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2008年03月05日

書評「松下幸之助日々のことば」

まぁ、ここ数日、えらい不評なエントリばかり書いて、読者のみなさんの気分を悪くさせてしまった可能性が高いんで、今日は、もうちょっとポジティブなエントリ書こうと思います。


というわけで、今日は、僕の好きな本「松下幸之助日々のことば」のご紹介です。



なにそれ?って思う人がいるかもしれませんが、現在のパナソニックの創業者、松下幸之助の696の言葉をまとめたモノです。


たったそれだけです。

wikipediaにありますが、


父親が米相場で失敗して財産を失ったため、小学校を4年で中退しわずか9歳で宮田火鉢店に丁稚奉公に出た。



まともな教育なんて、何一つ受けなかった人です。ただ、そんな人だからかもしれませんが、ほんのわずかな言葉で、物事の核心を言い表す能力の持ち主でした。


まぁ、また「マッチョ」の話か、とか思うかもしれませんが、でも、すごくいいことが沢山かいてあるんですよ。しかも、数行の文章で。これ、凄いことなんです。たった数行の文章で、深くて面白い事を述べてしまうんですからね。


うちのブログみたいにダラダラ長くつまらんことを書いたりはしてません。本当に短い。僕、疲れた時とか、よくこの本読むんです。本当に凄い本でしてね。

ほら、名言集とかあるじゃないですか。ネットでもよくあるし、僕も紹介してきましたけどね。


ただね、そういうのって、過去の偉人たちの集大成なんですよね。でも、この本は、松下幸之助の言葉だけです。それだけです。でも、それなのに、本当に面白いんです。名言の宝庫とは、まさに松下幸之助のことをいうんだと思います。


wikipediaにもありますが、


また、「松下はどのような会社ですか?」という問に対し「松下電器は人を作る会社です。あわせて家電を作っています」と答えた。



気がきいた返しだと思いません?こういうのが一杯載ってるんですよ。信じられないほど。




せっかくですから、いくつかお気に入りを紹介させてもらいますけど(ってかね、名言多すぎて紹介しきれないくらいあるんですよ、マジで。)


この本、月ごとの構成になってまして、1月の名言、二月の名言って形でまとめられています。だから、ここでは、三月の名言でお気に入りなのを紹介させていただきますが、


人間はともすれば、うまくいけば自分の腕でやったと思いがちである。それがおごりに通じる。だから、事がうまくいったときは運がよかったと考え、うまくいかなかったときは運がないと思わず、腕がなかったと考えたい。そうすれば、自分の力をあげざるを得まい。

(成功と失敗)



いきなりマッチョイズムかよ!とか思う方もおられるかもしれませんけどね、ただ、やっぱり、これは真理だと僕は思うんです。自分の力をのばす心構えってのは、絶対に人間に必要なものだと僕は信じているんです。



熱意というのは人から教えてもらって出てくるものではない。自分の腹の底から生まれてくるものである。



名言集とかの存在意義を失わせちゃう言葉ですが、たしかにそういうモノです。


商品の価値は、つくる人間より使う人間の方がよく知っている。買ってくれる人に聞くのが一番いい。



これもお気に入りなんですけど、はてなの「50%の状態で出す」じゃないですが、ユーザーの意見をくみ取るのが良い製品作りの近道っていうのは、今も昔も変わらないようです。無論、いくつか問題もあるでしょうが、これはやはり基本の一つでしょう。



順調なときに失敗の原因が生まれ、困難に直面しているときに成功の芽が生まれる。



これもお気に入りなんです。最近のサブプライム問題も、そうでしたけど、経済が好調な時に限って、なんかおかしなことが進行していたりするんですよね。それから、困難に直面している時に限って、何かの新しいモノが生まれてきたりする。不思議なものですけど。終わらない不景気はありません。かならず、再生の時期が来るんです。



人より多く働くことは尊い。しかし、人より少なく働いて、今まで以上の成果をあげることもまた尊い。



働くばかりが能じゃありませんよ、という経営の神様からのお言葉でふ。



天国の良さは地獄に落ちてはじめてわかる。不足を経験しなければ満ち足りた喜びは真に味わえない。



昨日のエントリはこれをだらだら長いこと述べたようなものなんですが。やっぱり、松下幸之助みたいに、20文字くらいでまとめたほうがよいですね。


事にあたって、ある程度の負担や多少足をひっぱられることは最初から覚悟してあたるべきだ。



これもお気に入りです。何するにしても、万事順調にいくなんてことはまずありませんからね。最初から、ある程度の負担や多少足をひっぱられることを想定しとくのが丁度いいんだと思います。



美と醜は表裏一体。美の面にとらわれ、反面の醜を責めるに急なのは、真実を知らぬ姿である。



これ、特に好きな言葉です。美と醜は、一つのコインの裏と表で、結びついているんです。醜いものを責めて無くそうとするのは簡単ですよ。でも、それは醜ものがあるから、美しいものがあるんだってことを無視している。この二つは、同じコインに刻まれているんです。



自分の意志によって何でもできると考えれば、必ず迷いが生じ苦難に陥る。心すべきことである。



これ、五月の言葉なんですが、好きな言葉なんでついでにご紹介。あのですね、僕、あんまり努力って言葉が好きじゃないんですよ。いやね、時々、僕も使いますけどね。


ただね、努力って言葉の裏側には、「頑張れば自分の意志によって何でも出来る」っていうある種の傲慢が感じられて、どうにも好きに慣れない部分があるんです。


この社会は、専業化と分業が進んでいるわけです。皆さんの生活に必要ほとんどのモノは、他人が作ったモノです。


我々は、生きていく上で、「他の人が私に必要なものを作ってくれる」っていう暗黙の了解の下で生きているんです。そういう信頼が、分業と専業化を支えているんです。


貴方一人の力で出来ることなんて、どんなに努力しようがたかがしれているんです。



他人と分業し、自分で出来ることをして、初めて、人間ってのは、一人でするよりも遙かに大きい事を成し遂げられるんです。そこを忘れてはいけないってね。


だから、富を生み出すのに重要なのは、努力よりも、分業や協業、専門化なんだと僕は思っているンです。自分の意志で何でもできるとか、自分の地位があるのは自分が努力したからだとか思うのは、思い上がりも甚だしいって思うクチなんです。


自分一人で何でもできると思って、何かに挑めば、ほぼ確実に失敗するし、貧乏になります。


貴方が成功できたとしたら、それは、色んな人と分業して、優れた成果を生み出せたからに他ならないんです。今の社会ではね。そこが重要なことなんです。一人で出来ることなんてたかがしれているんです。



あと、ついでに、5月のことばの最後についている松下の話がお気に入りなんで、ご紹介しておきます。
利益だけでは動かない

 たとえば、ライオンに肉をやる。おまえの与え方が悪いから、おれは食わん、というライオンはいませんわな。とにかく腹がへっていればかぶりつく。それを十回ほどくり返していれば、顔を見せるだけで、ハハー、これはいつもわしに肉を人だなぁ、となついてくる。

 ところが人間はそうはいきませんね。与え方によっては、「けしからん、そんなもの食えますか」と、こうなります。考えようによっては人間ほど厄介なモノはありません。しかし、これは、ある一つの正義感とか、正義とかね、そういうものと合わせて与えれば、それは成り立つことだと思うのですよ。人間は利益で動く面と、利益だけでは動かないという二つの面をもっていますからね。

 まぁ、人間の心というものは複雑微妙というか、いわば千変万下の様相を呈しているものです。そして、そうした複雑微妙な心を持った様々な人によって成り立っているのがこの社会です。ですから、われわれはまずよくこの人間の心、人情の機微というモノをしらないといけませんね。そこから、よい人間関係も明るい社会も生まれるのではないでしょうか。




ついでに、ですが、昭和43年の発刊以来、累計400万部を超えているビジネス版バイブルである





も紹介させていただきます。これも、まぁ、定番っちゃ定番なんて、読んだ事がある人のが多いとは思いますけどね。松下幸之助のエッセイですけど、これはビジネスに関わる人間だったら読んだほうがいい。とにかく、含蓄が全然違う。


ビジネス書では、やっぱりね、8歳から商売に関わってきた人の言葉ってのは違うんですよ、レベルが。


そんなんで、読んだことのない人は、是非読んでみてください。これは本当に面白い本です。昭和からずーーーーっと読み継がれている理由は、読めばわかります。


これこそ、ビジネスのすご本ですよ。絶対に時間の損にはなりません。


あ、ついでに、もう一つ、この話も、「日々の言葉」からご紹介させていただきます。最近の流れで、ですけど。


幸せな時代

 現在は一面生きがいを求めやすい時代だと思います。昔に比べたら、ずっと生きがいが見つけやすくなっている。たとえば、江戸時代なら、士農工商という身分がきっちり決まっていましたね。サムライの家に生まれればサムライになる、町人の家に生まれれば町人になる、というようにどういう道に進むかは最初から決められていた。選択の余地はなかったわけですよ。そういう状態の中では、自分のやりたい事をやるとか、適正を生かすということはむずかしかったと思うんです。

 ぼくの少年時代には、もうそういった身分制度はなくなって、各人がそれぞれ志を持って道を求めることがしやすくなっていました。けれど、今のようなことはなかったですね。職業一つ選ぶにしても、限られた範囲でしかなかった。今は職業にしてもさまざまなものがありましょう。ぼくなど、名前を聞いただけでは分からないようなものも多いですが、とにかく非常にふえてきた。

 また、高校、大学へも、行きたければ行くことができますし、自分のすすみたい道、あるいは自分のやりたいことが自由に選べるわけです。

 そういう意味で、現在は生きがいを見つけやすい時代だと思うんですよ。今の若い人たちは実に幸せな時代に生きていると思います。



もひとつ。


百万円もらって不足をいう人もあれば、紙一枚もらって喜ぶ人もある。後者は心の豊かな人だと思う。
posted by pal at 01:53 | Comment(5) | TrackBack(1) | コラム このエントリーを含むはてなブックマーク | 編集

2008年03月03日

努力しても決して幸せになれない理由

せっかくなんで、この話もしとこう。


というか、ひとつ前のエントリで、就職氷河期の話にのってしまったんで、この話もせずにはいられないんでね。


昨日のエントリを書いた後に、色々とフィードバックを頂いた。それで、考えていたんだけど、結局のところ、一つの結論には達した。


つまり、資本主義は、心の底から、みんなに嫌われている。これほど嫌われている主義思想はないという結論だ。


前回のエントリでは、資本主義の非人道性について書いた。その性質上、「誰かが負けないといけない」って話と、「群れで一番弱い犬には過酷な運命がつきものだ」って話だ。


確かに、そうなんだ。これは、資本主義がもたらす副作用の一つだ。だが、ちょっともう少し、マクロな視点で世界を眺めてみれば、別の見方が出来る。今日はまず、その話からしてみたい。



http://www.globalrichlist.com/


まずはこのサイトに行って、このサイトで、yenに貴方の年収を打ち込んでもらいたい。そうすると、貴方が全世界で上位何%に入る金持ちかがわかる。


打ち込むのも面倒くさいって人のために、参考までに述べておくけど、年収300万円でも、上位9.44%になる。


たぶん年収三百万円の人は、自分なんて、底辺クラスだと思っていると思う。日本という国でみれば、それは正しいかもしれないけれど、全世界的にみれば、とんでもない金持ちなわけ。これは現実なの。


日本がどれだけ金持ち国家かわかるよね、これで。そして日本人がどれだけ金持ちかも。底辺の労働者ですら、世界の上位10%なわけ。


そもそも、年収10万円でも、TOP 49.22%に入っちゃうの。これが世界の現実。世界の半分くらいの人は、一日2ドル以下で暮らしていて、テレビもなければ水道もなく電気もなく、当然、ネットなんてない暮らしをしているわけ。


明日食べるパンの心配をしていたり、明日どうなるかわからない、そんな人達が世界に30億人くらいいるの。


それと比べれば、日本ってのがいかに富んだ国かわかると思う。この国に生まれたというだけで、我々は勝ち組なわけ。


じゃあ、格差の話に移ろう。ビル・ゲイツの資産はおおよそ10兆円あって、2位のウォーレンバフェットは4兆円くらいある。二人合わせれば14兆円だ。


この資産は、全世界の人口の下位50%の全資産にほぼ匹敵すると言われる。たった二人の人間が、世界の半分の人間が持っている富の量と同じくらいの富を所有しているってわけ。


これをどう思う?


誰だってこう思う。「不公平だ」ってね。


ビル・ゲイツとバフェットの資産を没収して、そして彼らの資産を恵まれない人々に分配すれば、きっと、世界で30億人くらいの人々の生活を改善できるだろう。


ちょいと正確にいえば、14兆円あれば、1日1ドルを10年間、30億人くらいに配ることができる。10年くらい、貧困な人達の暮らしはかなり改善されるだろう。


だが、それが、本当に、この世界から貧困をなくすことに役立つと思う?


もっと言えば、本当に格差が憎くて不平等が許せないというなら、アメリカ人と日本人は稼いだ金をそういう地域におくってあげるべきだ。資本主義に反対し、不平等を許せない人達は、得に。


そういう考え方には、僕は反対はしない。ビル・ゲイツがやろうとしていることにも、反対はしない。ただ、僕は、そういうことをしても、長期的には何の役にも立たない可能性が高いと思っているの。


もうちょっと、範囲を狭めて考えてみよう。日本でもっとも裕福な人々の財産を奪って、それを貧しい人達に配れば、日本から格差が消えて、本当に豊かな暮らしが実現されるだろうか?


僕は、これっぽっちもそうは考えない。


理由は二つある。一つは、経済学的な理由で、もう一つは、人間という生き物の心理に深く根ざした問題だ。


まず、第一に、一つの面白い話をしよう。富を公平にばらまくのは、非常に道徳的なこととされる。ロビンフッドとかネズミ小僧をみればいい。金持ちから盗んだ金を貧乏人に分け与えるのは、洋の東西を問わず、非常に道徳的なこととされているんである。


だが、それを国家規模でやるのは難しい。しかし、金でなくて、資源でならいくつかケースがある。たとえば、石油などの天然資源だ。豊富な天然資源を国有化して、それから得られる利益を平等に分配すれば、ものすごく国民全員が豊かになれるはず・・・・だった。しかし、現実にはそうはいかなかった。


グリーンスパンの自叙伝「波乱の時代」にこんなエピソードが載せられている。下巻の13ページからだ。


天然資源が豊富だと、「オランダ病」と呼ばれる問題をかかえて経済が低迷する危険がある。
(中略)
オランダ病にかかるのは、資源の輸出が好調になり、その国の通貨が高くなる場合である。通貨高になれば、他の輸出産業は競争力が低下する。
(中略)
「10年後、20年後には分かるだろう。石油が我々の破滅の原因になることが」。この言葉は、ベネズエラの石油相で石油輸出機構(OPEC)設立者の一人、ホアン・パブロ・ベレス・アルフォンソが1970年代に語ったものだ。まさに的確な予想であり、この予想通り、OPEC加盟国はほぼすべて、原油で得た富を使って石油と関連製品以外の分野に経済を大幅に多角化することに失敗している。天然資源で得た富は、通貨の価値をゆがめるだけでなく、社会にも悪影響を与える。苦労なく簡単に富が得られると、生産性が伸びにくくなるのだ。



何度も繰り返してきたけど、国民の生産性が伸びれば伸びるほど、その国は豊かになれる。つまり、生産性を高めることは、その国、国家、他の人々への最大の貢献なんである。逆に、生産性が低ければ、その国は貧しく、低い生活水準を享受せざるを得ない。


そして、生産性を上げるために、もっとも効率的な方法は何か?というと、みんなが大嫌いな競争なのだ。勝者と敗者を容赦なくわかつ方法だ。


では、なぜ、競争が生産性をあげるかというと、競争が起こると、各個人は、それぞれ、自身の生産性を高めようとし、結果として専門化と分業という手段を取ることが多いからだ。


実際問題として、日本人の多くは、競争に勝ち抜くために、ある程度の専門知識を身につけようとするし、分業を受け入れている。


専門化と分業は、生産性を押し上げる重要な要素だ。この二つは、競争に晒されると、凄い勢いで推し進められる。



そして、競争による淘汰圧によって、生産性が押し上げられると、結果的にだけど、国が豊かになる。国が豊かになれば、社会的な利益が増大するんである。



現実的な話をすれば、競争に晒され続けた資本主義国は、不思議なことに、繁栄した。物質的な豊かさは上昇した。日本でいえば、底辺と言われる年収300万円クラスでも、PCもってインターネットしている人が多数いる。競争が激しかったのに、日本人の平均年収は伸びて、娯楽は増えて、最底辺の人達まで、最先端のテクノロジーであるPC(途上国からみれば)を使っていたりもする。


それは、社会全体での生産性が伸びたからだ。これこそが、資本主義が繁栄し、勝ち残った理由なんである。


そして、豊富な石油資源がある国々が、繁栄しきれなかった理由でもある。簡単に富が得られるので生産性が伸びにくく、そして、国からの様々な特典を享受できるので、働く意欲が薄くなってしまうのだ。これが石油の呪いと呼ばれるものだ。


グリーンスパンは、これを著書で非常に簡潔な言葉を使って説明している。そして、実際に、それを歴史が裏付けている。世界の富は、ここ100年で増大した。主に資本主義の国々で。そして、乳幼児死亡率は下がり、貧困は減り(必ず敗者を生み出す資本主義なのに)、平均寿命は延び続けて2倍になった(競争が絶え間なく続くのに)。このあたり、詳しく知りたい人は、グリーンスパンの著書を読んでみてくださいな。


グリーンスパンの伝記から、もう一つ引用させていただくが、


アフリカ西海岸近くの小島からなる小国、サントメ・プリンシペの領海内で大規模な油田が発見されたとき、その開発についての反応が複雑だったのも不思議だとは言えない。フラディケ・デメネザス大統領は2003年にこう語った。「私は国民に「オランダ病」「原油価格の不都合な真実」「石油の呪い」と呼ばれるものを避けると約束した。経済統計によれば、原油資源が豊富な開発途上国は資源に恵まれていない国と比較して、GDP成長率があきらかに低い。社会指標をみても、平均を下回っている。サントメ・プリンシペは、この豊富さの逆説を避けるつもりだ」



このように、豊富さの逆説を避けることで、自国を豊かにすると宣言した、大統領の決断は、とても正しいの。長期的にみれば、だけどね。


歴史的にみれば、小国で、経済の規模が小さい国家に豊富な天然資源が見つかると、しばしば、その国家と国民を逆にやっかいな立場に追い込んできた。


で、なんだけど、この話を僕がしたのは、競争がいかに、国家と人々を豊かにするかって話をしたいからなわけなのね。現実的には、競争することで、社会全体の物質的豊かさが上がるの。


もし、貴方が、もっと物質的に豊かになりたいなら、その為に出来る方法は、一つしかない。まじめに競争して生産性をあげること。それが、一番、社会に貢献することだし、結果的に社会全体を豊かにしていくってわけ。


で、ここまでが前振り。


ここまでは、競争して、生産性を上げて、より沢山の財やサービスを個々人が生産できるようになることこそが、物質的に豊かな社会を作る唯一の道だって話をした。ルールに則って競争し、生産性を高めることこそ、社会への最大の奉仕なの。


そして、それこそが資本主義だってこと。物質的に豊かな社会を作ろうとしたら、これほど優れた方法はないの。


けど、だ。


それでも、なお、資本主義は人気がない。


世界の寿命を延ばし続けているのは何だ?答えは資本主義。

世界から貧困を少なくしているのは何だ?答えは資本主義。

世界の生活水準をあげているのは何だ?答えは資本主義。


過去、どんな宗教、思想、哲学、そして体制も成し遂げれなかったことを、資本主義は成し遂げたの。資本主義の300年にわたる歴史で、人類は飛躍的に進歩した。進んだ資本主義国では子供たちは飢えと貧困と過酷な労働から解き放たれた。女性は、信じられないほど地位が上がった。妊娠を自分でコントロールする権利を得て、沢山の財産をつくることも出来るようになった。男性に頼ることなく。


それでも、なお、資本主義は人気がない。大多数の人から嫌われている。なぜだろう?成果だけみれば、過去、どんな時代に生まれたいかなる思想・主義よりも優れた結果を出し続けてきたのに?


答えは、どうやら、人間自身の心理の中にあるようだ。


たとえば、日本の実質GDPは、1960年と2008年を比較すると、およそ6倍に増えている。これは、日本人の生産性がそれだけ高まったからなんだけど、じゃあ、日本人の満足感、幸福度は、6倍になっただろうか?


たぶん、そうでもない。というか、絶対にそんなことはない。むしろ、昔はよかったなんて回顧する人のが多いかもしれないくらいだ。


なぜ、物質的豊かさがあがっても、日本人は、それと同じペースで幸福になれないんだろう?なぜ、日本人は、世界でもっとも豊かな人々の範疇に入るのに、こんなにも不幸だ不幸だと騒ぐ人が多いんだろう?


どうも、その答えは、人間の、とある心理に根ざしているようだ。


現在の先進国の若者にとって、将来の経済的安定性というのは、どうやら、過去の存在となっており、暗黙の必要条件は、世間の注目をひくことによって得られる「自己満足の追求」になっている、という指摘をどこかの本で読んだ。


グリーンスパンも、ここが問題だと述べている。ちと引用するけど、



繁栄が広がれば、あるいは繁栄が広がるからこそ、猛烈な競争や変化によって、自尊心の源泉である現在の地位が脅かされるのを恐れる人が多くなる。幸福度は、物資的な豊かさそのものよりも、対等だと思える周囲の人や同僚や目標とする人の豊かさと比べてどうか、といったことにはるかに大きく左右される。



つまり、だけど、幸福度は、かなりの部分で、相対的なものだということだ。衣食住の心配について、先進国の人々は、かなり心配しないですむ。少なくとも、途上国の人々みたいに、明日のパンの心配をして眠るようなことはない。


つまり、衣食住が満たされてしまうと、幸福度は、他者との相対的な差異によって規定されるってことだ。グリーンスパンは、もう一つ、面白い話をしている。


ハーバードの大学院生に、自分の年収が5万ドルで、同僚の年収がその半分の場合と、自分の年収が10万ドルで、同僚の年収がその倍の場合、どちらが幸せかと聞いたところ、大多数が前者を選んだという。この逸話を最初に読んだ時は一笑に付した。だが、奥底に眠っていた記憶が蘇った。ドロシー・ブレイディとローズ・フリードマンが行った1947年の興味深い研究である。



ハーバードの大学院生だから、さぞ、みんな合理的だと思うかもしれない。だが、この逸話が本当だとすると、彼らは、合理的であるというより、人間的なようだ。つまり、絶対的な富の量でなく、他者との相対的な差異によって、自分の幸福度を決めているんである。


その後の、彼の話も耳を傾ける価値がある。


「データが示すように、人間は誰しも他人の収入がどれだけあり、どれだけ使っているか気になるものなのだ。たとえ友達であっても、序列を競うライバルでもある。」


これは、大抵のひとが、同意してくれると思う。


「国の経済が発展し、所得が上昇するに従い、個人は目に見えて幸福になり、ストレスを感じなくなるものだし、富裕層は、所得階層の低い世帯に比べて、おおむね幸せであることは、調査によって示されている。」



これも事実。大抵の場合、所得が多い方が幸せであると言える。だから、生活水準は重要なのだ。





「だが、人間の心理では、生活水準が上昇したことによる当初の喜びは、贅沢が地位に見合うようになると、たちまち消えるものだ。新たな水準がすぐに「普通」だと認識されるようになる。充足感は、一時的なものなのだ。」




しかし、それでもなお、努力して競争し、生活水準をあげ、最後には富を得ても、やっぱり幸せには必ずしもなれないのは、どうやら、このせいのようだ。つまり、喜びは永続せず、新たな水準が普通になってしまうのだ・・・・。



今の我々が、世界でもっとも、豊かな国に住み、高い生活水準を誇り、充実したインフラに囲まれて生きているのに、幸せになれないのは、ある意味では、このせいなのだ。


つまり、幸福が相対化してしまっている。誰かと比べることによって、幸福の大きな部分が規定されてしまうのだ。勝ち組、負け組なんて表現はその典型で、誰かと比べることによって、その人が幸せかどうかが決まってしまう。


つまり、だが、自分より「劣った人々」が沢山いないと、その人は幸せを実感できにくくなっているんじゃないかってこと。


考えるだけでおぞましいけど、でも、どうも、それが真実のような気がするわけ。


だから、資本主義は嫌われる。なぜなら、それは敗者を生み出すからだ。そして、現状、どうも、先進国の人々は、相対的にしか幸福を感じられない世界にいる。


つまり、自分よりおとった人々がいないと、幸福を感じられないという悪夢のような精神世界にいるんじゃないかってこと。そして、相対的な敗者になると、とても不幸に感じるマインドを発達させているらしい。たとえ、先進国に生まれたとしても。


これが、努力をしても決して幸せになれない理由じゃないかって話。


幸福が相対化した結果、自分より「劣った人」がいないと幸福を感じられないという素晴らしい物差しで幸福が決定されるようになった。


である以上、重要なのは努力じゃないんだ。


多くの場合、人が幸福になれるどうかは、周りに貴方より相対的に劣った人がどれだけいるかで決定されるんだ。


貴方の周りに貴方より優れた人しかいない場合、貴方は不幸せになり、劣った人間しかいなければ、貴方は幸福になれるってわけ。


そんなおぞましい話。もっとも、これはグリーンスパンによれば、ソーンスタイン・ベブレンって人が1899年に「有閑階級の理論」って中で似たような話を書いてたらしいけど。個人の財やサービスの購入は、「隣人に負けないように見栄をはる」ことと結びついているってね。


まぁ、適当な話なんで、あんまし鵜呑みにはしないでください。


とはいえ、アラン・グリーンスパンの「波乱の時代」は本当に面白くて勉強になるので、是非とも読んで欲しい本。今日書いた話なんて、グリーンスパンの受け売りがほとんどです。ようするに書評的あさましともいいますが。

でも、ほんとに、自叙伝という域を超えて、経済学の初歩的な教科書として、また金利について勉強できる本としても使えるくらい、いい本なんです。考えさせられることも多いと思う。是非、読んでみてください。




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2008年03月01日

就職氷河期と資本主義

いやね、この話題のるかそるか考えて、結局、のることにしたわけですが、

2008-02-27 - reponの日記

この猛烈なパワハラエントリから始まって、


小市民も幸せに暮らせる社会へ - 雑種路線でいこう


氷河期の猛吹雪にズダボロに引き裂かれた人々と、グングン成長して人生を謳歌した人たち - 分裂勘違い君劇場


楠さんと分裂君が反応して、


その彼らに思い切って聞いてみればいい。「なんで僕にこんなひどい仕打ちができるんですか」って。

君の年収分を賭けてもいい。彼らにはそんな自覚ないから。それどころか彼らは彼らで「俺たちがこんなに一生懸命やっているのに、なんであいつは足を引っ張るんだ」、と思っているから。


小市民の敵は、小市民



で、弾さんがこう反応してきたんだけどさ。


この手の就職氷河期の話は、そこいらで散々、話合われてきているから、みなさんも飽き飽きしているだろうけど、まぁ、聞いてくださいよ。


あのね、就職氷河期の話になるんだが、これが時々、成果主義とか市場原理主義のせいだと言われることもあるんだけど、これは間違いなのね。


なんでかって話になるんだけど、まず、マクロな話になるんで、退屈な話かもしれないけど、日本って、正社員を簡単に解雇できないのよ。労働法の関係上、簡単に首切れない。


で、なんだけどね。一部のエクセレントカンパニーって会社は、コストに占める人件費の割合が低く、景気循環の影響を受けにくい。こういう会社は、法律で守らなくても、労働者をとても大切にあつかう。


なんでかって?だって、コストに占める人件費の割合が低いんだから、コスト削減の際に、まずリストラって形を取らないで済むし、景気循環の影響を受けにくいなら、景気後退にリストラをせずにすむから。


アメリカや日本で、エクセレントカンパニーって呼ばれる会社の多くは、こういう特徴を持っている。あるいは、かつては持っていたわけ。


だから、アメリカでいえばIBMやコダック、今の日本企業でいえば、任天堂とかね。こういう企業はとても従業員を大切にできる。なぜなら、彼らの財務体質がそれだけ強靱だからなわけ。経営者が人徳者だからじゃないの。きちんと裏付けがあったから出来たの。


けど、大部分の企業は、現実にはそうじゃない。大抵、コストに占める人件費の割合は大きいし、それから、景気変動の影響を受ける事業を行っているわけ。


そういう企業は、どうしたって、不況になったら、人員削減をしないといけない。リストラせずにすませるなんて、そういう企業には不可能なの。終身雇用なんて、こういう企業には構造上できるはずがないの。たとえば、トヨタなんて、本来、終身雇用なんて出来るはずがない。


でも、日本の大企業のいくつかは、今でも終身雇用的なシステムを取っているところがある。なぜ、そんなことが出来るのか、考えたことはある?


理由は、ぶっちゃけると、外部に切り離し可能な労働人口を抱えているからなわけ。


いわゆる派遣労働、期間工、フリーター、全部そうなんだけど、こういった人達は、全員、企業が人員カットを行わないといけなくなった場合に、最初に削れる人員として、最初から雇われているのね。先にも述べたけど、労働法の関係上、日本じゃ、簡単には労働者をリストラできない。でも、不景気になったら、リストラしないと、コストの関係上、どうしようもない企業がある。


そういうリスクを負っているのが、こういう層なわけ。派遣、期間工、フリーターは、最初にクビにされるリスクを負わされている。一方で、まぁ、景気が過熱してくると、一番最初に賃金があがるのもここなんだけどね。(労働市場が流動化しているから)そして、景気が良くない時は、失業しているか、もしくは給料が超低い状態で我慢しないといけなくなる。もし、そうなっていないなら、どこかおかしな所が、市場に存在するってことになる。この話は、又別の話なので、おいておくとして。(今、求人倍率が凄いことになっている愛知とかはバイトの時給がうなぎのぼりだとか。)



あのね、問題の根本は、市場原理主義のせいでも成果主義のせいでもない。


日本企業が、労働者のクビを切れない文化、あるいは切りにくい法制度があるってことが根源なの。


俺がいつも不思議に思うのは、クビを切れないのに成果主義なんて導入して意味あるの?ってこと。成果主義のいい点は、身も蓋もないことを言えば、一番できない奴を追っ払って、外部からもっと出来る奴と、とっかえることでしょ?


ところが、これが日本じゃできない。


もともと、仕事ができない人は、会社にしがみつきやすい。それなのに、そういう人が年功序列で偉くなってしうまうのが、日本株式会社の問題の一つだった。かつては。


出来る人はもともと実力があるんだから転職して、もっといい企業にいってしまう。結果、会社は、無能な連中の固まりになるってピーターの法則じゃないが、そういう悪いサイクルがまわってしまう可能性がある。


何度も言うけどね、問題の根源は、成果主義でも市場原理主義でもない。日本企業がクビを切りにくいのが問題なの。降格が起こりにくいことも、問題を促進してしまう。


クビが切りにくく、降格が起こりにくい場合、企業内では、そのしわ寄せが、平社員と派遣に代表されるような、外部の労働人口に寄せられちゃうのよ。


何故ならって、クビ切りにくいんだから、正社員を一気には増やせない。景気悪くなったときに、人を増やしすぎると、困ったことになるからね。


けどね、企業は景気のいい時とか忙しい時は、仕事量が増えちゃう。仕事量が増えたら、人増やすか、個々人の生産性をあげるか、あるいは地獄のような残業させて乗り切るかになる。


今の日本では、正社員増やすのは難しいし、生産性はすぐにあがるもんでもない。結果として、残る選択肢は、地獄のような残業地獄になるわけだ。


もともと、正社員ってのは、派遣などに比べて、労働市場の需給関係から、給料がすぐにあがったりはしない。解雇されにくいのと、福祉とかのサービスとの引き替えでそうなっている。


だから、企業にとっては、安い賃金で長時間労働させるには、正社員のほうが都合がいいわけ。で、その結果として、猛烈な長時間残業させられているのが、今の日本の正社員となっているわけ。場合によっては、サービス残業地獄な人もでる。



派遣に代表されるような外部労働人口がかぶるのは、もちろん、首切りリスクだ。会社の業績が悪くなったら、すぐに、人件費をクビ切れるように、外部労働人口を整えておいているんだからね。


で、僕がいいたいのは、どういう事かっていうとね。


あのね、結局の話、この問題の根っこはどこか?っていうと、根っこはね。見もふたもないが、「労働者を幸せにしてあげよう」と考えて作られた労働法そのものにある欠陥だって事。


特に、「労働者のクビを簡単には切れないようにする」ってとこだ。誰だって、失業は嫌なもんだ。だから、こういう風な形の法律が出来た。そこまではいい。


ただ、現実には、企業の多くは、その時々に合わせて、労働人口を拡大させたり、縮小させたりしないといけないのに、そういったダイナミックな企業活動が、この法律のせいで、かなりの部分、制限されてしまった。


その結果として、ゆがみが生まれてしまった。


正社員の過酷な残業地獄、大量の外部労働人口と正規社員の格差の問題だ。


結果としてだけどね。「正社員のクビを切りにくくする(労働者を守る)」って法律は、上手く行かなかったの。失業にふるえる人が多かった時代であれば、誰もが望んだものであったかもしれない。でも、現実には、それは機能するはずもないシステムだった。長期間、それが維持されてきた事は、ある意味では凄いことなんだけどね。


日本やドイツでは、それがかなり長期間維持された。今でもそうだけどね。で、なんだけど、じゃあ、市場原理主義のアメリカみたいにすれば、いいのか?って話になるけどさ。


そうするってことは、アメリカみたいに、出来ない奴はクビにされる。これは容赦なく行われる。パワハラが起こる以前に、生産性の低い奴は、次から次へとほっぽり出される世界になる。


残酷なことを言わせてもらえば、どういう形にしろ、「群れで一番弱い犬には過酷な運命がつきものだ」って事。日本型のステークホルダー資本主義にしろ、アメリカ型の株主重視型の資本主義にしろね。


日本型経営ってのが一時、もてはやされた。終身雇用と年功序列。でも、そのシステム事態が問題があるってことを失われた10年は明らかにした。


社内のステークホルダーには、残業地獄。社外の労働人口には首切り格差地獄ってね。


アメリカ型経営は、残業は少なくなるし、パワハラみたいなのは、少なくなるだろう。何故なら、必要なら、人を増やせばいいだけだし、必要なくなったら、即クビを切ればすむ話だから。「出来ない奴をなじるよりクビ切るほうが早い」わけだしね。そして、出来る奴と出来ない奴は、容赦なくふるい分けられて行き、格差は当然拡大する。


残念だけど、現状、理想的な資本主義ってのは存在しない。なぜなら、資本主義ってのは、その性質上、「誰かが負けないといけない」からだ。勝ち負け競争の世界なんだから、どうしてもそうなる。勝者と敗者を容赦なくわかつシステムなんだからね。


クビ切られるのが嫌で、労働者を保護しても、結局、誰かが負けなくてはならなかったってわけ。それが資本主義なの。


でも、それこそが、資本主義が社会主義にシステムとして勝利した理由でもある。


何故なら、常に、技能をもたない、教育をうけていない人々を最も弱い立場に追いやるのが資本主義だからだ。キリギリスには、常に過酷な運命しか待っていない。


だが、一方で、働いて貯蓄し、投資を行い、何か新しいものを生み出していくことが出来る人々に報酬を与えるのが資本主義であり、新しいものを生み出したアリには報酬が与えられるのが、正当な資本主義なわけ。


古いモノを壊し新しいモノを絶えず生み出し、世界を改善していく力こそが資本主義が社会主義に勝利した理由なの。


でも日本は、必ずしもそうじゃなかった。


失われた10年を生み出した決定的な原因の一つに、不良債権の処理で日本が迷走したことがある。最近、読んだ記事の中でお気に入りのフレーズを使わせてもらえば、「考えうる中で最悪の手段を使って」、日本はデフレを悪化させ、不況を長引かせ、経済をズタズタにしてきた。


この間のグリーンスパンの「私の履歴書」にこんな話がでてくる。

宮沢元蔵相との会話でよく覚えているのは、邦銀の不良債権問題を巡る議論だ。80年代末に米国でも同様の問題に直面したが、私はその時の解決法を詳しく説明した。整理した貯蓄金融機関の担保不動産を整理信託公社(RTC)が安値で売り、不動産市場を動かしたことで、米国では問題を早期に解決した。宮沢元蔵相は辛抱強く、笑みを浮かべながら聞いていたが、最後に「それは日本のやり方ではない」と言った。金融破綻や多くの失業者をうむことを意味するからだ、と。



これね、今のサブプライム問題がひどくなれば、遅かれ早かれ、アメリカは、これとにたことをやると思っているの、僕はだけどね。


グリーンスパンは、RTCの理事だった。そして最終的には、RTCは、数百億ドルの不動産を安値で売却した。


そんな事したら、余計不動産が安くなってしまわない?とか思うかもしれない。確かに、短期ではそうなる。だが、長期では違う。


なぜなら、そこで大量の物件が売りに出されたことで、底値が形成されるからだ。底値で買った人は、とてつもない利益を手にすることができる。これもわかりきった話なのだ。


こういう行為をハゲタカとののしる人もいるかもしれない。たしかに、ほめられた行為とは言えないかもしれないけれど、彼らのおかげで、底値が形成され、そして不動産市場では、再び、価格の上昇が起こったんである。


一人が大もうけすれば、我も我もと、投資家が二匹目のドジョウを狙って飛び込んでくるからだ。


しかし、この方法は、劇薬だ。このS&L危機では、アメリカだけで、1500の銀行が倒産したし、失業者も大量にでた。だが、一方で、アメリカは日本のような長期間の停滞には陥らずにすんだ。


日本は、これが出来なかった。理由は、悲しいが、宮沢元首相のいった通りだ。失業と金融機関の破綻を日本は受け入れれなかった。


もし、宮沢元首相にもっと政治的な才能と、冷徹さがあったら、自民党をまとめ上げて、総選挙でフルボッコにされる覚悟で、不良債権処理を早期にすませることができたかもしれない。


ただ、それができる政治家が出現したのは、不良債権が雪だるま式に膨れあがった2000年代のことだった。遅すぎたともいえる。小泉内閣になってようやく、不良債権の本格的な処理が行われたからだ。


で、最初の問いに戻るんだけど、要するにね、僕たち自身が政府に泣きついても、これっぽっちも事態は良い方向に向かわないって例の典型ケースが、ある意味では日本だったの。そして、古いものを壊し、新しいものを作ることを怠ってきた。企業は永遠であるっていう、ありえない理念が80年代に流行ったせいかもしれないけどね。


戦後の日本の高度成長は、アメリカの自由主義と自由貿易の恩恵を存分にうけたからで、社会主義に走ったからじゃない。戦後、焼け野原の日本に、新しいシステムを築いたから、日本は成長した。


就職氷河期は、日本の国政そのものの誤りだったのと同時に、我々自身が倒産と失業を受け入れれなかったからでもある。これは対になっている。日本は、古いものを壊して新しいものを作ることを怠ってしまったの。


そして、就職氷河期と、ニートやフリーター、そして派遣の増加は、なにを将来の日本にもたらすかっていうと、日本の低成長と、それに伴う低い生活水準になる。なぜなら、ここ10年、日本って国は、既存の労働者を守る一方で、新卒の労働者を冷遇し、外部労働市場においやるか、フリーターにしてしまったりしたからだ。これは、新しい労働人口への投資を怠ったという見方が可能だから、それはすなわち、将来の低成長、低い生活水準に結びついてしまう。


日本は、こうして、これからの10年のみずから低成長を招う可能性があるわけ。自己実現的に、自らを貧乏に追いやってしまう。実際、そうなってしまう可能性が高いって思ってる。既存の年齢が上でもうすぐ退役してしまう労働者を優遇し、新卒に対する投資を怠ったり、過酷な労働で酷使して使い潰せば、それは将来の低成長へとつながるのは当たり前だから。


誰もがいい暮らしをしたいと思いながら、あやまった方法を選び、自分たちの貧乏を自己実現しようとしている。特に、ここ10年。


僕が、日本型資本主義、時々、ステークホルダー資本主義って奴に、非常にうさんくさい目を向けているのは、このせいだ。


現実的には、アメリカ型の株主型資本主義と同じくらい問題があって、その上、時として、将来の低成長すら招くシステムなのに、未だにそれを称揚するなんて馬鹿げている。


株主型資本主義もステークホルダー資本主義も、道義的には糞の山だ。なぜなら、どちらも、結局のところ、誰かが負けなければならないからだ。


ただし、前者は、畑の肥やしくらいにはなるが、後者は核廃棄物でなんの役に立たないと最近思ったりもする。


最後に僕がいいたいのは、「我々は負けを受け入れる覚悟」と「リスクをとる決意」をする必要があるってこと。倒産や失業を受け入れ、同時にリスクを取って何かを始めることを、もう一回最初から始めないといけない。リスクを取って再挑戦することも時には必要になるのを受け入れないといけない。


負けを受け入れるって事は、古いものがいつかは滅びるってことを受け入れるってことだ。どんなものもいつかは古くなる。そして壊れる。これを受け入れないといけない。


そして、どんなに今いる場所が心地よくても、時には、リスクをとって、新しいことを始めないといけない事があるってこと。日本で、今うまくいっている産業も、30年もすれば威勢を失うだろう。その時のために、新たな産業を育てないといけない。それは楽なことじゃない。でもやらないといけない。プロがアマに戻って、最初からやり直すのは大変だ。でもやらないといけない事でもある。


どちらも、楽なことじゃないのはわかっている。でも、患者にはそれが必要なんだと僕は思う。過去10年と同じ過ちを繰り返すわけにはいかないから。
posted by pal at 02:35 | Comment(15) | TrackBack(9) | コラム このエントリーを含むはてなブックマーク | 編集

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