、ギムナジウム(ドイツの中等学校の一種で、この卒業試験に当たるアビトゥアに合格しなければ総合大学に進学することはできない。したがって、ギムナジウムはエリートコースへの登竜門とみなされている)に進学する割合が4倍に達しているという。


◆学校教育の成功と失敗◆

 さらに、州別にみると、最も格差が大きかったバイエルン州では、ギムナジウムへの進学率で実に6.65倍もの差がついていることも、議論を加熱させる一因となっている。

 というのも、これまでは、バイエルン州は生徒の学力水準が高く、学校教育で成功しているとの見方が一般になされてきたのであり、その“教育優良州”において、全国でも最大の格差があることが露呈された形となったからである。


ドイツマスコミスキャン〜所得格差と教育機会不均等



このように、ドイツでも全く同じ傾向が現れているそうだ。何故、ドイツの話をしたかというと、以前、


書評「 日本の経営・欧米の経営―比較経営への招待」


というエントリで、

ドイツ
高級官僚の地位は、経営者と比較して、低いものと見られる向きが強い。これは、ドイツにおいては、エリートの概念が、官僚や経営者といった向きでなく、指導者としての資格が、博士学位と結びついているためと言われる。ドイツ大企業の経営者の6割は博士学位所持者である。つまり、イギリスと比較すると、専門的な知識をもっているプロフェッショナルとしての経営者が多いのが特徴とされる。


先進国では、唯一といっていいほど、経営者の出身階層に、階層間の差異が少ない国でもある。また、父親の職業が公務員である経営者が多いのも特徴。非常に変わった経営者育成システムといえるかもしれない。他の国では、大抵の場合、特定大学への集中や、階層間の差異が現れるのだが、ドイツにおいては、それが少ない。指導者としてのキャリアパスが、博士学位のように専門性の強いものである点、それゆえに出身校がさほど重要とされない点などが上げられるかもしれにない。




って話をしたからだ。ドイツって国は、経営者500人くらいを対象にして標本抽出した結果、ドイツでは、他の先進諸国でみられるような、経営者の出身階層における偏りがあまりなかったのが特徴だったのである。


だが、そういう国でも、やはり、親の所得によって子どもの学力に顕著な差がでる・・・という調査結果が出て、波紋を呼んでいるそうな。


親の所得と子どもの学力には相関性がある。それも正の相関だ。親の所得が高い場合、その子どもは学力が高くなる傾向がある。


一体、何故、こんな相関がでるんだろう?


最初、紹介した話では、これは全く逆だ。リチャード・ダンブロジオは、一人の算数の先生の助けがあったにせよ、スラム街で育ち、そこから這い上がって最終的に博士号をとり精神分析医として成功した。


最初に、親が極貧で英語が読めず、英語もろくに話せない両親の元で育ったにも関わらず、最終的に成功した人の話をしといて、その後に「親の所得と子どもの学力には相関性がある」なんて話をするのは、なんとも奇妙だと思われるかもしれない。


でも、ちっとも変じゃない。この話は、他の色んな話を挟むと、色々と見えてくるものがある。だから紹介した。


ちと、長くなりすぎたので、続きは次回で。
posted by pal at 02:25 | Comment(11) | TrackBack(21) | コラム このエントリーを含むはてなブックマーク | 編集

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